春秋時代211 東周景王(三十三) 費邑の叛乱 前530年(2)

今回は東周景王十五年冬十月の続きからです。
 
[] 魯の季孫意如(季平子)が季氏を継いだ時、南蒯(南遺の子。季氏の費邑の宰)に礼を用いませんでした。
季氏に不満を抱いていた南蒯が公子・憖(または「整」。子仲)に言いました「私が季氏を追い出し、財産を公(公室)に返します。子(あなた)が季氏に代わってその地位に立つなら、私は費邑を挙げて公臣となります。」
子仲がこれに同意したため、南蒯は叔仲小(叔仲子。叔仲穆子。叔仲帯の子)にも同じ話をし、季氏の無礼を訴えました。
 
かつて季紇(季悼子。季孫意如の父)が死んだ時、叔孫昭子)が再命(国君の命。命の重さによって一命・再命・三命という等級があります)によって卿に任命されました。
季孫意如が莒を討伐して勝つと(東周景王十三年・前532年)、叔孫に与えられた再命は三命に改められます。叔孫は莒討伐に参加しませんでしたが、季孫意如が功績によって三命を与えられ、卿に任命されたため、先に卿になった叔孫も再命から三命に改められたようです。
 
叔仲小は季孫氏と叔仲氏の関係を悪化させたいと思っていたため、季孫意如に言いました「三命が父兄を越えるのは非礼です(三命逾父兄,非礼也)。」
これは理解が難しい言葉です。直訳すると「父や兄が三命を受けていなければ、子や弟は三命を受けてはならない」となりますが、そのような決まりはないはずです。もしこのような規則があったら、先代が三命を受けたことがある家系でなければ子弟が三命を受けることはできなくなります。楊伯峻の『春秋左伝注(昭公十二年)』の解説を読むと、「莒討伐に参加していないのに父兄を越えて三命を受けるのは非礼である」という意味にも思えますが、はっきりしません。
叔仲小の言葉を聞いた季孫意如は「その通りだ」と言って納得し、叔孫に自ら三命を辞退するよう勧めました。
すると叔孫はこう言いました「我が叔孫氏には家の禍があり、嫡子が殺されて庶子が立つことになった。だから(私)がここにいるのだ。もしも禍によって叔孫氏が倒されるとしたら、命(天命)を聞くだけだ。君命(三命)を廃さないとしても、私の地位は既に定められている(禍を越えて既に私が家を継いだ。これは天命によって定められた地位なので、君命を廃すか廃さないかは関係ない)。」
叔孫は入朝すると官吏にこう命じました「わしは季氏を訴えるつもりだ。書辞に偏りがあってはならない。」
これを聞いた季孫意如は叔孫に三命を辞退するように勧めたことが誤りだったと気付き、恐れて罪を叔仲小に着せました。
叔仲小は南蒯、公子・憖と共に季氏討伐を相談するようになります。
 
公子・憖は魯昭公にこの事を報告してから共に晋に向かいました。本年夏のことです。二人は晋から兵を借りて季氏を討伐するつもりでしたが、昭公は晋に入国を拒否されてしまいました。
南蒯は計画の発覚と失敗を恐れ、費邑を挙げて斉に降ります。
使者として晋に行った公子・憖は、帰路について衛まで来た時、魯国内の混乱を聞きました。そこで介(副使)を置いて先に帰りましたが、郊外で費(南蒯)が叛したと知り、斉に出奔しました。
 
南蒯が謀反する前に、情報を得た郷人が南蒯の家の前を通って嘆いて言いました「憂いるべきことだ。思慮は深いが謀は浅い(専横する季氏を討伐するのはよく考えてのことだが、魯と関係が悪化している晋に頼るのは浅はかだ)。身は近いが志は遠い(季氏の臣なので季氏の近くにいるが、魯の公室を思って謀反を企んだので志は遠い)。家臣(卿大夫の臣)でありながら国君のために謀るには、優れた人材が必要だ(南蒯では荷が重いことだ。『恤恤乎,湫乎攸乎。深思而浅謀,邇身而遠志,家臣而君図,有人矣哉
 
南蒯が枚筮を行いました。牧は「微」に通じ、「隠す」という意味です。「牧筮」とは目的をはっきりさせずに吉凶を卜うことです。
筮の結果、『坤』の卦が『比』の卦に変わり、卦辞には「黄裳元吉」とありました。南蒯はこれを大吉だと信じ、孟椒(子服恵伯)に見せてこう聞きました「今、何かを望んだらかなうでしょうか。」
孟椒はこう答えました「私はかつて『易』を学びました。忠信の事を望むのなら成功します。そうでなければ必ず失敗します。外見は強いのに内側が温順なことを忠といいます。和によって貞(卜)を行うことを信といいます(『比』は剛強、『坤』は従順に通じ、また『比』は水と土が和している卦のようです)。だからこの卦の辞を『黄裳元吉』というのです。黄は中(内側に着る服)の色です。裳は下の飾(下半身に着る物)です。元は善の長です。中が不忠ならその色を得ることができず、下が不恭ならその飾を得ることができず、事が不善ならその極(基準。準則)を得ることができません。内外が倡和すれば忠になり、信を用いて事を行えば恭になり、三徳(忠・信・極)を養えば善となり、この三者がそろえば失敗することはありません。そもそも、『易』とは危険を占うものではありません。あなたは何をするつもりでしょうか。下を飾るつもりでしょうか(家臣として恭順でいるつもりでしょうか)。中が美しければ黄になり、上が美しければ元になり、下が美しければ裳になり、三者がそろえば筮の結果は吉となります。しかし、もしどれかが欠けていたら、たとえ吉と出てもその通りにはなりません。」
 
南蒯は費邑に入って郷人に酒を振る舞おうとしました。しかし郷里に行くと、ある人が南蒯を謗って歌いました「わしには菜園があるが、杞ができてしまった(杞は菜園ではなく水の傍に生える木です)。わしに従うのは立派な男、わしに逆らうのは卑怯な男。親しい者(季氏を指します)を裏切るのは恥なこと。仕方がないことだ。彼は我々と同類の士ではない(我々我有圃,生之杞乎。従我者子乎,去我者鄙乎,倍其鄰者恥乎。已乎已乎,非吾党之士乎)。」
 
季孫意如は自分で動こうとせず、叔孫を使って叔仲小を追放しようとしました。それを聞いた叔仲小は入朝しなくなります。
叔孫は官吏を送って叔仲小に入朝を勧め、「私は怨府(怨みを集める場所)になるつもりはありません(季氏に協力して叔中小を追放するつもりはありません)」と伝えました。
 
翌年、費邑が包囲されます。
 
 
 
次回に続きます。