春秋時代208 東周景王(三十) 蔡滅亡 前531年(1)

今回から東周景王十四年です。二回に分けます。
 
景王十四年
531年 庚午
 
[] 春二月、魯の叔弓が宋に行きました。前年死んだ宋平公の葬送のためです。
宋平公が埋葬されました。
 
[] 周景王が大夫・萇弘に聞きました「今の諸侯の中では、誰が吉で誰が凶だ?」
萇弘が答えました「蔡が凶です。蔡侯・般(霊公)がその君(景侯)を殺した年(東周景王二年・前543年)には歳星木星豕韋(歳星の軌道の一部)に居り、十三年経った今年、また豕韋に戻りました。よって蔡がこの一年を越えることはできないでしょう。但し、楚が蔡を領有しますが、楚は悪徳を積み重ねることになります。歳星が大梁に至る時、蔡が復国して楚で凶が起きます(楚霊王が楚王・郟敖を殺した時も、歳星が大梁にいたからです)。これは天の道です。」
 
楚霊王が申に蔡霊侯を招くことにしました。
蔡霊侯が招きに応じようとすると、蔡の大夫が言いました「王(楚王)は貪婪で信が無く、常に蔡を怨んでいます(蔡が楚に近接しているのに服従しないからです)。それなのに今回、幣礼が重く言が甘いのは、我々を誘い出したいからです。行くべきではありません。」
蔡霊侯は諫言を聞き入れませんでした。
 
三月丙申(十五日)、楚霊王が甲士を隠して蔡霊侯を申の酒宴に招待しました。蔡霊侯は酔ったところを捕えられます。
夏四月丁巳(初七日)、楚霊王が蔡霊侯とその士七十人を殺しました。
同時に楚の公子・棄疾が蔡国を包囲しました。

以上は『春秋左氏伝(昭公十一年)』の記述です。
史記・管蔡世家』には「は蔡霊がそのを弑殺したこと(東周景王二年・543年参照)を口実に蔡を討伐することにした」とあります。
 
『春秋左氏伝』に戻ります
晋の韓起(韓宣子)が叔向に問いました「楚は勝つだろうか?」
叔向が答えました「勝ちます。蔡侯はその君(霊侯が殺した蔡景侯)の罪を得たうえ、民を治めることができませんでした。だから天は楚の手を借りて蔡侯を倒したのです。勝てないはずがありません。但し、不信による幸(幸運)は二度も起きないといいます。以前、楚王は孫呉(陳の太孫・呉。かつての陳の太子・偃師の子。東周景王十一年 ・前534年参照)を奉じて陳を討伐し、『汝の国を安定させよう』と約束しました。それを信じた陳人は楚王の命に従いましたが、陳は滅ぼされ、楚の県にされてしまいました。今また蔡を誘ってその君を殺し、その国を包囲しています。幸によって勝てたとしても、必ず咎を受けます。楚王は久しくありません。桀夏王朝最後の王)は有緡に勝ってその国を失い、紂商王朝最後の王)は東夷に勝ってその身を滅ぼしました。楚は(夏・商よりも)小さく位も下なのに、二王よりも頻繁に暴虐を繰り返しています。咎が無いはずがありません。天が楚の不善を助けるのは祚(福)を与えるためではなく、わざと凶悪を厚くさせて罰を降そうとしているからです。天は五材(金・木・水・火・土)を生み、人々はそれを使っていますが、五材の力を使い尽くしたら、人々は五材を棄て去ります。同じように(天が楚王を利用しており、利用し終わったら棄てられるので)楚王は助かりません。」
 
[] 五月甲申(初四日)、魯昭公の母・斉帰(胡女。帰姓)が死にました。
昭公が母の喪中に比蒲(地名)で大蒐(狩猟。閲兵)を行い、礼から外れたとして非難されました。
 
[] 魯の仲孫貜(孟僖子)が邾荘公と会見し、祲祥(または「侵羊」。詳細位置不明。一説では曲阜附近)で盟を結びました。両国の友好関係を確認するのが目的です。
 
会盟の少し前、泉丘にある娘がおり、夢の中で孟氏の廟を帷幕で覆いました。目が覚めた娘は仲孫貜に会いに行き、その僚(友人。近所の娘)も後を追いました。
二人は清丘の社で「私達に子ができても互いに裏切らない」と誓います。
仲孫貜は二人を妾とし、(邑名)に住ませて簉(妾)にしました(もしくは、氏は地名ではなく仲孫貜の正妻の名で、「二人を妾にして正妻の氏を助けさせることにしました。」原文「僖子使助氏之簉」)
 
祲祥の会から戻った仲孫貜は氏に泊まり、泉丘の娘と関係しました。娘は何忌(孟懿子)と仲孫閲(南宮敬叔)を産みます。祲祥の帰りに交わって二子が産まれたようなので、双子という説もあります。
(友人)には子ができなかったため、仲孫閲を養育させました。
 
[] 楚軍が蔡を包囲しています。
晋の荀呉が韓起に言いました「陳を救うことができず、また蔡を救うことができなかったら、晋に親しくする者がいなくなり、晋の不能を知られることになります。盟主でありながら亡国を心配しないようなら、盟主の意味がありません。」
 
秋、晋の韓起、魯の季孫意如、斉の国弱、宋の華亥、衛の北宮佗、鄭の罕虎(子皮)および曹人、杞人が厥憖(または「屈銀」。詳細位置不明。一説では衛地)で会しました。蔡救援を図るためです。
 
鄭の子皮が出発する時、子産が言いました「遠くで開かれる会に参加している間に、蔡は滅ぼされるでしょう。蔡は小国なのに服従せず、楚は大国なのに徳がありません。天は蔡を棄てて楚の悪を重ねさせ、それが満ちたら罰しようとしています。今回、蔡は必ず亡びます。そもそも、自分の主君を殺したのに、国を維持できる者はわずかしかいません。そして三年後には、王(楚霊王)も咎を受けるでしょう。美も悪も歳星の周期によって繰り返されます。王の悪はもうすぐ一周します(歳星は十二年で一周です)。」
 
晋が大夫・狐父を楚に送って蔡の包囲を解くように請いましたが、楚は拒否しました。
 
[] 周の単子(成公)が戚で晋の韓起と会しました。周景王の命を伝える立場にいる単子ですが、その視線は下を向き、言葉もはっきりしません。
後に叔向が言いました「単子はもうすぐ死ぬだろう。朝見には著定(決められた席)があり、会見には特定の表(席次が書かれた標識)があり、衣服には(襟が交わる場所)があり、帯には(結ぶ場所)がある。会朝(会見・朝見)の言は必ず表・著の位(標札が立てられた所定の場所。ここではその場にいる全員の意味)に聞こえなければならない。そうであるから事序(事の道理)を明らかにできるのだ。視線は結・より上でなければならない。これは容貌を正すためだ。言によって命が発せられ、容貌によって態度が明らかにされるものだが、逆にそれらを失ったら誤りを招く。今、単子は王官の伯(長)であり、諸侯の会に王命を伝えに来たのに、視線は帯より上がらず、言も一歩離れたら聞こえなかった。貌(外貌)は容(威儀。儀容)を正すことなく、言は明らかではない。不道(儀容を正さないこと)なら不恭になり、不昭(明らかではないこと)なら不従(人が従わないこと)になる。彼は既に身体を守る気を失っている。」
 
[] 九月己亥(二十一日)、魯が小君・斉帰を埋葬しました。しかし昭公には悲しむ様子が見られません。
 
晋の士(名不明)も葬送に参加しました。礼では、諸侯の夫人が死んだら士が弔問し、大夫が葬送することになっていましたが、晋は盟主なので葬送にも士を参加させたようです。あるいは、大夫も葬送に参加しており、士はその介(副使)を勤めたのかもしれません。
帰国した士が魯の状況を史趙に話すと、史趙はこう言いました「魯君は魯郊になるだろう(必為魯郊)。」
この部分は二つの説があります。一つは魯昭公が出奔して魯の郊外(または隣国)に住むことになる、という意味です。もう一つは昭公の死後、魯の郊祭に配されるという意味です。国君が死んでから跡を継ぐ者がいない場合は、その国君は郊祭で祀られたようです。つまり郊祭に配されるというのは子孫が途絶えるという意味です。魯昭公は晩年に出奔し、死後は弟が継いだので、後嗣が途絶えました。
史趙の侍者が「なぜですか」と問うと、史趙はこう言いました「魯君は帰姓(斉帰)の子であるのに、親を想わない。それでは祖先に守られることがない。」
 
叔向が言いました「魯の公室は衰退するだろう。国君に大喪があったのに国は蒐を中止しなかった。三年の喪がありながら、一日も悲しまなかった。国が喪を悲しみとしないのは主君を畏れないからだ。国君が喪を悲しまないのは親を顧みないからだ。国が主君を畏れず、国君が親を顧みないのに、衰退しないはずがない。いずれ国を失うだろう。」
 
[] 冬十一月丁酉(二十日)、楚軍が蔡を滅ぼしました。元々公子・棄疾が蔡を包囲していましたが、霊王の軍も合流したようです。
霊王は蔡の世子・有(または「友」。蔡霊侯の子で、隠太子とよばれます。隠は諡号です)を捕えて兵を還しました。
 
その後、霊王は隠太子を殺して岡山を祀りました。
申無宇が言いました「不祥なことだ。五牲(五種類の犠牲。牛・羊・豚・犬・鶏)でも同時に用いてはならないのに、諸侯を犠牲に使うとは。王は必ず後悔するだろう。」
 
以上は『春秋左氏伝(昭公十一年)』の記述です。
史記・管蔡世家』には「隠太子・友は霊侯の太子で、平侯が即位した時に殺された」とあります。太子・有(友)は楚霊王に殺されたのではなく、蔡復国後(楚は霊王の次の平王の時代)、平侯によって殺されたとしています。
 
 
 
次回に続きます。