春秋時代207 東周景王(二十九) 陳氏の台頭 前532年

今回は東周景王十三年です。
 
景王十三年
532年 己巳
 
[] 春正月、婺女(女宿。星座名)から一つの星が現れました。
鄭の裨竈が子産に言いました「七月戊子(初三日)に晋君が死にます。今年は歳星木星が顓頊の虚(玄枵。歳星の軌道の一部。女・虚・危の三宿におり、そこは姜氏(斉国)と任氏(薛国)が守る地にあたります。婺女は玄枵の首にあり(婺女は玄枵三宿の頭です)、そこから妖星(新星)が現れました。これは邑姜(斉太公・呂尚の娘。晋の祖・唐叔の母)に禍を告げているのです。邑姜は晋の妣(先祖の妻)です。天は七で数を記し二十八宿は四方に分けられ、それぞれに七宿があります)、戊子は逢公(商代の諸侯。斉の地に封じられていました)が天に昇った日(死んだ日)です。その時(逢公が死んだ時)も妖星が現れました。私は星象から晋君の死を知りました。」
 
[] 斉恵公の子孫にあたる欒氏(欒施。字は子旗)と高氏(高彊、字は子良)は酒好きなうえ、婦人の言を信じて賢人を遠ざけたため、多くの怨みを招きました。また、欒氏と高氏の勢力は陳氏と鮑氏をしのぎ、しかも二氏を嫌っていました。
 
夏、ある人が陳無宇(陳桓子)に言いました「子旗と子良が陳氏と鮑氏を攻撃しようとしています。」
同じ情報が鮑氏(鮑国。文子)にも告げられました。
陳無宇はこれを信じて武器を部下に配り、鮑氏の家に向かいます。途中で酔った子良が車で道を駆けて行く姿を見ました。
陳無宇が鮑氏の家に到着した時、鮑国も部下に武器を配っていました。
陳無宇はまず人を送って二子(子旗と子良)の様子を探らせます。すると二人とも酒を飲んでおり、攻撃しようという様子はありません。陳無宇も鮑国も情報が嘘だったと知りました。しかし陳無宇がこう言いました「報告した者は信用できません。しかし我々が武器を配ったと二子が聞いたら、必ず我々を駆逐するでしょう。酒を飲んでいる今のうちに討つべきです。」
当時、陳氏と鮑氏は関係が良かったため、鮑国は同意し、協力して欒氏と高氏を攻撃することにしました。
 
陳氏と鮑氏の攻撃を受けた子良も兵を動員し、「先に公(斉景公)を得れば、陳氏も鮑氏も手が出せない」と言って虎門(宮門)を攻めました。
 
晏嬰晏子。晏平仲)が朝服を着て虎門の外に立ちました。朝服は戦いに参加しない意志を表しています。四族(陳氏・鮑氏・欒氏・高氏)が晏嬰を招きましたが、晏嬰はどこにも行こうとしません。徒(部下)が聞きました「陳氏と鮑氏を助けますか?」
晏嬰が言いました「彼等に善(この「善」は「義」に通じます)があるというのか?」
徒が聞きました「それでは欒氏と高氏を助けますか?」
晏嬰が言いました「彼等の善が陳氏や鮑氏よりまさっているというのか?」
徒が聞きました「それでは帰りますか?」
晏嬰が言いました「国君が攻撃されているのに、どこに帰るのだ。」
やがて、景公が晏嬰を招いたため、晏嬰は公宮に入りました。
 
景公が大夫・王黒に霊姑(斉桓公の龍旗)を授けて兵を率いさせようとしました。まず吉凶を卜うと「吉」と出ます。しかし王黒は大夫なので諸侯(国君)と同じ旗を使うことを遠慮し、三尺切断してから旗を使いました。
 
五月庚辰(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年の五月には庚辰の日がありません)、四氏が稷(斉の城門)で交戦し、欒氏と高氏が敗れました。二氏は荘(市の名)でも敗れ、国人に追撃されます。最後に鹿門(城門)で敗れ、欒施と高彊は魯に奔りました。
 
陳氏と鮑氏が欒氏と高氏の家財を分けました。すると晏嬰が陳無宇に言いました「主公に譲るべきです。謙譲とは徳の主であり、人に譲ることを懿徳(美徳)といいます。血気がある者は、皆、争う心を持っています。だから力で利を奪おうとしてはなりません。義を思えば人に勝ることができます。義とは利の本です。利を蓄えれば孽(妖害)を生むので、今は蓄えてはなりません。(利は義によって)ゆっくり成長させればいいのです。」
陳無宇は奪った財を全て景公に譲り、莒(斉の邑)で告老(引退)することを請いました。
 
東周景王三年(前542年)、子尾(子良の父)によって子山、子商、子周等の諸公子が追放されました。
子良を破った陳無宇は三人を呼び戻し、個人的に幄幕や器用(器具)、従者の衣屨(衣服・履物)を与えました。子山は棘の地を返され、子商も奪われた邑が返され、子周は夫于(邑名)が与えられました。
東周景王十一年(前534年)、子旗によって子城、子公、公孫捷が追放されました。陳無宇はこの三人も呼び戻し、俸禄を増やしました。
公子や公孫で禄がない者には、陳無宇が自分の邑を分け与えます。
貧困な家庭や孤寡(身寄りがない者)には自分の家の粟を施しました。
陳無宇はこう言いました「『詩(大雅・文王)』はこう言っている『自分が得た賞賜を施しに使ったから、周を建てることができた(陳錫載周)。』桓公も施しができたから霸を称えたのだ。」
 
景公が陳無宇に莒の傍の邑を与えようとしましたが、陳無宇は辞退しました。
しかし穆孟姫(景公の母)が景公に勧めたため高唐の地が陳氏に与えられます。
 
陳無宇は武子・開(または「啓」)と釐子・乞を産みました。
この後、陳氏はますます大きくなっていきます。
 
[] 秋七月、魯の季孫意如(または「隠如」。季孫平子)、叔弓(季孫意如の佐)と仲孫貜が莒を攻撃し、を取りました。
凱旋した季孫意如が太廟に捕虜を献上し、始めて人を使って亳社(殷社ともいいます。亡国の戒めとして、諸侯が国を建てる時に造る社です)を祀りました。
 
斉に亡命した臧孫紇(臧武仲。東周霊王二十二年・前550年参照)がこれを聞いて言いました「周公(魯の祖)は魯の祭祀を受けなくなるだろう。周公は義がある祭祀なら受けるが、今の魯に義はない(人を殺して祭祀を行ったからです)。『詩(小雅・鹿鳴)』にはこうある『徳教が明らかなら、民は軽率にならず、義を重んじる(徳音孔昭,視民不佻)。』(人を殺して祭祀を行うとは)(軽率。短慮)も甚だしい。敢えてこのようなことをしたら、誰が福をもたらすというのだ。」
 
[] 戊子(初三日)、晋平公が在位二十六年で死に、子の夷が立ちました。これを昭公といいます。
『竹書紀年』(今本)は晋平公の死を「十月」としていますが、「七」を「十」と書き間違えたようです。
 
資治通鑑外紀』はここで『韓詩外伝』と『説苑』から晋平公の故事を紹介していますが、別の場所で書きます。

[] 鄭簡公が弔問のため晋に向かい、黄河まで来ましたが、諸侯が死んだ時の弔問は大夫がするというのが礼だったため、晋人は鄭簡公を帰らせました。代わりに游吉が晋に入りました。
 
九月、魯の叔孫(または「叔孫舎」。昭子)、斉の国弱、宋の華定、衛の北宮喜、鄭の罕虎(子皮)および許人、曹人、莒人、邾人、滕人、薛人、杞人、小邾人が晋に入って平公を葬送しました。諸侯の弔問は大夫が行いますが、葬事には卿が出席するのが礼でした。
 
鄭の子皮は出発する時、晋の新君に贈る幣礼を準備しました。それを知った子産が反対して言いました「喪に幣礼が必要ですか?幣を用いるには百輌の車が必要になり、百輌の車には千人の人夫が必要となります。千人が移動したらすぐ帰ることができず、すぐ帰らなければ財を使い果たすことになります。千人の幣礼が繰り返されたら、国が亡んでしまいます。」
しかし子皮は諫言を聞きませんでした。
 
晋平公の埋葬が終わると、諸侯の大夫は新君に会おうとしました。魯の叔孫が「それは礼に合いません」と言いましたが、大夫達は聞きません。
晋の叔向が晋昭公の言葉を伝えました「大夫の事(葬事)は既に終わったのに、孤(国君の自称。晋昭公)に接見を求めている。しかし孤は衰絰(喪服)を着て哀哭しおり、嘉服(吉服)で諸大夫に会いたくても、喪礼がまだ終わっていない(喪服を脱ぐことができない)。また、喪服で諸大夫に会うとしたら、再び弔を受けることになる。大夫はどうするつもりだ。」
諸大夫は答えられませんでした。
 
子皮が全ての財幣を使い果たして帰国し、子羽に言いました「何かを知るのは難しくない。本当に難しいのは行動することだ。夫子(子産)はこの道理を知り、私にはそれが不足している。『書尚書・太甲・中篇)』にはこうある『欲望は法度を破壊し、放縦は礼義を破壊する(欲敗度,縦敗礼)。』これは私のことだ。夫子は度(法度)と礼を知っており、私は欲に対して放縦で、自制することができなかった。」
 
魯の叔孫(叔孫昭子)が晋から帰国しました。大夫が叔孫に会うために集まりましたが、斉から出奔して来たばかりの高彊(子良)は、叔孫に会うとすぐ帰りました
叔孫諸大夫に言いました「人の子として生きるには、慎まなければならない。昔、慶封が亡命した時、子尾は多くの邑を得たが、いくつかを斉君に譲ったので、斉君は子尾を忠臣だと信じて寵用した。後に子尾が死ぬ時、公宮で発病したため、斉君は子尾を輦(車)に乗せ、自ら輦を推して家まで送った。ところがその子(子良)は父業を受け継ぐことができず、ここに逃げて来ることになった。忠は令徳(美徳)だが、その子が継承できなかったら罪は子に及ぶ。だから子は慎む必要がある。先人の功労を失い、徳を棄て、宗廟を空にし、罪が自分の身に及ぶことを恐れなければならない。『詩(『小雅・正月』および『大雅・瞻卬』)には『禍が訪れる場所は、私の前でも後ろでもない(不自我先,不自我後)』とあるが、まさにこの事を言っているのだ(慎重にしなければ先人でも子孫でもなく、自分自身に禍が起きるという意味です)。」
 
[] 冬十二月甲子(初二日)、宋平公が在位四十四年で死に、子の佐が立ちました。元公といいます。
 
元公は元々寺人(宦官)・柳を嫌っていたため、即位したら殺そうと考えていました。
しかし平公の葬儀を行う時、寺人・柳は元公の座席に炭を置いて温め、元公が座る直前に片付けました。
葬儀が終わると元公は寺人・柳を寵用するようになりました。
 
[] 『資治通鑑前編』によると、この年、孔子に伯魚という子ができました。この事は『孔子家語・本姓解』に記述があります。
孔子は十九歳で宋国の官氏の女性を娶りました。一年後に伯魚が産まれます。
伯魚が産まれた時、魯昭公が孔子に一尾の鯉を下賜したため、孔子はそれを栄誉として「鯉」と命名し、字を「伯魚」としました。
伯魚は孔子より先に死にます。五十歳でした。
 
 
次回に続きます。