春秋時代203 東周景王(二十五) 子産の晋聘問 前535年(2)

今回は東周景王十年夏の続きからです。
 
[] 晋が杞国の国境を定めに来ました。一部は魯が領有していますが、魯昭公が黙って楚に朝見したため、怒って干渉し始めたようです。
季孫宿が成(孟氏の邑。元は杞国の地)を晋に贈ろうとしましたが、成の家宰を勤める謝息が反対して言いました「『たとえわずかな智慧しか無くても、器を守ることになったら人に貸さないことが礼である(雖有挈缾之知,守不假器,礼也)』といいます。夫子(孟僖子・仲孫貜。昭公と共に楚にいます)が主君に従っているのに、守臣(謝息)が邑を失ったら、吾子(あなた)も私の忠心を疑うでしょう。」
季孫宿が言いました「主君が楚にいるから、晋の罪を買ったのだ。更に晋の命(杞国の地を返すこと)を聞かなかったら、魯の罪はますます重くなり、晋師が来てもわしには防ぐことができなくなる。とりあえず彼等に与え、晋に隙ができたら杞から取ればいいではないか。汝には桃(桃郷)を与えよう。成の地が戻ったら、誰もそれを領有することはない(再び孟氏の邑になる)のだから、二つの成を得たようなものではないか。魯の憂いがなくなり、孟孫の邑が増えるのだから、子(汝)が心配することはない。」
しかし謝息は、桃には山がないと言って辞退します。そこで季孫宿は萊邑と柞邑も加えました。
謝息は桃に移り、晋が杞のために成を取り返しました。
 
[] 楚霊王が魯昭公を新台(章華台)の享宴に招きました(東周景王十四年・前531年にも記述があります。史記』の『魯周公世家』『十二諸侯年表』は翌年の事としています
霊王は長鬣(背が高く体格がいいこと。または髭が長いこと)の者を相(賓客の対応をする役)とし、大屈(弓の名)を昭公に贈りました。
しかし暫くして弓を与えたことを後悔します。
それを知った疆が魯昭公に会いに行って祝賀しました。昭公が何の祝賀か聞くと、疆が言いました「斉と晋、越が久しくあの弓を欲していますが、寡君は彼等には与えず、貴君に贈りました。貴君は三鄰に備え、慎重に宝を守ってください。私はこれを祝賀したのです。」
昭公は恐れて弓を返しました。
 
[] 鄭の子産が晋を聘問しました。
ちょうど晋平公が病を患っていたため、韓起(韓宣子)が子産一行を迎え入れ、個人的に問いました「寡君は病で寝込んで三カ月になります。全ての望(山川の祈祷等)を行いましたが、一向に良くなりません。最近、夢で黄熊が寝門(寝室の戸)に入るのを見ました。これは何の厲鬼(悪鬼)でしょうか。」
子産が言いました「晋の国君には英明があり、しかも子(あなた)が大政(正卿)を勤めているので、厲鬼が現れるはずがありません。昔、堯が羽山で鯀を誅殺した時、その神(神霊)が黄熊になって羽淵に入りました。黄熊は夏郊夏王朝の郊祭の対象)になり、三代にわたって祭られました(夏・商・西周が黄熊を祭りました。但し、商と周は郊祭ではなく、群神の一つとして祀ったようです)。晋は盟主でありながら、黄熊を祀っていないのではありませんか。」
韓起が夏郊(黄熊)を祀ると、平公が病から回復しました。
平公は子産に莒の二方鼎(莒国が晋に献上した二つの鼎。鼎の足が三つの物は「円」、四つの物は「方」といいます)を下賜しました。
 
[] 鄭の子産が豊施(字は子旗。公孫段の子)に代わって州県(州は地名です。晋から公孫段に与えられました。東周景王六年・前539年参照)を晋の韓起に返還することにしました。
子産が韓起に言いました「かつて貴国の主君は公孫段の能力を称賛し、州田(州の土地)を下賜しました。しかし今、公孫段は不幸にも早世し(本年一月に死にました。後述します)、貴君の徳を久しく享受できなくなりました。その子は州田を敢えて領有することができず、また、貴国の主君に報告することもできないので、こうして私から個人的に子(あなた)にお伝えします。」
韓起は辞退しようとしましたが、子産が言いました「古人にはこういう言葉があります『父が薪を割っても、子が荷を背負うことはできない(「其父析薪,其子弗克負荷。」父親が勤勉に働いて家業を成したとしても、その子には重荷を背負うことができない)。』施(豊施)は先人(父)の禄を受け継ぐことすら畏れています。大国の賞賜を継ぐことはなおさらできません。吾子(あなた)が政治を行っている間は彼の不才を赦したとしても、後の人が疆場(国境。州県)の事を話すようになったら、敝邑(鄭国)が罪を得て、豊氏は大討を受けることになります。吾子が州を受け入れれば、敝邑は罪から免れることができ、豊氏も安泰です。よって敢えてお願いに来ました。」
韓起は同意して平公に報告しました。平公は州県を韓起に与えます。
しかし韓起はかつて趙武と州県を争った時の事を思い出し、州県を私有することを恥じて、宋の大夫・楽大心が領有する原県(元は晋邑ですが、宋の楽氏の邑になっていたようです)と交換しました。
 
[] 鄭の人々が「伯有が来た!」と言って各地に逃走し、国内が騒ぎになりました。伯有は子晳に殺された良霄です(東周景王二年・前543年参照)
 
前年(東周景王九年・536年)二月、ある人が夢で伯有を見ました。伯有は甲冑を着てこう言いました「壬子(景王九年三月初二日)、余は帯(駟帯。子晳に協力しました)を殺す。明年壬寅(景王十年正月二十七日)、余は段(公孫段。伯有を攻撃しました)を殺す。」
前年(景王九年)三月壬子(初二日)、駟帯が死んだため、鄭の国人は伯有の復讐を恐れました。
本年(景王十年)正月壬寅(二十七日)、公孫段も死んだため、国人はますます恐れます。
翌月、子産が公孫洩(子孔の子。子孔は東周霊王十八年・前554年に殺されました)良止(伯有の子)を大夫に立てて伯有の霊を鎮めると、騒動はやっと収まりました。
子太叔が理由を聞いたので、子産が答えました「鬼(霊)は帰る所があれば厲鬼(悪鬼)にはならない。私は彼を帰るべき場所に帰らせたのだ(良止が大夫になったので、正式に伯有の家系の祭祀を継承することになりました)。」
子太叔が問いました「公孫洩を大夫にしたのはなぜですか?」
子産が言いました「喜ばせるためである。(伯有は)その身には義がないのに喜びを求めていた(生前は不義によって殺され、死後は鬼となって満足を求めた)。政治を行う立場にいたら(子産を指します)大義を行って民を喜ばせなければならない(原文は「従政有所反之,以取媚也」です。直訳が難しいので、『春秋左伝正義』を参考にしました。『正義』の解説はこうです。伯有も子孔も不義によって殺されたのに、悪鬼になった伯有の子だけが後嗣に立てられたら、民は朝廷が悪鬼を恐れたのではないかと疑問を持ち、不満が生まれます。そこで、大義によって誅殺された者の後嗣を立てたのであり、悪鬼を畏れて立てたのではないという姿を示すため、悪鬼とは関係ない公孫洩も大夫に立てました)。民は喜ばなければ政治を信じず、信じなければ従うこともない。」
 
子産が晋に行った時、趙成(趙景子。趙武の子。中軍の佐)が聞きました「伯有は今後も鬼になりますか?」
子産が答えました「なります。人は死んだばかりの時には魄となり、魄が生まれたらその陽気の部分を魂といいます(魄は陰気です)。生前の用物(衣食住に使う物)が洗練されていて豊富なら、その魂魄は強くなり、精爽(精神)は神明(神霊)になるまで存在します。匹夫・匹婦(庶人の男女)でも強死(殺害等による異常死)したら、その魂魄は人に憑依して淫厲(暴虐)を行います。良霄(伯有)は我々の先君・穆公の後裔で、子良の孫、子耳の子にあたり、敝邑の卿として三世に渡って政治を行ってきました。鄭は小国で、諺にある『狭小の国(蕞爾国)』に該当しますが、三世に渡って政柄を握ってきたので、その用物は多く、洗練されています。また、その族も大きく勢力も厚いのに、強死したのですから、鬼になるのは当然です。」
 
[十一] 子皮(罕虎)の族人は酒が好きで節度がなかったため、馬師氏(罕朔)との関係が悪化しました。
本年二月、罕朔が罕魋(子皮の弟)を殺しました。
 
罕氏について整理します。罕氏は鄭穆公の子・子罕(公子・喜)の子孫です。子罕は子展(公孫舎之)と公孫鉏を産みました。公孫鉏は馬師に任命されたため、その子孫は馬師氏を名乗ります。
兄の子展は罕虎(子皮)と罕魋を産み、弟の公孫鉏は罕朔(馬師氏)を産みました。
 
罕魋を殺した罕朔は晋に出奔しました。
 
晋の韓起が鄭の子産に罕魋の待遇について問いました。子産はこう答えました「羈臣(寄生する臣。亡命した臣)は死から逃れて許容されただけで充分です。官位を選ぶ必要があるでしょうか。卿が国を棄てたら(一階級落として)大夫の位に従い、罪人(本国で罪を犯して出奔した者)はその罪の軽重によって位を落とすのが、古の制です。朔(罕朔)は敝邑においては亜大夫でした。その官は馬師でした。罪を犯して逃走したので、(貴国での待遇は)執政(晋の執政者。韓起)の処置に任せます。死を逃れただけでも大きな恩恵なので、我々が彼のために官位を求めることはありません。」
韓起は子産の適切な回答を評価し、罕朔を嬖大夫(下大夫)として遇しました。
 
 
 
次回に続きます。