春秋時代215 東周景王(三十七) 平丘の会 前529年(3)

今回は東周景王十六年夏の続きからです。
 
[] 晋の虒祁宮(東周景王十一年・前534年参照)が完成した時、諸侯が祝賀のために晋を朝見しました。しかし諸侯は晋の奢侈を嫌って二心を抱くようになりました。
その二年後、魯が莒からの地を奪ったため(東周景王十三年 前532年参照)、晋は諸侯を率いて魯を討伐しようとしました。しかし叔向が晋昭公に言いました「(諸侯を率いるには)まず諸侯に威を示す必要があります。」
かつて陳と蔡が楚に滅ぼされた時、晋は二国を助けることができず、諸侯に対する威信が低下していたためです。
そこで昭公は諸侯を集めて会合を開くことにしました。呉にも使者が送られます。
 
秋、晋昭公は諸侯との会見に先行して、良(地名)呉子(呉王・夷末)と会見することにしました。しかし「水道が不通」という理由で呉子が辞退したため、晋昭公も帰国しました。
 
七月丙寅(二十九日)、晋が邾国の南境で治兵(閲兵)しました。甲車四千乗が参加します。叔鮒(羊舌鮒。叔向の弟)が攝司馬(司馬代理)として諸侯を集めました。
周の卿士・劉子(献公)と晋侯(昭公)、魯公(昭公)、宋公(元公)、衛侯(霊公)、鄭伯(定公)、曹伯(武公)、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子が平丘で会します。
 
鄭の子産と子太叔が鄭定公の相(補佐)として会に参加しました。子産は幄・幕を各九張準備して出発しました。子太叔は万全を期して各四十張を準備しましたが、出発してから荷物が多いことを後悔し、一泊するごとに減らしたため、会合の時には子産と同じ数になっていました。
 
晋が衛の地に駐軍しました。
叔鮒が衛に賄賂を要求し、同時に芻蕘の者(柴草を刈る者)に命じて自由に柴を刈らせました。叔鮒は司馬の代理なので、軍法を取り締まる立場にいます。本来、みだりに柴を刈るような者がいたら逮捕しなければならないはずですが、逆に柴を奪って衛に圧力をかけました。
衛が屠伯を派遣して叔向に羹(あつもの)と一篋(箱の一種)の錦を贈り、こう伝えました「諸侯は晋に仕えて二心を抱くことがありません。衛は君(晋君)の宇下(ひさしの下)にいるので(保護を受けているので)、なおさらです。しかし芻蕘の者が以前と異なるようです。止めていただけないでしょうか。」
叔向は羹を受け取り、錦を返して屠伯に言いました「晋には羊舌鮒という者がおり、財貨に貪婪なので、将来、禍を受けるでしょう。今回の事に関しては、子(あなた)が君命(衛君の命。錦)を彼に贈れば、解決できるはずです。」
屠伯が納得して退席しようとした時、叔鮒は既に柴刈りを禁止させていました。
 
晋が改めて盟を結ぼうとしましたが、斉が反対しました。
晋昭公が叔向を送って周の劉献公(劉子)にこう伝えました「斉が盟に応じようとしません。どうすればいいでしょう。」
劉献子が言いました「盟とは信を示すためにあります。晋君に信があり、諸侯に二心がないのなら、(斉討伐の成否を)心配することはないでしょう。文辞によって告げ、武師によって監督すれば(文によって譴責し、その後、大義名分のある討伐を行えば)、晋君の庸(功績)が増えます。天子の老(卿士)が王賦(王軍)を率い、元戎(大きな兵車)十乗で先導すれば、相手は遅かれ早かれ晋君の命に従うようになります(周王室は斉の討伐に協力するという意味です)。」
周王室の支持を得た晋は叔向を送って斉にこう伝えました「諸侯が盟を求めてここに集まったのに、斉君は利がないと言っています。しかし寡君は結盟を望んでいます。」
斉人が答えました「諸侯の中で二心を持つ者が現れた時、諸侯は協力してそれを討伐する必要があります。そのために、以前の誓約を確認して盟を結び直すのです。今は皆が命を聞いているのに、なぜ結び直す必要があるのですか。」
叔向が言いました「事(朝見・聘問)があるのに業(貢賦)がなければ、事があっても不経(正常を失うこと)となります。業(貢賦)があっても礼がなければ、経(常態)があっても不序(上下の秩序がないこと)となります。礼があっても威がなければ、序(秩序)があっても不共(恭敬ではない様子)となります。威があっても不昭(明らかにできないこと)であれば、共(恭敬)でも不明となります(不明では神に告げることができません)。不明は共を損ない、百事が完成できなくなります。これが国が滅びる理由です。だから明王の制度では、諸侯は毎年聘問して自分の業(職責)を修め、三年ごとに朝見して礼を講じ(学び)、再び朝見したら諸侯と会して(六年で一回会見したら)威を示し、再度会したら盟を結んで(十二年に一回盟を結んで)信義を明らかにしたのです。友好の中で自分の業を修め(毎年の聘問)、等級秩序の中で礼を講じ(三年ごとの朝見)、衆の中で威を示し(六年ごとの会見)、神の中で信義を明らかにする(十二年ごとの会盟)から、古来、過失がなかったのです。存亡の道はこのようにして興るものです。晋は礼によって盟を主持していますが、それでもうまくできないことを恐れ、斎犧(会盟の犠牲)を奉じて諸君の前に並べ、良い終わりを願っています。しかし貴君は『盟を結ぶ必要はない』と言いました。それでは斎儀に何の意味があるのでしょう。斉君はよくお考えください。寡君はその命に従います(斉が反対するのなら止めません。但し出兵を招くことを考慮してください)。」
斉は恐れてこう答えました「大国は小国の発言を裁くものです。命に逆らうつもりはありません。既に命を聞いたので、恭敬な態度で会に参加し、晋君の命に従います。」
 
叔向が昭公に言いました「諸侯の間の間隙が生まれています。武威を示さなければなりません。」
八月辛未(初四日)、晋が再び治兵しました。多数の旌旗(各種の旗)を並べましたが、旆。装飾。恐らく吹き流し)をつけませんでした。
壬申(初五日)、旗に旆がつけられました。旆がついた旗は用兵を意味するようです。諸侯は晋の討伐を恐れました。
 
邾人と莒人が晋に魯を訴えて言いました「魯が朝も夕も我々を侵しているので、滅亡が目前に迫っています。我々が貢賦を納めることができないのも魯のためです。」
晋昭公は魯昭公に会わず、叔向を送ってこう伝えました「諸侯は甲戌(初七日)に盟を結ぶが、寡君は貴君に仕えることができない(魯君を満足させることができない)と知っているので、貴君が参加する必要はない。」
魯の孟椒(子服恵伯)が答えました「貴国の君は蛮夷の訴えを信じて兄弟国との交わりを絶ち、周公の後胤を棄てるのですか。そうだとしても、我々は貴国の命に従うだけです。」
叔向が言いました「寡君は甲車四千乗を率いており、たとえ道を行わなくても、諸侯から恐れられている。もし道に従って動けば(小国を侵した魯を討つという大義名分があれば)、敵う者はいない。牛はたとえ痩せていても、豚の上に乗れば豚を圧死させることができる(たとえ晋が衰弱しても、魯に負けることはない)。南蒯と子仲の憂(東周景王十五年・前530年参照)を忘れることができるか?もしも晋の衆を率い、諸侯の師を用い、邾・莒・杞・の怒りを理由に魯を討伐し、二憂(南蒯と子仲の憂)を利用すれば、どのような要求もかなえられるだろう。」
魯は恐れて会盟の参加を辞退しました。
 
癸酉(初六日)、諸侯が晋昭公を朝見しました。昭公が翌日正午までに除地(会盟を行う場所の意味)に集合するように、諸侯に命じました。
諸侯が解散してから、鄭の子産が外僕(臨時の外泊を管理する官)を招き、速やかに除地で幄幕を張るように命じました。しかし子太叔は「慌てる必要はない」と考え、翌日まで待つように指示を出します。そのため、幄幕を張る作業が中止されました。
夕方、それを知った子産がすぐ除地に行きましたが、既に諸侯が集結しており、幄幕を張る場所がありませんでした。
出発時と今回の幄幕の出来事は、子産が子太叔よりも機敏なことを表しています。
 
甲戌(初七日)、諸侯が平丘で盟を結びました。
子産が承(貢賦の軽重)について争い、こう言いました「昔、天子が貢の序列を定め、それによって軽重が決められました。序列が尊貴なら貢も重いというのが周の制度です。位が卑しいのに貢が重いのは、甸服(王畿内の場合だけです(王畿には卿大夫の采邑が多いため、公爵や侯爵よりも位が低くても、貢賦は重くなります。甸服の外なら爵位が高いほど貢賦も重くなります)。ところが、鄭伯は男服(甸服の外。外服の一つ)であるのに、公侯の貢に従うことになっています。これでは今後、供給を続けるのは困難です。よって敢えて請願します。諸侯は兵を休め、友好に勤めるべきです。今は行理の命(晋から派遣される使者の命。貢賦の催促)が来ない月はなく、貢にも際限がないので、小国は(晋を)満足させることができず、罪を得ています。諸侯が盟を修めるのは、小国を存続させるためです。しかし貢献に際限がなければ小国は滅亡を待つことになります。存亡を決める制度は、今日にかかっています。」
日中(正午)から討論が始まり、日が暮れる頃、やっと晋が同意しました。
盟を結んでから、子太叔が子産を咎めて言いました「諸侯が鄭を討伐したら、どう贖うつもりですか。」
子産が言いました「晋の政治は多門なので政令が複数の卿大夫から出ているので)、考えが一致することなく、とりあえずの安寧を保つことで精一杯だ。他国を討伐する余裕はない。そもそも、他国と競うことをあきらめて、他国の虐げを受けるだけの国を、本当の国といえるか?」
 
魯昭公は会盟に参加しませんでした。
晋は魯の季孫意如(平子)を捕え、牢の代わりに幕で覆って狄人に監視させました。
司鐸(官命)・射(魯の大夫)が懐に錦を入れ、氷水が入った壺を持ち、地を伏せて秘かに季孫意如に会いに行きました。守者が遮りましたが、錦を渡して幕の中に入りました。
諸侯が解散してから、晋は季孫意如を連れて帰国しました。魯の孟椒(子服湫。子服恵伯)が季孫意如に同行して晋に行きます。
 
以上は『春秋左氏伝』の内容です。『国語・魯語下』の記述は少し異なります。
平丘の会で晋が魯昭公の結盟を拒否しました。
子服恵伯(孟椒)が言いました「晋は蛮夷を信じて兄弟を棄てました。その執政(政治を行う者)には二心があります(兄弟の魯ではなく莒に傾いています)。二心があれば必ず諸侯を失います。魯を失うだけのことではありません。失政(諸侯を失うこと)した者は必ず他の者を害すことになります。その害は魯に及ぶでしょう。魯は害を警戒し、晋に対して恭敬でなければなりません。上卿を送って謝罪するべきです。」
季平子(季孫意如)が言いました「その言に誤りがないのなら、意如(私)が行くべきだ。しかし私が行ったら、晋は私に害を加えるだろう。誰か貳(副使)になる者はいないか?」
子服恵伯が言いました「椒(私)が提案したことです。難を避けるつもりはありません。椒に従わせてください。」
晋は季平子を捕えて帰国しました。
 
 
 
次回に続きます。