春秋時代 晋平公の死

晋平公が死んだところで、『資治通鑑外紀』が『韓詩外伝』と『説苑』から平公の故事を引用しています。
本編では省略したのでここで紹介します。
 
まずは『韓詩外伝(巻第六)』からです。
かつて晋平公が西河で遊び、こう言いました「どうすれば賢士を得てこの楽しみを共にできるだろう。」
それを聞いた船人・盍胥が跪いて言いました「国君は士(人材)を愛していないのでしょう。珠玉は江海で産出され、玉石は崑山で採れます。これらの宝物は足が無いのに国君の下に集まっています。それは国君がこれらを好んでいるからでしょう。ところが、士には足があるのに集まりません。それは主君が優れた士を好まないからです。士が集まらないことを憂いる必要はありません。」
平公が言いました「わしの食客は門左に千人、門右に千人を数え、朝食も足らないほどだ。夕方になって市賦(市の税)を集めても、夕食も不足している。なぜわしが士を愛さないというのだ?」
盍胥が言いました「鴻鵠は一挙して千里を飛びますが、六翮(大きな両翼)に頼っています。背上の毛も腹下の毳(毛)も、増えたところで更に高く飛べるわけではなく、減ったところで飛べなくなるわけでもありません。今、国君の食客は門左と門右に各千人いますが、その中に六翮がいるでしょうか。それとも、全て背上の毛、腹下の毳の類でしょうか。」
『新序・雑事一』にもほぼ同じ話が載っています。但し、船人・盍胥は「固桑」という名になっています。
 
次も『韓詩外伝(巻第十)』からです。
晋平公の時代、宝物を保管する楼台で火災がありました。それを知った士大夫が車に乗り、馬を駆けさせて消火に励みます。三日三晩経ってやっと火を消すことができました。
すると公子・晏が束帛(五匹の帛)を持って祝賀し、「とても善い事が起きました」と言いました。
平公が怒って言いました「秘蔵の珠玉は国の重宝なのに、天が火災をもたらした。士大夫は車を走らせ馬を駆けて消火したのに、子(汝)だけは束帛を持って祝賀に来た。これはなぜだ。正当な理由があれば生かしてやろう。それがなければ殺すことになる。」
公子・晏が言いました「理由はあります。臣はこう聞いています。王者は天下に藏し、諸侯は百姓(民)に藏し、農夫は囷庾(食糧庫)に藏し、商賈(商人)は篋匱(箱・箪笥)に藏す。今、百姓は宮外で窮乏し、短褐(麻等で作った裾が短い服。平民の服)は身体を隠すことができず、糟糠(酒糟、米糠等、粗末な食べ物)は口を満たすことができず、このように虚耗しているのに賦税には限りがありません。ところが楼台には民の財貨の大半が藏されていました。だから天が火災を降したのです。昔、桀は海内で暴虐を行い、賦税は限度が無く、万民を苦しめたので、湯(成湯)によって誅され、天下の笑い者となりました。今、皇天が藏台に災を降したのは、国君の福です。それなのに自ら悟ることができなかったら、主君も隣国の笑い者になるでしょう。」
平公が言いました「わかった。今後、財貨は百姓の中に藏すことにしよう(民の財は民に使わせよう)。」
 
次は『説苑・君道(第一)』からです。
晋平公が師曠に問いました「人君の道(道理)とは何だ?」
師曠が答えました「人君の道とは清浄無為であり、博愛に務め、賢人の任用を重視し、耳目を広くして万方を考察し、流俗(世俗の風習・習慣)に拘泥せず、左右の者に制御されず、遥か遠くを見据えて独立しており、頻繁に考績(成績・成果)を省みる、このような態度で臣下に臨むことです。これは人君の操(行動・行為)です。」
平公は納得して「善し(善)」と言いました。
 
最後は『説苑・辨物(第十八)』からです。
晋平公が狩りに出た時、乳虎を見つけました。乳虎は伏せたまま動こうとしません。
平公が振り向いて師曠に問いました「霸王の主が外に出たら、猛獣は伏せたままで起きようとしないという。今、寡人が外出したら乳虎が伏せて動かなくなったが、これは猛獣といえるだろうか?」
盲目の師曠が言いました「(かささぎ)は猬(はりねずみ)を食べ、猬は鵔(伝説の鶏)を食べ、豹を食べ、豹は駮(伝説上の馬に似た猛獣)を食べ、駮は虎を食べるといいます。駮の姿は駮馬(恐らく駿馬)に似ています。今回の狩りでは、主君の車は駮馬が牽いているのではありませんか?」
平公が「そうだ」と答えると、師曠はこう言いました「一度自分を誣(偽る。ここではみえを張ること。自分の功績を過大評価すること)したら窮し、再度自分を誣したら辱めを受け、三度自分を誣したら死ぬといいます。虎が動かないのは駮馬が原因であり、主君の徳義ではありません。主君はなぜ自分を誣すのですか?」
後日、平公が朝会に出ました。すると一羽の鳥が平公の周りを飛んで去ろうとしませんでした。
平公が振り返って師曠に問いました「霸王の主が現れたら鳳が降りて来るという。今、朝会に出たら鳥が寡人の周りを飛び、朝会が終わるまで去ろうとしない。この鳥は鳳ではないか?」
師曠が言いました「東方に諫珂という鳥がいます。その鳥は身体に模様があり、赤い足をもち、鳥を嫌って狐を愛しています。我が君は狐裘(狐の皮で作った大衣)を着て朝会に出たのではありませんか?」
平公が「そうだ」と答えると、師曠が言いました「既に臣はこう言いました。一度自分を誣したら窮し、再度自分を誣したら辱めを受け、三度自分を誣したら死ぬ。鳥は狐裘のために飛んでいるのであり、我が君の徳義のためではありません。なぜ主君は二度も自分を誣すのですか?」
平公は不快になりました。
また後日、平公が虒祁の台で酒宴を開きました。事前に郎中・馬章に命じて階段に蒺藜(棘がある植物)を敷かせ、人を送って師曠を招きます。台に到着した師曠は靴を履いたまま堂を登ろうとしました。すると平公が言いました「人臣でありながら靴を履いたまま人主の堂に登る者があるか?」
師曠は靴を脱いで階段を登ります。師曠は盲目のため、蒺藜が見えません。蒺藜は足に刺さり、驚いてその場に坐ると膝に刺さりました。
師曠が天を仰いで嘆息すると、平公が師曠の手を引いて言いました「今日は叟(老人)と戯れたのだ。叟は何を憂いるのだ?」
師曠が答えました「肉は自ら蟲を生じ、自分(肉)が蟲に食べられることになります。木も自ら蠹(木を蝕む虫)を生じ、自分(木)が喰われることになります。人が自ら妖を興したら、自分を害すことになります。だから五鼎(大夫の食器・祭器)で藜藿(粗末な食物)を調理してはならず、人主の堂廟に蒺藜を生えさせてはならないのです。」
平公が言いました「既にそれをやってしまったが、どうなるというのだ?」
師曠が言いました「妖は既に目前にいます。どうしようもありません。来月八日になったら百官を整え、太子を立てるべきです。主君はもうすぐ死にます。」
翌月八日朝、平公が師曠に言いました「叟は今日が最期だと言ったが、寡人の様子は如何だ?」
師曠は喜ばず、拝謁を終えると帰りました。そのすぐ後に平公が死し、師曠の神明さが知れ渡りました(平公が実際に死んだのは七月戊子なので八日ではなく三日です)