春秋時代205 東周景王(二十七) 陳滅亡 前534年

今回は東周景王十一年です。
 
景王十一年
534年 丁卯
 
[] 春、晋の魏楡で石が話をしたという情報がありました。
晋平公が師曠に「石がなぜ話をしたのだ?」と問うと、師曠はこう答えました「石は話ができません。何かが憑依したか、そうでなければ民が聞き間違えたのです。臣はこう聞いたことがあります『国の事が農事に影響したら、怨恨誹謗が民の中に生まれ、話すことができない物も話しをする。』今、宮室が高大奢侈になり、民力が使い尽くされているため、民には怨みと非難が生まれ、生活を保つのも難しくなっています。石が話をしてもおかしくありません。」
当時、晋平公は虒祁の宮を建造していたため、師曠はそれを非難しました。
 
叔向が言いました「子野(師曠の字)の言は君子のものだ。君子の言とは信があり、徴(証明)がある。だから怨恨は君子の身を避けて行くのだ。逆に小人の言とは僭(不信)であり徴がない。だから怨みと咎がその身に及ぶのだ。『詩(小雅・雨無正)』にはこうある『話ができないとは哀しいことだ。舌から言葉が出なければ、自分を疲れさせるだけだ。話ができるとは素晴らしいことだ。流れるように巧みに話し、自分を安んじることができる(哀哉不能言,匪舌是出,唯躬是瘁。哿矣能言,巧言如流,俾躬処休)。』まさに子野の言がこれであろう(師曠が質問に答えながらうまく諫言したので、「巧言如流」と評価しました)。宮殿が完成したら諸侯が必ず叛し、主君が咎を受ける。夫子(彼。師曠)はそれを知っているのだ。」
 
資治通鑑外紀』はここで晋平公に関する話を紹介していますが、別の場所で紹介します。

[] 陳哀公の元妃(嫡夫人。正妻)・鄭姫は太子・偃師(悼太子。悼は諡号を産み、二妃(次妃)は公子・留を、下妃(三妃)は公子・勝を産みました。このうち、二妃が哀公に寵愛されたため、公子・留も気に入られて司徒・招と公子・過(どちらも哀公の弟)に託されました。
余談ですが、陳は帝舜の子孫の国といわれており、舜には三妃がいたため、陳の国君も三妃を立てていたようです。
 
やがて、哀公が病にかかりました。
三月甲申(十六日)、公子・招と公子・過が太子・偃師を殺して公子・留を後継者にしました。
太子・偃師の子・呉は晋に出奔しました。
 
夏四月辛亥(十三日。これは『春秋左氏伝』の記述です。『春秋』経文では辛丑・初三日になっています)、哀公が憂いのため首を吊って死にました。在位年数は三十五年です。
 
干徴師が楚に哀公の死と公子・留の即位を報告しましたが、公子・勝が楚に太子が殺されたことを訴えたため、楚は干徴師を捕えて殺しました。
公子・留は鄭に出奔します。
 
以上は『春秋左氏伝(昭公八年)』の記述です。『史記・陳杞世家』は異なる内容になっています。
かつて陳哀公は鄭から妻を娶り、長姫が悼太子・師を産み、少姫が偃を産みました(『春秋』経文と『左氏伝』の「偃師」が「偃」と「師」の二人になっています。恐らく『史記』の誤りです)
また、二人の嬖妾(寵妾)がおり、長妾は留を、少妾は勝を産みました。哀公は留を寵愛して自分の弟である司徒・招(または「」)に託しました。
やがて哀公が病にかかりました。
本年(『史記・陳杞世家』では陳哀公三十四年となっていますが、三十五年の誤りです。『十二諸侯年表』も三十五年に書かれています)三月、司徒・招が悼太子を殺し、留を太子に立てました。
哀公は怒って司徒・招を誅殺しようとしましたが、逆に司徒・招が兵を動員して哀公を包囲します。哀公は首を吊って死にました。
司徒・招は留を国君に立てました。
四月、陳が楚に使者を送って哀公の訃告を届けました。
楚霊王は陳の乱を聞いて使者を殺し、公子・棄疾に陳を討伐させます。陳君・留は鄭に出奔しました。
 
[] 魯の叔弓が晋に入りました。虒祁宮の完成を祝賀するためです。
鄭簡公も晋に入って祝賀しました。游吉(子大叔)が相を勤めています。
晋の史趙が游吉に会って言いました「偽りも甚だしいではないか。弔する(悲しみ慰める)べきなのに、祝賀するとは。」
游吉が言いました「なぜ弔すのですか。我々だけが祝賀しているのではありません。天下(諸侯)が祝賀しているのです(諸侯が祝賀しているのですから、我が国だけ祝賀しないわけにはいきません)。」
 
[] 秋、魯が紅(魯地)で大蒐(狩猟。閲兵式)を行いました。魯の東境にあたる根牟から西境の商(宋国。宋国は商王朝の後裔です。魯では定公の名である宋を避けて商とよびました)・衛に渡る全国で兵が動員され、革車(兵車)千乗が紅に集まりました。
 
[] 七月甲戌(初八日)、斉の子尾が死にました。子旗(欒施)が子尾の家政を掌握しようとします。
丁丑(十一日)、子旗が梁嬰(子尾の家宰)を殺しました。
 
八月庚戌(十四日)、子旗が子成(または「子城」。頃公の子・固)、子工(または「子公」。子成の弟・鋳)、子車(または「子淵捷」「子淵棲」。頃公の孫・捷)を放逐しました。三人とも斉の大夫で、子尾の党です。
三人は魯に奔りました。
子旗は子良(子尾の子・高彊)を家宰に立てました。
 
子良の家臣達が相談して言いました「孺子(子供。子良を指します)は既に成長した。それなのに子旗が我々の家を助けているのは、兼併したいと思っているからだ。」
家臣達は武器を持って子旗を攻撃しようとしました。
陳無宇(陳桓子)も子尾と仲が良かったため、武器を受け取って子良の家臣達を助けることにしました。
 
ある人がこの動きを子旗に報告しましたが、子旗は信じようとしません。しかし暫くすると数人が報告しに来たため、子旗は子良の家に行くことにしました。ところが道中でも数人が同じ報告をします。そこで子旗は陳氏の家に行きました。
陳無宇は家を出たところでしたが、子旗が来たと聞いてすぐに戻り、軍服を脱いで游服(宴游の服)に着替えてから子旗を迎え入れました。
陳無宇が子旗に言いました「彊氏(高彊。子良)が武器を配って子(あなた)を撃とうとしていると聞きましたが、子は知っていますか?」
子旗が言いました「聞いたことがない。」
陳無宇が言いました「子はなぜ甲(甲冑。武器)を配らないのですか?無宇も子に従います。」
子旗が言いました「子(汝)はなぜ戦おうとするのだ。彼は孺子である。わしが教え諭してもまだうまくいかないのではないかと心配して家宰を立てた。(もし互いに攻撃したら)先人に対してどうするつもりだ(欒氏も高氏も恵公の子孫です)。子は彼を説得するべきだ。『周書尚書・康誥)』にはこうある『恵まない者に恵みを与え、勉めない者に対して勉める(恵不恵,茂不茂)。』こうであったから康叔は寛大でいられたのだ。」
陳無宇は稽顙(額を地に着けて拝すこと)して言いました「頃公と霊公が子を守っています。私は子の恩恵を受けたいものです。」
両家は和解して以前と同じ関係に戻りました。
 
少し分かりにくいので、家系を整理します。
斉恵公は頃公と公子・欒、公子・高を産みました。
頃公は霊公を産みました。
公子・欒は公孫・竃(子雅)を産み、公孫・竃が欒施(子旗)を産みました。
公子・高は公孫・蠆(子尾)を産み、公孫・蠆が高彊(子良)を産みました。
よって、霊公は子雅と子尾の従兄弟に、頃公は子雅と子尾の伯父になります。
陳無宇が頃公と霊公の名を出したのはそのためです。
 
[] 陳の公子・招が罪を公子・過に着せて殺しました。
 
[] 魯が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。
 
[] 九月、楚の公子・棄疾が陳の太孫・呉(殺された陳の太子・偃師の子)を奉じて陳を包囲しました。太孫・呉は晋に出奔しましたが、棄疾によって呼び戻されたようです。
宋の大夫・戴悪も楚軍に合流しました。
 
冬十月(『春秋左氏伝』『史記・陳杞世家』は十一月としていますが、誤りです)壬午(十七日)、楚が陳を滅ぼしました。公子・招を捕えて越に放逐します。
陳の孔奐(または「孔瑗」。恐らく公子・招の党)が殺されました。
 
陳の輿嬖(車を主管する嬖大夫。嬖大夫は下大夫の意味)・袁克が馬を殺し、玉を破壊して陳哀公と共に葬りました。
楚人が袁克を殺そうとすると、袁克は命乞いをします。暫くして小便をしたいと言い、帳幄の裏で小便をしました。その隙に絰(麻の帯。喪に服す時に使います)を頭に結んで逃走しました。
 
楚霊王が穿封戌を陳公にしました。穿封戌は楚の大夫で、楚の公は県公なので、陳は楚の県になりました。
霊王が言いました「城麇の役で汝はわしに媚びなかった(当時、霊王はまだ王子・囲とよばれており、穿封戌と捕虜を争いました。怒った穿封戌は戈を持って王子・囲を追いかけるほどでした。東周霊王二十五年・前547年参照)。」
 
穿封戌が霊王に従って酒を飲んだ時、霊王が言いました「城麇の役の時、寡人(国君の自称)がこうなると知っていたら(即位すると知っていたら)、汝は寡人に譲っていたであろう。」
穿封戌が答えました「もし主公がこうなると知っていたら、臣は死礼(葬礼。死ぬこと)に至っても楚を安定させていたでしょう(王子・囲に国君になる野望があると知っていたら、楚王・郟敖のために命をかけてあなたを殺していたでしょう)
穿封戌の発言は霊王を憎んでいるという意味ではなく、国王が誰であってもその時の国王のために尽くすという意味です。今後、霊王の命を狙う者がいたら同じように霊王のために命をかけることができるという忠心を表しています。
 
以上は『春秋左氏伝(昭公八年)』の記述です。『史記・陳杞世家』には十一月に楚が陳を滅ぼし、棄疾を陳公に任命したと書かれています
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
晋平公が史趙に聞きました「陳はこれで滅亡したのだろうか?」
史趙が答えました「まだです。」
平公がその理由を聞くと、史趙が言いました「陳は顓頊の後裔です。顓頊が死んだ時、歳星木星は鶉火(星宿の名)にいました。陳が滅ぶ時も同じはずです。今、歳星は析木の津(天河)にいるので、間もなく復国するでしょう。また、陳氏は斉で政権を握ってから滅亡します。幕(顓頊の子。帝舜の先祖。『史記・五帝本紀』には登場しません。古代の伝説は複数の説が存在します)から瞽瞍(帝舜の父)にいたるまで命(天命)に逆らったことがなく、舜によって明徳が重ねられ、その徳は遂(虞遂。帝舜の子孫。商代に遂国に封じられました)まで続き、遂の子孫も代々徳を守ってきました。そのため、胡公・不淫(不淫は胡公の字)の代になって、周王が姓を与え(帝舜の姓は姚ですが、胡公は嬀姓を与えられました)、虞帝(舜)の祭祀を命じました。盛徳は百世の祭祀を受けると聞いています。虞の世数は百に達していません。将来、斉で祭祀が守られるはずです。その兆は既に現れています。」
 
 
 
次回に続きます。