春秋時代214 東周景王(三十六) 楚平王即位 前529年(2)

今回は東周景王十六年の続きです。
 
[] 当時、楚の人々は霊王の死を知らず、政情は不安定でした。
観従(子玉)が子干(公子・比。楚王)に言いました「棄疾を殺さなければ国を得ても禍を受けることになります。」
しかし子干は「余には忍びないことだ(余不忍也)」と言って拒否します。
観従が言いました「人はあなたに対して忍べる(手を下せる)のです。私は忍んで(我慢して)待つつもりはありません(人将忍子,吾不忍俟也)。」
観従は子干のもとから去りました。
 
当時、都城内で毎晩、「王(霊王。人々は霊王が既に死んだことを知りません)がもうすぐ入城する!」という声が上がりました。
五月乙卯(十七日)夜、棄疾が部下を城内の各地に送って「王が来た!」と叫ばせました。
これは『春秋左氏伝』の記述です。『史記・楚世家』によると、棄疾は江上の船人を使って「王が来た!」と叫ばせたようです。
それを聞いた国人都城内に住む人)は驚愕しました。
棄疾は蔓成然を派遣して子干と子晳にこう伝えました「王が帰って来ました。国人が主公(子干)の司馬(棄疾)を殺し、間もなく攻めて来ます。主公は早く身の処し方を考えて、辱めから逃れるべきです。衆怒は水火のように激しく、手の打ちようがありません。」
更に棄疾の部下が「衆(国人)が来ました!」と叫びながら報告に来ました。
子干と子晳は恐れて自殺しました。
 
丙辰(十八日)、棄疾が即位しました。これを平王といいます。熊居に改名しました(多くの楚王が即位後に改名して「熊」の一文字を冠しました)
子旗(蔓成然)が令尹に任命されました。
 
平王は子干を訾(地名)に埋葬しました。子干は訾敖とよばれます。楚の国君で諡号がない者は「敖」がつけられます。
また、一人の囚人を殺して王の服を着させ、漢水に流してから拾い上げて埋葬しました。霊王の代わりです。国民に霊王も既に死んだと信じさせ、人心の安定を図りました。
 
後年、芋尹・申亥が平王に霊王の霊柩があることを報告し、霊王は改葬されます。
 
かつて、楚共王は秦から夫人(秦嬴)を娶りましたが、冢適(冢嫡。長嫡子)ができませんでした。そのため妾姫が産んだ五人の子を寵愛しました。しかし後継者を決めることができません。そこで各地の群望(名山大川の神)を祭り、祈祷してから「神によって五人の中から社稷の主が選ばれる」と言い、璧玉を群望に示してこう宣言しました「璧に向かって拝した者は、神に選ばれた者だ。誰も逆らってはならない。」
祭祀が終わると、共王は愛妾の巴姫と共に璧玉を大室(祖廟)の庭に埋め、五人の子を呼びました。年長の子から順番に埋められた璧を拝させます。
長子(康王)は璧玉を埋めた場所に立つと、璧をまたいで拝しました。次子(霊王)は拝礼した時、肘が璧玉の上にありました。
三子(子干)と四子(子晳)は璧玉から遠く離れた場所で拝礼します。
少子(平王)は幼かったため、宮人に抱きかかえられて拝礼しました。二回拝して二回とも璧玉に向いています。
韋亀は少子が即位できると知って、子の蔓成然を少子に託しましたが、こう言いました「礼を棄て命に逆らったら(長幼の序列を棄てて鬼神に頼ったら)、楚に危難が訪れるだろう。」

この結果を『史記・楚世家』はこう書いています「康王は成長して即位したが、の代になって王位を失った。囲は霊になったが弑殺された。子比は十余日だけになれた。子晳は即位していない。二人とも誅殺された。この四子は全て子孫が途絶えてしまった。唯一人、最後に即位した弃疾平王となり、楚の祭祀を受け継ぐことになった。神符の通りになったのである 

子干が晋から楚に帰った時、晋の韓起(韓宣子)が叔向に問いました「子干は成功するだろうか?」
叔向は「困難です」と答えます。
韓起が言いました「国人と共に同じ者(霊王)を悪として(憎んで)利を求めているのだから、市賈(商人)が集まって利を求めるのと同じではないか。なぜ困難なのだ?」
叔向が言いました「愛好を共にする者がいないのに(同じ党の者がいないのに)、誰が悪を共にするのですか。国を取るには五難があります。寵があっても人(賢人。支持する人)がいないこと。これが一つ目です。人(賢才)がいても主(国内で指揮をとる者。内応者)がいないこと。これが二つ目です。主(内応者)がいても謀がないこと。これが三つ目です。謀があっても民がいないこと。これが四つ目です。民がいても徳がないこと。これが五つ目です。子干は晋に十三年もいましたが、晋と楚の従者の中に達者(賢人)の存在を聞いたことがありません。これは人がいないからです。族人が滅び親族が叛しているので(楚に親族がいないので)、主(内応者)がいません。隙がないのに動いたのは、謀がないからです(子干が楚に帰った時は、霊王にはまだ大きな隙がありませんでした)。終世(今まで)他国で客となっていたのですから、民がいません。亡命しながら国を愛する様子が見られなかったので、徳がないといえます。楚王は暴虐ですが忌(忌刻。嫉妬深く酷薄なこと)ではありません。子干が楚君になったとしても、五難をもったまま旧君を殺したところで、誰も助けようとはしません。
楚国を擁するのは棄疾でしょう。彼は陳と蔡の君となり、城外(方城の外)支配下に置いています。苛慝(煩雑で悪質なこと)は行わず、盗賊は姿を隠し、私欲があっても礼から外れることなく、民には怨心がありません。しかも、先神が命を与えたので国民に信用されています。また、羋姓(楚の姓)で乱が起きたら季(末子)を立てるのが楚の常です。神命を得たこと。民がいること。令徳(美徳)があること。寵貴(寵を受けて敬われる地位にいること)であること。常道にいること(楚が末子を立てるという前例に当てはまること)。この五利がある者が五難の者を除く時、妨害する者はいません。子干の官は右尹に過ぎず、貴寵(地位)庶子に過ぎません。神から与えられた命も遠いものでした(璧玉のことです)。貴を失い、寵を棄てられ、民は懐かず、国に協力する者がいないのに、国君でいられるはずがありません。」
韓起が言いました「斉桓公と晋文公も同じではないか(どちらも庶子で出奔していました)?」
叔向が答えました「斉桓公は衛姫の子で、僖公に寵愛されていました。また、鮑叔牙、賓須無、隰朋という輔佐がおり、莒と衛が外主(国外で助ける者)となり、国氏と高氏が内主(内応者)になりました。しかも、善に従う姿は水に流れるように自然で、財貨を貪らず、私欲を恣にせず、施舍(施し)を倦むことなく、善を求めて厭わなかったのです。国を得たのは当然でしょう。我が先君・文公は狐季姫の子で、献公に寵愛されました。好学で飽きることなく、十七歳で五人の士(人材)を得ることができ、先大夫・子餘(趙衰)と子犯(狐偃)が腹心に、魏賈佗が股肱になりました。斉、宋、秦、楚という外主がおり、欒氏、郤氏、狐氏、先氏が内主として協力しました。十九年の亡命中も志を守って意志を厚くしました。だから恵公と懐公が民を棄てた時、民は文公に従って興隆させたのです。献公には他の親族がなく、民にも他の望がなく、天も晋を助けたのですから、文公に代わる者はいませんでした。この二君は子干と異なります。共王には他にも寵子がいました(棄疾を指します)。国には奧主(目に見えない主。これも棄疾を指します)がおり、子干は民に施しを与えず、外には援ける者もなく、晋を去っても送る者なく、楚に帰っても迎える者がいないのに、国を望むことはできません。」
 
[] 楚軍は昨年から徐を包囲していましたが、撤退を開始しました。
しかし呉が豫章で楚軍を破り、五帥(前年出征した蕩侯、潘子、司馬督、囂尹・午、陵尹・喜)を捕えました。
 
[] 楚平王は二人の王を殺して即位したため、国人や諸侯の非難を恐れました。そこで、協力した者には財物を与え、民に施しを行い、寛大な政治を心がけ、罪人を赦し、免官された賢才を登用しました。
また、陳と蔡を再建し、かつての邑を復旧させました。
 
平王が観従を召してこう言いました「汝が欲することなら何でもかなえよう。」
観従が言いました「臣の先祖は卜師の佐(助手)でした。」
平王は観従を卜尹(卜師。大夫の官)に任命しました。
 
平王が枝如子躬(枝如が姓)を鄭に送って聘問させました。平王は犨と櫟の地(どちらも元は鄭の地ですが、楚が占有していました)を返還して、鄭の支持を得ようとします。
しかし枝如子躬は鄭で聘問を終えても領地返還について話しませんでした。鄭人が言いました「道々で『寡君に犨と櫟の地が返還される』という噂が流れています。命(返還の君命)をお与えください。」
枝如子躬が偽って言いました「臣はそのような命を聞いたことがない。」
帰国後、平王が犨と櫟について問うと、枝如子躬は上服を脱いで「臣は君命を誤りました。返還の約束はしていません」と言いました。
枝如子躬は国のために敢えて詭弁を弄し、しかも平王が批難されないようにするため、自分に罪があると言って謝罪しました。上服を脱ぐというのは大きな屈辱です。平王は子躬の忠心を理解し、子躬の手をとって言いました「子(汝)に罪はない。今後、不穀(国君の自称)に事があったら、また子を用いよう(使者として任務を授けよう)。」
 
 
 
次回に続きます。