春秋時代216 東周景王(三十八) 季孫意如の帰国 前529年(4)

今回は東周景王十六年秋の続きからです。
 
[] 鄭の子産が帰国しました。途中で子皮の死を知ります。子産が哀哭して言いました「私も終わりだ。私を助けて善を行う者がいなくなってしまった。夫子(子皮)だけが私を理解していた。」
 
[] 晋が大軍を擁して会盟を行っていると聞いた鮮虞は、国境の警備を疎かにしました。
晋の荀呉が著雍(晋邑)から上軍を率いて鮮虞を侵し、中人(地名)に至って衝車を駆使しました。晋軍は大勝して兵を還しました。
 
[] 楚が蔡を滅ぼした時、霊王は許、胡、沈、道、房、申の民を楚に遷しました。許、胡、沈は小国で、胡は帰姓、沈は姫姓です。道、房、申は諸侯でしたが、楚に滅ぼされて邑になっていました。このうち申は姜姓の国でした。
即位したばかりの平王は天下に徳を示すため、陳と蔡を復国し、これらの民も元の地に返しました。
平王は蔡の隱太子・友(東周景王十四年・前531年参照)子・廬(『史記・管蔡世家』では蔡景侯の少子)を蔡に帰らせて国君にしました。廬は蔡平侯といいます。
また、陳の悼太子・偃師(陳哀公の子。東周景王十一年・前534年参照)の子・呉を陳に帰らせました。呉は陳恵公といいます。
資治通鑑外紀』は太子の子・呉を晋から求めて陳侯に立てたと書いています。呉は父が殺された時、晋に出奔しましたが(東周景王十一年・前534年。三月)、半年後(九月)には棄疾(現平王)に奉じられて陳討伐に参加しているので、この頃は楚にいたのではないかと思われます。
 
[] 冬十月、復国した蔡が正式な礼を用いて蔡霊公(霊侯)を埋葬しました。
 
[十一] 魯昭公が晋に入朝しようとしました。
晋の荀呉が韓起に言いました「諸侯が互いに朝見するのは旧好を温めるためです。しかし他国の卿を捕えておきながらその君の朝見を受けるようでは、友好とは言えません。断るべきです。」
韓起は士彌牟(士景伯。士文伯の子)黄河まで送って魯昭公の入朝を断りました。
 
[十二] 呉が州来を攻めて滅ぼしました。
 
楚の令尹・子期が呉討伐を請いましたが、平王はこう言いました「わしはまだ民人を慰撫できず、鬼神に仕えることもできず、守備を修めることも、国家を安定させることもできていない。それなのに民力を用いてもし失敗したら、後悔しても取り返しがつかないことになる。州来が呉に属したのは、楚に属しているのと同じだ。暫く機会を待て。」
 
[十三] 魯の季孫意如は晋に拘留されています。同行した孟椒(子服湫。子服恵伯)が晋の荀呉(中行穆子)に言いました「魯は晋に仕えているのに、なぜ夷の小国(邾・莒)に及ばないのでしょうか。魯は晋の兄弟であり、土地も広く、命に応える力もあります(命に従って貢納もしています)。もしも夷のために魯を棄てて、魯を斉や楚に仕えさせることになったら、晋に利点はありません。親しむべき者と親しみ(親親)、土地が広い国と協力し合い(與大)、貢納する者を賞し(賞共)、それができない者(邾・莒)を罰す(罰否)、これが盟主の姿です。子(あなた)はよく考えるべきです。諺に『一人の臣に二人の主がいる(臣一主二)』というものがありますが、我々にとって大国は一つだけではありません。」
荀呉はこの内容を韓起に伝えてこう言いました「楚が陳と蔡を滅ぼした時、我々は助けることができませんでした。そのうえ、夷のために親(兄弟)を棄てていますが、何の意味があるでしょう。」
晋は季孫意如を帰国させることにしました。
 
以上は『春秋左氏伝』の内容です。『国語・魯語下』にも記述があります
魯の子服恵伯(孟椒)が晋の韓宣子(韓起)に会って言いました「盟とは信が大切です。晋は盟主なので、信の主(代表)でなければなりません。もし盟を結びながら魯侯を棄てたら、信が欠けることになります。昔、欒氏の乱が起きた時、斉人が晋の禍につけこんで朝歌を攻め取りました。それを知った我が先君・襄公は安全な場所で傍観していることができず、叔孫豹に命じて敝賦(魯軍)を総動員させました。中には足が不自由な者もいましたが、行軍を完遂し、家に留まる者はなく、軍吏に従って雍渝に駐軍しました。その後、邯鄲勝(趙勝。邯鄲は食邑)と共に斉の左軍を撃ち、晏萊(斉の大夫)を捕え、斉師が撤退してからやっと魯師も引き上げました。あの戦いは、遠くに兵を出して利益を得ようとしたのではありません。魯は斉と隣接しており、しかも小国です。斉が朝に車を発したら、夜には魯国に到着できます。しかし魯は禍を恐れず、晋と憂いを共にし、『こうすることだけが魯国の益になるだろう(こうすれば将来、晋が魯を助けてくれるだろう)』と信じました。ところが今、貴国は蛮夷を信じて魯を棄てました。貴国に仕えて力を尽くしている他の諸侯に対して、どう説明するつもりでしょうか。もし魯を棄てることによって諸侯を固めることができるなら、(魯の)群臣が死を恐れることはありません。諸侯が晋に仕えている中で、魯が最も尽力しています。もしも蛮夷のために魯を棄てるようなら、蛮夷を得て諸侯の信を失うのと同じです。子(あなた)が利を考えるなら、小国は命に従います。」
韓宣子は納得して季平子を釈放しました
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
季孫意如は魯に帰ることになりましたが、孟椒が韓起にこう言いました「寡君(魯昭公)はまだ罪を知らないのに、(晋は)諸侯を集めて老(卿。季孫意如)を捕えました。もしも本当に罪があるのなら、晋の命によって死んでもかまいません。しかしもしも罪がなく、恩恵によって釈放されるのなら、諸侯は内情を知ることなく、魯が晋の命から逃げたと思うでしょう。なぜこのまま罪から逃げることができますか。会を開いて恩恵を示してください(「諸侯が集まった場所で罪人として逮捕されたので、本当に罪があるのなら刑に服します。しかしもしも罪がないのなら、改めて諸侯を集めて釈放することを公言していただかなければ、諸侯は魯が晋の刑から逃げたと思うでしょう。このように釈放されても、帰国するつもりはありません」という意味です)
韓起は困って叔向に問いました「季孫を帰らせることができないか?」
叔向が答えました「私には無理ですが、鮒(叔向の弟)なら可能です。」
そこで叔魚(叔鮒)が派遣されました。
叔魚が季孫意如に会って言いました「昔、鮒は晋君の罪を得たため(恐らく、欒氏の党として叔虎が処刑された時の事です。東周霊王二十年・前552年参照)魯君に帰順しました。あの時、もしも武子(意如の祖父)の恩がなかったら、今ここにいることはできなかったでしょう。その後、私の骨は晋に帰ることができましたが、それは子(あなた)が肉を与えてくれたからです(実際に恩を受けたのは意如の祖父の時代ですが、季氏のおかげで生きて帰国できたので、意如に感謝の意を表しています)。子のために力を尽くさないはずがありません。今、子は帰国が赦されたのに還ろうとしませんが、諸吏に聞いたところ、寡君(晋君)は西河に館を築いて子を住ませようとしているようです(西河は黄河の西なので、魯から遥か遠くになります)。もしそうなったらどうするつもりですか。」
叔魚は季孫意如を心配して涙を流しました。
恐れた季孫意如は先に帰国しました。
しかし孟椒は晋が正式に送り出す礼を行うまで待ってから、やっと帰国しました。
 
[十四] この年、燕悼公が在位七年で死に、共公が即位しました。
 
 
 
次回に続きます。