春秋時代201 東周景王(二十三) 子産の刑書 前536年

今回は東周景王九年です。
 
景王九年
536 乙丑
 
[] 春正月、杞文公が在位十四年で死に、弟の・鬱(または「郁釐」)が継ぎました。平公といいます。
魯は杞国と対立していましたが、同盟国と同じように弔問しました。
 
[] 秦が景公を埋葬しました。
魯も大夫を秦に送って景公の葬送に参加させました。
 
[] 三月、鄭の子産が刑書を鼎に鋳ました(これを「鋳刑書」といいます)。成文化された刑法が国民に公開されます。当時は「刑法は民に教えないもの」と考えられていたため、知識人から多くの批判を招きました。
 
晋の叔向も子産を譴責する書信を送りました「以前、私は子(あなた)に望みがあると思っていましたが、今、それはなくなりました。昔、先王は事の軽重によって罪を裁き、刑辟(刑法)を作りませんでした。民が争心(刑法を盾にして争う心)をもつことを畏れたからです。それでも犯罪を無くすことができなかったら、義によって防ぎ、政政令によって正し、礼によって行動し、信によって守り、仁によって養ったのです。禄位を定めることで従う者を励まし、厳格果断な刑罰によって淫(放縦)の者を威圧し、それでも効果がないことを心配して、忠によって諭し、行(善行)によって奨励し、務(専門の知識)によって教え、和によって使い、敬(厳粛な態度)によって臨み、彊(威厳)によって対応し、剛(強い心)によって罪を断じたのです。更に、聖哲(聡明賢能)の上(卿。相)、明察の官(官吏)、忠信の長(郷長。地方官)、慈恵の師(教師)を求めたので、民を使っても禍乱が起きませんでした。民がもし辟(法)を知ったら、上を畏れることがなくなり、争心が生まれ、法書を根拠にし、徼幸(運に頼ること)によって刑から逃れるようになります。これでは民を治めることができません。
夏朝は政治が乱れて政令を犯す民が生まれたため)『禹刑』を作り、商朝は政治が乱れて『湯刑』を作り、周朝は政治が乱れて『九刑』を作りました。これら三辟(三法)が生まれたのは、全て叔世(衰世。末期)のことです。
今、吾子(あなた)は鄭国の相として封洫(農地の区分けする水溝)を作り、謗政(民に誹謗される政策。二年前の『丘賦』を指します)を立て、参辟(三種類の法。刑書の内容のようです)を制し、刑書を鋳て、民を安定させようとしていますが、困難ではありませんか。『詩』にはこうあります『文王の徳に倣って日々四方を安んじる(儀式刑文王之徳,日靖四方。『周頌・我将』)。』また、こうもあります『文王にならって万邦に信を作る(儀刑文王,万邦作孚。『大雅・文王』)。』このようであれば、辟(法)は必要ありません。民が争端(争いの元。ここでは刑法)を知ったら、礼を棄てて刑書を盾に取るようになります。錐刀の末(鼎に鋳られた刑書の文字。錐刀は文字を刻む工具)が一つ一つ争われ、乱獄(法を犯す者)が増えて賄賂も横行するようになります。子が世を終わる時までに(子産が死ぬまでに)、鄭は敗亡するのではないでしょうか。『国が亡ぶ時、法制が多くなる(国将亡,必多制)』と言います。まさにこの事でしょう。」
子産が返事を書きました「吾子(あなた)の言う通りです。しかし僑(子産)は不才なので、考えが子孫に及びません。今の世を救うだけです。その命(叔向の言)を受け入れることはできませんが、大恵(大恩)は忘れません。」

晋の叔向は国民が法を知ることで狡猾になり、鄭は今後乱れるだろう、と予言しました。しかし子産は、今後乱れるかどうかは分からないが、今現在、法を明らかにする必要がある、と確信していました。春秋時代も終盤に入り、礼徳を基本にした道徳規範がますます廃れ、階級制度も崩壊しつつあったため、礼徳といった抽象的なものではなく、法という具体的な規則で国を治める必要があると子産は考えていました。
この約二十年後の前513年に晋も成文法を作り、鼎に鋳て国民に公布します。その時は孔子が晋を諌めることになります。
しかしその後も、法令の明確化は各国に取り入れられ、戦国時代の変法改革(秦)につながっていきます。

晋の士伯瑕士文伯)が言いました「火(大火星)が見えた。鄭で火災が起きるだろう。火(大火星)が現れる前に(通常なら周暦五月に大火星が現れます。この時はまだ三月です)、火を使って刑器を鋳た(鼎の鋳造には火を使います)。辟(法)をめぐって争論を招くことになるはずだ。火(大火星)がこれを象徴しているのだとしたら、火災が起きるとしか考えられない。」
 
[] 夏、魯の季孫宿(武子)が晋に入りました。魯が莒の地を領有したのに晋が討伐しなかったからです。
晋平公が季孫宿のために享(宴)を開き、籩(食器。料理の意味)を通常の礼よりも増やしました。すると季孫宿は退出し、行人(賓客の対応をする官)を通じてこう伝えました「小国が大国に仕える時、討伐を免れることができたら、他に貺(賞賜)を求めず、貺を得るとしても三献(享宴の礼の一種)を越えてはならないものです。今、豆(食器。豆は汁物を容れ、籩は乾食を置きました)が加えられましたが、下臣には度が過ぎたことです。」
韓起(韓宣子)が言いました「寡君(晋君)はあなたに喜んでほしいのです。」
季孫宿が言いました「寡君(魯君)にとっても過ぎたことなのに、下臣にとってはなおさらです。国君の隸(臣下)に貺が加えられるとは、聞いたことがありません。」
季孫宿はかたくなに拒否し、増やした料理を除いてから享宴に参加しました。
晋人は季孫宿が礼に通じていると称賛し、厚い礼物を贈りました。
 
[] 杞が文公を埋葬しました。
 
[] 宋の寺人(宦官)・柳は平公に寵用されており、太子・佐がこれを嫌っていました。
右師・華合比が太子の歓心を買うために「私が彼を殺しましょう」と言いましたが、寺人・柳に知られてしまいました。
寺人・柳は北郭(北の外城)に穴を掘り、犠牲を殺し、盟書を埋めてから、平公に報告しました「合比が亡人の族(亡命者の一族。陳に逃げた華臣とその一党。東周霊王十六年・前556年参照)を招いて北郭で盟を結びました。」
平公が人を送って調べさせると、盟書が見つかります。
当時、華亥(華合比の弟)が右師の職を狙っていたため、華亥も寺人・柳に協力して「以前からそのような噂を聞いていました」と証言しました。
平公は華合比を放逐し、華合比は衛に奔りました。華亥が右師に任命されます。
 
華亥が左師・向戌に会った時、向戌が言いました「汝夫(汝。軽視した言い方)も亡命することになるだろう。汝は自分の宗室(宗主)すら滅ぼした。他の者にどう対するつもりだ。また、他の者は汝にどう対するだろう。『詩(大雅・板)』にはこうある『宗主は石垣であり、それを壊してはならない。自分を孤立させて恐れを招いてはならない(宗子維城,毋俾城壊,毋独斯畏)。』汝は恐れなければならない。」
 
[] 六月丙戌(初七日)、鄭で火災がありました。
 
[] 楚の公子・棄疾が晋に行きました。前年、韓起が楚に来たためです。
棄疾が鄭を通った時、鄭の罕虎(子皮)、公孫僑(子産)、游吉(子太叔)が鄭簡公に従って、柤で慰労しました。しかし棄疾は会見を断ります。鄭簡公が強く求めたため、棄疾はやっと同意しました。
棄疾は楚王に謁見する時と同じ態度で鄭簡公に接し、自分の馬八頭を簡公に贈りました。子皮に会った時には上卿に対する礼を用いて馬六頭を贈り、子産には馬四頭を、子太叔には馬二頭を贈ります。
また、棄疾は随行する自分の家臣に対して、馬の放牧や柴刈りの禁止、農地に入らないこと、樹を伐らないこと、野菜・果物を取らないこと、家屋を破壊しないこと、財を強要しないことを命じて、こう宣言しました「命を犯す者がいたら、君子(官職がある者)は廃し、小人(雑役の者)は降す(階級を下げる)。」
棄疾一行は鄭国内に滞在している間、横暴な振る舞いありませんでした。
行きも帰りもこのようだったため、鄭の三卿は棄疾が将来、王になると判断しました。
 
前年、韓起が楚に行った時、楚人は出迎えませんでした。公子・棄疾が晋の国境に来た時、晋平公も棄疾を出迎えようとしませんでした。すると叔向が言いました「楚は辟(邪)であり、我々は衷(正)です。なぜ辟に倣うのですか。『詩(小雅・角弓)』にはこうあります『汝(上)の教えに民は従う(爾之教矣,民胥效矣)。』我々のやり方を守ればいいのです。人の辟を真似することはありません。『書尚書・説命)』にはこうあります『聖人が準則になる(聖作則)。』善人を準則とするべきなのに、人の辟を準則とするのですか。匹夫でも善を行ったら、民はそれに倣います。国君ならなおさら善を行わなければなりません。」
平公は諫言に喜び、公子・棄疾を出迎えました。
 
[] 秋九月、魯が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。旱だったためです。
 
[] 徐国の儀楚(徐の大夫。もしくは太子)が楚を聘問しましたが、楚霊王は儀楚を捕えました。
暫くして儀楚が逃走したため、霊王は徐の離反を恐れて洩に徐を討伐させました。
すると呉が徐を援けます。
楚の令尹・子蕩罷)が呉を攻めるために豫章から兵を出し、乾谿に駐軍しました。しかし呉軍が房鍾で楚軍を破り、宮厩尹・棄疾韋龜の父)を捕えました。
子蕩は敗戦の責任を洩に被せて処刑してしまいました。
 
当時の楚に関して、『国語・呉語』に記述があります。伍子胥の発言の一部です。
楚霊王は国君としての道を行わず、臣下の箴諫(忠告・諫言)を受け入れず、章華(地名)に楼台を築き(翌年述べます)、山を穿って石郭(棺を納める石室)を作り、漢水を導いて帝舜を真似た陵墓を築きました(舜の墓は九疑山にあり、山の周りに水が流れています)。彼は楚国を疲弊させ、陳と蔡の隙を窺い、方城内(楚の国境内)の政治を修めず、諸夏(中原諸国。主に陳と蔡)を越えて東国徐夷・呉・越)の討征を謀り、三年かけて沮水と汾水を渡りました。その結果、民は飢餓と労役の苦しみに堪えられなくなりました。
 
[十一] 冬、魯の叔弓が楚に入りました。聘問と敗戦の慰問のためです。
 
[十二] 十一月,斉景公が晋に行き(これは『春秋左氏伝』の記述。『史記・燕召公世家』では、晋に行ったのは高偃)北燕討伐の許可を求めました。晋が盟主だからです。
晋の大夫・士(または「王正」)士鞅の相(補佐)となり、黄沿岸河で斉景公を迎え入れました。
晋は斉の出兵に同意しました。
 
十二月、斉景公が北燕を討伐し、斉に出奔していた燕簡公(または恵公。東周景王六年・前539年参照)を帰国させようとしました
しかし晏嬰がこう言いました「燕君は帰国できない。燕には既に国君がおり、民にも二心がない。我が国の主君は貪婪で、左右は阿諛追従している。大事を行うにも信がない。だから成功するはずがない。」

史記・晋世家』は晋が燕を討伐したと書いていますが、斉の討伐に同意したという意味だと思われます。
 

 
 
次回に続きます。