春秋時代204 東周景王(二十六) 衛襄公と後継者 前535年(3)

今回で東周景王十年が終わります。
 
[十二] 秋八月戊辰(二十六日)、衛襄公が在位九年で死にました。
 
晋のある大夫が士鞅(范献子)に言いました「衛は恭しく晋に仕えているのに、晋は礼を用いず、賊人をかばってその地を奪いました(衛の孫林父が戚邑を挙げて晋に出奔した時、晋は衛から懿氏六十邑を取って孫林父に与えました。東周霊王二十五年・前547年参照。これでは諸侯が二心を抱きます。『詩(以下、二つとも小雅·棠棣)』にはこうあります『鶺鴒(鳥の名)が平原で助けあい、兄弟に急難があれば助けあう(鶺鴒在原,兄弟急難)。』『死別は恐れるべきだ。兄弟が互いに懐かしむ(死喪之威,兄弟孔懐)。』兄弟が和睦しなければ、お互いが相手に良くすることもできません。遠人に対してならなおさらです。これで誰が晋に帰順するでしょう。衛の後嗣に対しても礼を用いなかったら、衛は必ず我々に叛し、晋と諸侯の関係も絶たれることになります。」
士鞅がこれを韓起に伝えると、韓起は進言に喜び、士鞅を衛に送って弔問しました。戚田が衛に返還されます。
 
衛の斉悪が周王室に襄公の喪を報告し、王命(王の言葉)を請いました。
周景王は郕簡公を衛に送って弔問し、襄公に追命(死後に命を送ること)しました「叔父(衛襄公。同姓の諸侯)が陟恪(天に昇ること)し、我が先王の左右で上帝を補佐することになった。余は高圉と亜圉(どちらも周の先祖。姫姓の衛にとっても共通の先祖です)を忘れない。」
 
[十三] 九月、魯昭公が楚から帰りました。
仲孫貜(孟僖子・釐子は昭公を補佐する立場にいながら礼に精通していなかったことを恥じて、礼に詳しい者に従って学び始めました。
後に死に臨んだ仲孫貜が大夫を集めてこう言いました「礼とは人の幹(根本)である。礼がなければ立つことができない。わしは孔丘孔子。仲尼)という達者(一つの事に秀でた者)がいると聞いた。彼は聖人の子孫だが、その族は宋で滅んだ。先祖の弗父何は本来、宋国の主になるべき人物だったが、厲公に譲った。その後、正考父に至って戴公・武公・宣公を補佐し、三命(三公の命)によって上卿を勤めたが、ますます恭敬になった。だから鼎銘にはこう書かれている『一命を受けて頭を低くし、再命を受けて体を屈め、三命を受けて身を伏せる。道の端を小走りで移動しても(恭敬な姿を示します)、余(正考父)を侮る者はいない(たとえ腰を低くしても人から軽視されることはない)。饘がここにあり、鬻にここがあり(饘も鬻も粥の一種。倹約を意味します)、余の糊口をしのぐ(一命而僂,再命而傴,三命而俯,循牆而走,亦莫余敢侮。饘於是,鬻於是,以餬余口)。』彼の恭敬な態度はこのようだった。かつて臧孫紇もこう言った『聖人(弗父何、正考父等、孔子の先祖)の中に明徳な者がいるのに、誰も国君にならなかったら、その後世に必ず達人(達者。賢人)が現れる。』これは孔丘を指しているのだろう。もしわしが死んだら、説と何忌(どちらも仲孫貜の子。説は閲とも書き、南宮敬叔といいます。何忌は孟懿子です)を夫子孔子に仕えさせ、夫子から礼を学んでその地位を安定させよ。」
こうして孟懿子と南宮敬叔は孔子に師事することになりました。
孔子が言いました「過ちを補うことができるのは君子だ。『詩(小雅・鹿鳴)』に『君子は正しいことに倣う(君子是則是效)』とある。孟僖子にはそれができた。」
仲孫貜が死ぬのは東周敬王二年・前518年の事なので、孔子は三十五歳前後です。『史記孔子世家』は本年孔子十七歳)の出来事としていますが誤りです(この出来事は東周敬王二年・前518年に再述します)
 
[十四] 周王室の卿士・単献公が親族を遠ざけて羈(客臣)を信任しました。
冬十月辛酉(二十日)、襄公と頃公の一族(単襄公の子が頃公。頃公の子は靖公といい、靖公の子が献公)が献公を殺し、成公(献公の弟)を立てました。
 
[十五] 十一月癸未(十三日)、魯の季孫宿が死にました。
 
晋平公が士伯瑕に問いました「わしが日食について質問した内容が、全て本当になった(衛の国君と魯の卿が死んだことを指します)。このようなこと(予言)は常にできるのか?」
士伯瑕が答えました「それは無理です。六物は同じではなく、民心は一つではなく、事序(事象の軽重)には同類がなく、官職(官員の職能・能力)も一定ではないので、始めが同じでも終わりは異なるものです。常にこうなるとは限りません。『詩(小雅・北山)』には『ある者はゆっくり休み、ある者は忙しく国に仕える(或燕燕居息,或憔悴事国)』とあります。終(結果。事象の状態)が異なるというのはこういうことです。」
平公が問いました「六物とは何だ?」
士伯瑕が答えました「歳・時・日・月・星・辰です。」
「歳」は歳星、つまり木星を指すという解釈と、一年を指すという解釈があります。「時」は四時、すなわち四季です。日は太陽、または十干(甲日から癸日までの十日)を指し、月は空の月、または十二カ月を指します。星は二十八宿、または空に見える全ての星です。辰に関しては下述します。
平公が問いました「多くの者が寡人に辰について語るが、それぞれ内容が異なる。辰とは何だ?」
士伯瑕が答えました「日と月が会うことを辰といいます。だから辰(十二支)は日に配されるのです。」
日と月が会うというのは、太陽と月が重なるという意味で、毎月初一日(朔)にあたります。よって一年は十二回の辰をもちます。十二辰は十二の月と一致し、十二の月は十二支に符合します。子月、牛月、寅月等です。そのため、ここでの「辰」は十二辰の意味とされ、十二支に置きかえられています。十二支が日(甲日から癸日までの十干)に配されると、六十の干支(甲子・乙丑・丙寅等)になります。
これ以外にも「辰」には北辰北極星、大辰(心宿)、三辰(日・月・星)等の意味があります。
 
[十六] 衛の襄公夫人・姜氏(宣姜)には子でできず、嬖人(寵姫)姶が孟縶を産みました。しかし孟縶は足に障害があり、歩行が困難でした。
ある日、衛の卿・孔烝鉏(孔成子。孔達の孫)が夢で康叔(衛国の祖)に会いこう言われました「元(孟縶の弟。夢を見た時はまだ産まれていません)を立てよ。余が羈(孔烝鉏の子)の孫・圉(仲叔圉。孔文子)と史苟(または「史狗」。史朝の子。文子)に補佐させる。」
史朝も夢で康叔に会い、こう言われました「余は汝の子・苟と孔烝鉏の曾孫・圉に元を助けるよう命じる。」
史朝が孔烝鉏に夢の話をすると、孔烝鉏も同じ夢を見たと言います。
晋の韓起が諸侯を聘問した年(東周景王五年・前540年)姶が子を産みました。元と命名されます。
孔烝鉏が周易で筮占して「元が衛国を有して社稷の主となる」と言うと、『屯』の卦が出ました。その後、「余はやはり縶(孟縶)を立てたい。(神霊の)嘉を得たい」と言って占うと、『屯』が『比』の卦に変わりました。
孔烝鉏はこれを史朝に見せます。
史朝が言いました「(『屯』の卦の辞は)『元亨(大吉。直訳すると「元が通る」「元に順がある」)』です。疑うことはありません(元が後嗣になるべきです)。」
孔烝鉏が問いました「(元とは)長の意味ではないのですか?(年長者の孟縶が後嗣になるべきでしょう)。」
史朝が言いました「康叔が元に名を付けたのです。元こそ長(この長は「善」の意味です)というべきです。孟(孟縶)はその人(康叔に選ばれた人)ではなく、(足が不自由なので)宗主にもなれません。よって長とは言えません。また、(『屯』が『比』に変わった)繇辞(占の辞)は『利建侯(侯を建てることが利となる)』です。嫡子(孟縶)が跡を継ぐのなら、侯を建てる(立てる)ことにはなりません。『建』とは嫡子ではない者が建てられることをいうのです。二卦(卦の辞。『元亨』と『利建侯』)がどちらもそう言っているのですから、子(あなた)は元を建てるべきです。康叔が命じ、二卦がそれを告げたのです。筮と夢が一致するというのは、武王が経験したことです。従えば間違いがありません。そもそも、足が弱い者は家にいなければなりません。国君は社稷を治め、祭祀に臨み、民人を奉じ、鬼神に仕え、会朝(会見や朝見)に参加しなければならないのに、家にいることができますか。人はそれぞれ利(長所)に基づいて選択するべきです。」
孔烝鉏は元に襄公を継がせました。これを霊公といいます。

以上は『春秋左氏伝(昭公七年)』の記述です。『史記・衛康叔世家』は少し異なります。
襄公には寵愛した賎がいました。この妾が妊娠した時、で会った 男に会いました。男はこう言いました私は康叔だ。汝のに衛を擁させよう。には『元』と名付けよ。」
は不思議に思って孔成子(衛孔烝鉏にこの話をしました。
成子は「康叔とは衛のと言いました。
やがて児が産まれたため、襄公に夢の話をしました。襄公「天が授けたものだと言って「」と名付けました
この年、襄公が死にました。襄公夫人にはがいなかったため、が後嗣になりました。これを霊といいます
 
[十七] 十二月癸亥(二十三日)、衛が襄公を埋葬しました。
 
 
 
次回に続きます。