春秋時代 叔向の故事

資治通鑑外紀』が『国語・晋語八』から晋の故事を引用しています。
本編では書かなかったのでここで紹介します。
 
叔向が韓宣子(韓起)に会った時、韓宣子は自分の財産が乏しいことを憂いました。しかし叔向は韓宣子を祝福します。宣子が言いました「私には卿の名があるのに、その実(財)がないので、二三子(諸大夫)と交流することもできない。私はこれを憂いとしている。しかし子(あなた)は私を祝福した。それは何故だ?」
叔向が言いました「昔、欒武子(欒書)一卒(百頃)の田しかなく(上卿の欒武子は本来、五百頃の田をもつ資格がありました)、その宮(屋敷)は宗器(祭器)を備えず、徳行を宣揚し、憲則に順じたので、天下に名が知られ、諸侯が親しみ、戎・狄も懐いたのです。その結果、晋国を正し、刑を行っても禍を受けず(晋厲公を殺しても譴責を受けず)、難から逃れることができました。ところが桓子(欒書の子・欒黶)の代になると、驕慢奢侈で貪欲に限りなく、準則を侵して私欲のまま動き、金を貸し出して財を集めるようになりました。桓子は本来、難を受けるはずでしたが、武子の徳のおかげで何とか終わりを全うできたのです。逆に懐子(欒黶の子・欒盈)桓子の行いを改め、武子の徳を修めたので、本来、難から逃れられるはずでしたが、桓子の罪がその身におよび、楚に亡命することになりました。また、郤昭子(郤至)の富は公室の半分におよび、一族の者が三軍の将帥の半数を占め、富と権勢に頼って驕横を尽くしてきましたが、最期はその屍が朝廷に晒され、宗族も絳で滅ぼされました。八人の郤氏が五大夫三卿(三卿は郤錡、郤犨、郤至。五大夫は分かりません)となり、その寵は大きなものでしたが、一朝にして滅ぼされ、哀れむ者もいません。これは徳が無かったからです。今、吾子(あなた)には既に欒武子の貧(清廉)があり、私は吾子が欒武子の徳も行えると思っています。だから祝福したのです。もし徳を建てられないことを憂いず、財貨の不足を憂いるようなら、弔哀する間もありません。どうして祝福できるでしょう。」
韓宣子が拝礼稽首して言いました「起(私)は滅亡するところでしたが、子(あなた)のおかげで存続できました。起一人が子の言葉を受け入れるのではありません。桓叔(曲沃桓叔。韓氏の祖)の子孫が全て吾子の賜言に感謝しています。」
 
もう一つ『国語・晋語八』からです。
叔向が司馬侯の子に会った時、泣いて周りの者に言いました「彼の父が死んでから、私には共に国君に仕える者がいなくなった。かつては、彼の父が先に事を始めたら私が完成させ、逆に私が始めた事は夫子(彼)が完成させた。だから全てがうまくいったのだ。」
傍にいた籍偃が聞きました「君子も比(仲間。党)を作るのですか?」
叔向が答えました「君子は比を作っても別を作らない(助けあっても徒党は作らない。原文「比而不別」)。徳を共にして助けあうことを『比(団結)』といい、党を作って自分を富ませ、自分を利して国君を忘れることを『別(徒党)』というのだ。」