春秋時代209 東周景王(三十一) 楚霊王 前531年(2)

今回は東周景王十四年の続きです。
 
[] 十二月、周の単成公が死にました。
 
[] 楚霊王が陳、蔡および不羹に城を築きました。
棄疾(霊王の弟)が蔡公に任命されます。
これは『春秋左氏伝(昭公十一年)』の記述です。『史記・楚世家』は弃疾(棄疾)を平定させて「陳蔡公」にしたとあります。

『春秋左氏伝』に戻ります。
後に霊王が大夫・申無宇(芋尹)に聞きました「棄疾は蔡でどうしている?」
申無宇が答えました「子を選ぶのは父より相応しい者はなく、臣を選ぶのは主君より相応しい者はない(択子莫如父,択臣莫如君)といいます(国君は適切な人材を選ぶべきです)。鄭荘公は櫟に築城して子元(厲公)を置きました。その結果、昭公が即位できなくしました(厲公が即位して昭公は出奔しました)。斉桓公は穀に築城して管仲を置き、今の斉もその功績に頼っています。五大(太子、同母弟、寵を受けた公子、公孫、世襲の正卿)は辺境に置かず、五細(身分が賤しい者、年少の者、疎遠な者、新しく帰順した者と小人)は朝廷に置かず、親族は外に置かず、羈(他国から来た者)は内に置かないといいます。今、棄疾(公子)が外におり、鄭丹(然丹。鄭から楚に出奔した子革。東周霊王十八年・前554年参照)が内にいます。主君は気をつけるべきです。」
霊王が言いました「国(都)には大城がある。どうだ?」
申無宇が答えました「鄭は京と櫟が曼伯(子儀)を殺し、宋は䔥と亳が子游を殺し、斉は渠丘(葵丘)が無知を殺し、衛は蒲(甯殖の邑)と戚(孫林父の邑)が献公を出奔させました。このようにみると、(五大が要所にいたら)国が害されることがわかります。末が大きければ必ず折れてしまい、尾が大きければ振ることができないのは、主君も知っているはずです(都に大城があっても備えにはなりません)。」
 
以上は『春秋左氏伝(昭公十一年)』の内容です。『国語・楚語上』にも霊王と申無宇の会話があります。
霊王は陳、蔡、不羹に城を築き、僕夫子皙(大夫・僕皙父)を派遣して范無宇(申無宇)に言いました「わしが諸夏(中原諸国)服従させることができず、彼等が晋に仕えているのはなぜだ。それは晋が近く、我々が遠いからだ。今、わしは三国に城を築いた。それぞれ千乗の兵車を供給できる(十里の土地を成といい、兵車一乗、馬四頭、牛十二頭、歩兵七十二人、甲士三人を出しました)。これは晋に相当する数だ。更に楚本国を加えたら、諸侯で帰順しない者はなくなるだろう。」
范無宇が答えました「書籍にこう書かれています『国が大城を築いて、利を得た者はいない(国為大城,未有利者)。』昔、鄭には京と櫟があり、衛には蒲と戚があり、宋には䔥と蒙があり、魯には弁と費があり、斉には渠丘があり、晋には曲沃があり、秦には徴と衙がありました。しかし鄭の叔段(鄭荘公の弟)が京(叔段の邑)で荘公の憂いとなり、鄭は滅亡の危機に瀕しました。櫟人は鄭子(鄭君・子儀)の即位を妨害しました。衛の蒲(甯殖の邑)と戚(孫林父の邑)は献公を出奔させました。宋の䔥と蒙(どちらも宋の公子・鮑の邑。公子・鮑は昭公の兄)昭公を殺しました。魯の弁と費(どちらも季氏の邑)は襄公(公室)を弱くしました。斉の渠丘(雍廩の邑)は無知(斉君)を殺しました。晋の曲沃は斉師欒盈)を受け入れました。秦の徴と衙(どちらも公子鍼の邑)桓公と景公を脅かしました(実際は、公子鍼は桓公の子で、景公の弟です。桓公に寵愛されたため、景公の脅威になりました)。これらは全て諸侯に記録されている、大城を築いて不利を招いた前例です
城邑とは人の身体と同じで、首領(頭)や股肱(四肢)をはじめとし、手拇(指)や毛・脈もあります。大きい部分が小さい部分を操るので、動いても苦労を感じません。地には高低があり、天には晦明(明暗)があり、民には君臣があり、国には都鄙(都と辺境)があるのが、古の制度です。先王はこれが守られないことを恐れたため、義によって制約し、服によって明らかにし、礼によって行動し、名(名号)によって分別し、文によって記録し、言によって表現しました。それが失われるのは、秩序が変えられるからです。辺境は国の尾です。牛馬は処暑(七月)になると虻が増えるために尾を振れなくなります(虻で尾が大きくなるからです)。臣はそのようになること(辺境の三国が大きくなること)を恐れます。そのようになったら(三城が大きければ)、この三城が諸侯を畏れさせることはないでしょう。」
子皙が帰って報告すると、霊王はこう言いました「彼は天(天道)を少し知っているが、民則(国を治める方法)は知らないようだ。これは虚妄の言である。」
すると右尹・子革(大夫・然丹)が言いました「民とは天が生んだものです。天を知っていれば必ず民も知っています。その言を恐れるべきです。」
 
[十一] 『資治通鑑外紀』は楚霊王と伍挙の話を紹介しています。出典は『国語・楚語上』です。
章華の台(東周景王十年・前535年参照)を築いた霊王は伍挙と共に台に登って言いました「この台は美しい。」
伍挙が言いました「国君たる者は服寵(徳によって民に慕われること)を美とし、民を安んじることを楽とし、徳を聞くことを聡(耳がいいこと)とし、遠方の人を帰服できることを明とする、と聞いています。高大な土木(建物)や彤鏤(漆の彫刻)を美とし、金石(鍾と磬)匏竹(管楽器)が盛大でにぎやかな様子を楽とする、という話は聞いたことがありません。大きい建造物や、奢侈・淫色を目にすることを明とし、音楽の清濁を聞きわけること(音楽に没頭すること)を聡とする、という話も聞いたことがありません。
先君の荘王は匏居の台に住みましたが、その高さは国氛(国の吉凶の気)を観測するに足りる高さに過ぎず、広さは宴豆(宴席の食器)が入る程度の広さに過ぎず、使用する木材は城郭の守備に影響せず、出費は官府の負担にならず、民は時務(農時)を廃さず、官員は朝常(日常の政務)を変える必要がありませんでした。荘王の宴に参加した者には宋公と鄭伯がいます。相礼(宋公と鄭伯の補佐)は華元と駟騑(子駟)が行いました。宴を補佐したのは陳侯、蔡侯、許男、頓子で、それらの国の大夫がそれぞれの国君に従いました。先君はこうして乱を除き、敵に勝ち、諸侯に憎まれることがなかったのです。
しかし今は王がこの台を築くために国民を疲弊させ、財用を使い果たし、年穀を損ない(民が農業に従事できなかったためです)、百官も多忙になり、国を挙げて工事に力を注ぎ、数年かけてやっと完成しました。諸侯と共に台に登りたくても、(王に徳がないので)諸侯で至る者はいません。そこで太宰・啓(楚の卿・子)魯侯(昭公)を招き、蜀(魯地)の役を引用して無理に参加させたのです。魯侯が来ると、容貌が優れた豎(未成年)に宴を補佐させ、長鬣(髭が長くて美しいこと)の士に相礼を行わせましたが、臣には何が美しいのは分かりません(東周景王十年・前535年参照)
美とは上下、内外、大小、遠近に害を及ぼさないことをいいます。目で観て美しくても、財用を用いて困窮させては美ではありません。民の利(財)を集めて自分を富ませたら、民を貧しくすることになります。これを美といえるでしょうか。国の君となる者は、民と共にいるものです。民が痩せているのに、なぜ国君が肥えることができますか。しかも私欲が増えれば徳義が少なくなります。徳義が行われなければ、近い者は離反し、遠い者は命を拒絶するようになります。天子が尊貴なのは、公・侯を官正(官の長)とし、伯・子・男に師旅(軍)を指揮させているからです。美名を得ることができるのは、令徳(美徳)を遠近に施し、大小の国を安定させることができるからです。国君が民の利を集めて私欲を満足させ、その結果、民が消耗して安楽を忘れたら、遠心(離反の心)を招きます。これは甚だしい悪であり、目で観て美しくても意味がありません。
先王の台榭(土を盛った場所を台、建物が無い台を榭といいます)は、榭は軍事を習う場所であり、台は氛祥(凶の気を氛、吉の気を祥というようです)を観測する場所でした。だから榭は大卒(王の士卒)に臨む広さがあれば充分で、台は気を観測する高さがあれば充分だったのです。その場所は穡地(農地)を侵さず、支出は財用を費やさず、工事は官業(官員の政務)を煩わせず、日程は時務に影響しませんでした。瘠磽の地(痩せた土地)が選ばれ、城守の末(城の防備に使う木材で余った物)が使われ、官僚が暇な時に指揮をさせ、四時(四季)の隙(農閑期)に完成させたのです。だから『周詩詩経・大雅・霊台)』にはこうあります『霊台の建造が始まった。経営しよう、建造しよう。庶民が参加して、日をかけずに完成させる。建造の時間を急ぐことなく、庶民は孝子のように進んで働く。王西周文王)は霊囿に至り、牝鹿がそこに伏している(経始霊台,経之営之。庶民攻之,不日成之。経始勿亟,庶民子来。王在霊囿,麀鹿攸伏)』本来、台榭とは民に利を教えるためにあります(台は気を観測して吉凶を把握し、榭は軍事を強化して国を守るためにあります)。その台榭を建てるために民を窮乏させたら、本末転倒です。王がこの台を美しいと言い、自分の行動が正しいと思うのなら、それは楚にとって危機となります。」
 
[十二] 『竹書紀年』(古本・今本)によると、この年、龍門から三里離れた場所で黄河が赤くなりました。
 
 
 
次回に続きます。