春秋時代213 東周景王(三十五) 楚霊王の死 前529年(1)

今回から東周景王十六年です。四回に分けます。
 
景王十六年
529年 壬申
 
[] 春、魯の叔弓が費邑(前年参照)を包囲しました。しかし叔弓は撃退されます。
怒った季孫意如(平子)は、城外で費人を見つけたら捕虜にするよう命じました。
これに対して大夫・冶区夫が言いました「いけません。もしも費人を見つけたら、寒そうな者には衣服を与え、飢えている者には食事を与え、あなたが彼等の明主になって足りない物を補うべきです。費人が自分の家に帰るように季氏に帰順すれば、南氏(南蒯)は必ず亡びます。民が叛したら誰が南氏と共に包囲された邑に住むでしょう。逆に、もしも威によって害を加え、怒りによって畏れさせたら、民は季氏を嫌って背き、団結してしまいます。諸侯も同じように暴虐を行ったら、費の人々は帰順するところがなくなり、南氏を頼ることになります。」
季孫意如が進言に従ったため、費邑の人々は南氏から離れるようになりました。
 
[] 楚霊王が令尹だった頃、大司馬・掩を殺してその家財を奪いました(東周景王二年・前543年)。即位してからは、掩の一族)の土地を奪いました。
また、許の民を遷して(東周景王十二年・前533年)、大夫・許囲を人質にしました。
蔡国の蔡洧は幽王に仕えて寵用されていましたが、幽王が蔡を滅ぼした時(東周景王十四年・前531年)、蔡国にいた父が殺されました。霊王が出兵して乾谿に向かった時、蔡洧は国都の守備を命じられましたが、霊王を憎んでいました。
申の会(東周景王七年・前538年)で霊王は越の大夫を辱めました。この件について『春秋左氏伝』には詳しい記述がなく、『史記・楚世家』に「越の大夫・常寿過を辱めた」とあります。
更に霊王は韋龜から中犨の邑を奪い、韋龜の子・成然からも邑を奪いました。後に成然は郊尹(郊外、国境の大夫)に任命されます。この蔓成然成然。蔓は邑名)はかつて蔡公に仕えていました。
こうして、掩の家族と居および許囲、蔡洧、蔓成然が霊王に怨みを持つようになりました。彼等は楚で官職を失った者達を集め、越の大夫・常寿過も誘って一大勢力を形成すると、固城を包囲し、息舟を攻略し、城を築いて拠点を造りました。
 
観起が楚康王に殺された時(東周霊王二十一年・前551年)その子・観従(字は子玉)は蔡にいました。観従は父が殺されてから朝呉(蔡の大夫。声子・公孫帰生の子)に仕えています(『史記・楚世家』は呉国に出奔したとしていますが、恐らく誤りです)
本年、その観従が朝呉に言いました「今、蔡を封じなかったら(復国しなかったら)、永遠に蔡を封じることができないでしょう。私に試させてください。」
観従は蔡公(楚の公子・棄疾)の命と偽って子干(公子・比)と子晳(公子・黒肱)を郊外に招きました。二人とも楚霊王の弟で、子干は晋に、子晳は鄭に亡命しています(東周景王四年・前541年参照)
二人が郊外に来ると、観従は蔡公の命が偽りだったことを教え、強引に盟を結ばせて蔡を攻撃しました。
蔡公・棄疾は食事をとろうとしていましたが、驚いて逃走しました。
観従は子干を蔡公の席に座らせ、蔡公の食事をさせました。その後、穴を掘り、犠牲を殺し、蔡公・棄疾(実際は子干)の書を犠牲の上に置いて盟を結んだふりをしてから、急いで子干を去らせました。
観従自身は蔡の人々にこう宣言しました「蔡公が二子(子干と子晳)を召して楚に入れることにした。二子は既に盟を結んで(協力を誓って)楚に向かった。(蔡公は)士卒を率いて二子に続くつもりだ。」
これは楚霊王に対する謀反の宣言です。集まった蔡の人々は観従を捕えようとしました。しかし観従が「賊(子干と子晳)を取り逃がし、(蔡公が)既に軍を成そうとしているのに、余を殺して何になるか」と言うと、人々は観従を放しました。
朝呉が群衆に言いました「二三子(汝等)がもしも(楚王に従って)死ぬか亡命したいと思っているのなら、(蔡公の命に)逆らって事の経過を見守ればいい。しかしもしも安定を求めるのなら、(蔡公に)従ってその希望(蔡公の希望。復国すること)を達成させるべきだ。そもそも、上官に逆らってどこに行くというのだ。」
人々は「命に従います」と言って逃走した蔡公を主に立て、改めて二子を招いて鄧で盟を結びました。蔡公と二子および蔡人だけでは勢力が乏しいため、同じく復国を望む陳人とも協力することにしました。
 
楚の公子・比、公子・黒肱、公子・棄疾(蔡公)は蔓成然、朝呉と共に陳、蔡、不羹、許、葉の兵を率い、四族の徒氏、許囲、蔡洧、蔓成然の族人)の協力も得て楚に向かいました(『史記・楚世家』は呉・越も兵を出したとしています。越は大夫・常寿過ですが、呉は恐らく「朝呉」の誤りです)
楚の郊外まで来ると、陳と蔡は復国の名分を明らかにするために、武軍(営塁。陳と蔡の旗が立てられます)を築くことを望みました。しかし蔡公・棄疾はこう言いました「速やかに進軍したい。それに、役人(陣を作る労役の人)疲労している。藩(木の枝や竹で作った柵)だけでいい。」
こうして藩が築かれ、軍営となりました。
 
以前、霊王が「余は天下を得たい」と言って卜ったことがありましたが、「不吉」と出ました。霊王は卜で用いる亀を投げ捨てると、天を罵って叫びました「このように小さな願いもかなえられないのか!余が自ら奪い取るまでのことだ!」
霊王は晋と覇を競うために何度も兵を興し、諸臣からも田地を奪いました。そのため、満足することを知らない霊王は民に憎まれており、今回の乱が起きると人々は次々に離れていきました。
 
蔡公・棄疾は大夫・須務牟と與史を先に楚都に入らせました。それを知った正僕人(太子の側近)が霊王の太子・禄と公子・罷敵を殺しました。
公子・比が楚王を、公子・黒肱が令尹を称し、魚陂に駐軍しました。公子・棄疾は司馬となり、先に王宮に入って反対派を除きます。共王には五子がいました。既に死んだ康王が長子で、次子は霊王です。三子は王子(公子)・比(今回即位した楚王)、四子は令尹・黒肱で五子が司馬・棄疾になります。楚王、令尹、司馬は兄弟の序列によって決められました。
 
棄疾は観従を乾谿に派遣して駐留中の楚軍(霊王軍)に楚都の状況を伝えさせました。観従が将兵に「先に(新王に)帰順した者は元の官位に戻すが、遅れた者は劓(鼻を削ぐ刑)に処す」と宣言すると、霊王の軍は訾梁で壊滅しました。
 
以上は『春秋左氏伝(昭公十三年)』の記述です。『史記・楚世家』に書かれている観従の言葉は少し異なり、こうなっています「国には既に王がいる。先に帰った者には爵・邑・田・室を戻すが、遅れた者は遷す(爵邑・家財を奪う)。」
 
霊王の暴虐については何度か触れて来ました。『国語・呉語』にこの時の状況が書かれています。
「楚の民は飢餓や労役の苦に堪えることができず、乾谿において三軍が霊王に背いた。」
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
霊王は群公子が殺されたと聞いて車の下に転げ落ち、こう言いました「人が子を愛すのは、余と同じだろうか?」
侍者が言いました「王以上に子を愛する者もいます。しかし小人()は年老いて子もいません。溝壑(谷底)に落とされることを知っています(年老いて最寄りもいないので、既に破局を迎えたことを覚悟しています)。」
霊王が言いました「余は人の子を殺し過ぎた。そうならない(破滅しない)わけにはいかないか?」
右尹・子革(然丹)が言いました「郊外で待機し、国人の意見を聞くべきです。」
霊王が言いました「衆怒を犯してはならない(国人の怒りに触れてはならない。国人の意見は聞けない)。」
子革が言いました「大都に入ることができたら、諸侯(陳・蔡・不羹・許・葉等)に師(兵)を請えます。」
霊王が言いました「諸侯は皆、既に叛した。」
子革が言いました「諸侯に亡命することができれば、大国が王のために図るでしょう。」
霊王が言いました「大福が再び来ることはない。自ら辱めを得るだけだ(一度国君の地位を失ったら、再び国君に戻ることはできない。諸侯の臣下として辱めを受けるだけだ)。」
子革は霊王を見捨てて楚に帰りました。
 
霊王は夏水漢水を下って鄢(楚の別都)に向かおうとしました。
それを知った芋尹・無宇の子・申亥が言いました「私の父は二回王命に逆らったが(王の旗を折ったことと、章華宮で人を捕えたこと。東周景王十年・前535年参照)王は誅殺しなかった。これほど大きな恩恵があるだろうか。王に難があるのに助けないわけにはいかない。恩恵を棄てることもできない。私は王に従おう。」
申亥は霊王を探し、棘闈(または「棘囲」。地名)で合流して家に連れて帰りました。
夏五月癸亥(二十五日)、霊王が芋尹・申亥の家で首を吊って死にました。申亥は二人の娘を霊王のために殉死させました。
 
以上は『春秋左氏伝(昭公十三年)』の記述です。
史記・楚世家』には霊王が逃走する時の様子が少し詳しく書かれています。
霊王は一人で山中をさまよいました。野人(城外に住む民)は誰も霊王を助けようとしません。
久しくさまよった霊王はかつて鋗人(宮中で掃除等をする身分が低い官)だった者に遭遇しました。霊王が言いました「食べ物がほしい。三日間、何も食べていない。」
しかし鋗人だった者はこう答えました「新王が法を発しました。王に食事を与えたり王に従う者は、罪が三族に及びます。それに、譲ることができる食糧はありません。」
疲労した霊王は鋗人に膝枕をさせて休みました。しかし霊王が眠りに就くと、鋗人は土の塊を枕にして逃走しました。
暫くして霊王は目が覚めましたが、飢えのため起きることができません。
この頃、芋尹・申無宇の子・申亥が「私の父は王命に二度逆らったのに、王は誅しなかった。これ以上大きな恩恵はない」と言って霊王を探していました。申亥は釐沢で飢えた霊王を見つけ、家に連れて帰りました。
夏五月癸丑(二十五日)、霊王が申亥の家で首を吊りました。申亥は二人の娘を殉死させ、合葬しました。
 
『国語・呉語』にもこの時の事が書かれています。
霊王は一人で山林の中をさまよい、三日後に涓人(鋗人)・疇(疇は名)に会いました。
霊王が言いました「余は三日も食べていない。」
疇が小走りで近寄ると、霊王はその脚を枕にして地面に横になりました。しかし霊王が眠りについてから、疇は土の塊を枕にして去りました
目が覚めた霊王は疇が去ったと知り、匍匐で棘闈(地名)に入ろうとします。しかし棘闈は拒否しました。
霊王は芋尹・申亥の家に行き、首を吊って死にました。申亥は王を背負って運び、家の敷地を掘って埋葬しました。
 
淮南子・泰族訓』にも霊王の死に関して書かれていますが、申亥は登場せず、「乾谿で飢えた霊王は草を食べ、水(川沢等の生水)を飲み、最後は土を塊を枕にして死んだ」とあります。
 
『春秋』経文は、「夏四月、楚の公子・比が晋から楚に帰り、その君・虔(霊王)を乾谿で殺した」と書いています。五月ではなく四月になっているのは、霊王が行方不明になった四月に、楚王の位に即いた公子・比が訃告を諸侯に発したからかもしれません。
 
 
 
次回に続きます。