春秋時代218 東周景王(四十) 鼓城攻略 前527年

今回は東周景王十八年です。
 
景王十八年
527年 甲戌
 
[] 春正月、呉子・夷末(呉王・餘眛)が在位四年で死にました。
以下、『史記・呉太伯世家』からです。
夷末は弟の季札に国君の位を譲るつもりでしたが、季札は辞退して逃走しました。
呉人が言いました「先王(寿夢)には遺命があり、兄が死んだら弟が位を継いで季子(末子。季札)まで王位を伝えることになっていた。しかし今回、季子が位から逃げたので、王餘眛夷末)が兄弟で最期の国君となった。餘眛が死んだのだから、餘眛の子を立てるべきだ。」
こうして王餘眛の子・僚が王になりました。王僚とよばれます。
尚、『史記』と『五越春秋』では王僚は夷眛夷末)の子ですが、『春秋公羊伝』は寿夢の庶長子としています。

[] 魯が武宮(武公廟)で禘祭を行いました。事前に百官に知らされ、百官は斎戒等の準備をします。
梓慎が言いました「禘の日に咎(禍)があるだろう。私は赤黒い祲(妖悪の気)を見た。これは祭祥(祭祀の吉祥)ではなく、喪氛(葬事の象)だ。咎は涖事(祭祀の主催者)に降りかかるはずだ。」
 
二月癸酉(十五日)、禘祭が始まりました。叔弓が涖事となります。ところが、籥(笛の一種)が演奏しながら入場した時、叔弓は死んでしまいました。
大臣が死んだため、音楽の演奏を止めて祭祀を終了させました。
 
[] 楚の費無極(または「費無忌」)は蔡の大夫・朝呉(または「昭呉」)を嫉妬していました。朝呉が平王即位に協力して功を挙げ、平王の寵信を得ていたからです。
そこで費無極が朝呉に言いました「王が信じているのは子(あなた)しかいません。だから子を蔡に置いて政治を任せているのです。しかし子は年長者であるにもかかわらず、蔡では下位にいます。これは恥ずべきことであり、上の官位を求めるのは当然です。私が子のために高い位を請いましょう。」
同時に費無極は蔡国の高官に言いました「王は朝呉だけを信じています。だから蔡に置いているのです。二三子(あなた達)は彼にかなわないのに、位は彼の上にいます。手を打たなければ禍難を招くでしょう。」
 
夏、蔡人が朝呉を駆逐し、朝呉は鄭に出奔しました。
それを知った平王が怒って費無極に言いました「余は朝呉だけを信じていたから、蔡に置いていたのだ。朝呉がいなければ、わしはここにいないはずだ。汝はなぜ彼を去らせたのだ。」
費無極が答えました「臣も朝呉を必要としないわけではありません。しかし以前から彼には異心があると知っていました。朝呉が蔡にいれば、蔡は必ず速く飛ぶようになります。朝呉を去らせたのは、その翼を切るためです。」
 
[] 六月丁巳朔、日食がありました。
 
[] 乙丑(初九日)、周景王の太子・寿が死にました。太子・寿は賢人として知られていました。
秋八月戊寅(二十二日)、周の穆后(太子・寿の母)が死にました。
 
[] 晋の荀呉(中行穆子)が鮮虞を攻撃して鼓を包囲しました。鼓は白狄の別種で、姫姓の国ですが、鮮虞に属していました。
一部の鼓人が城を挙げて謀反することを荀呉に申し出ましたが、荀呉は拒否しました。
左右の近臣が言いました「師徒(軍)を労することなく城を得ることができるのに、なぜ同意しないのですか?」
荀呉が言いました「かつて叔向がこう言った『善悪が適切であれば、民は自分が帰するべき場所を知り、事業を成功させることができる(好悪不愆,民知所適,事無不済)。』もし我々の城で誰かが裏切ったら、その者は我々が共通して憎む対象になる。他者が城を挙げて裏切ることを、なぜ喜べるのだ。悪を賞したら、好(善)はどうなる?また、もし(悪を受け入れながらその功を)賞しなかったら、信を失うことになる。これでは民を守ることができない。力があれば進み、無ければ退く。自分の力を見極めて動くだけのことだ。城を欲して姦悪に近づいたら、失うものの方が多くなるだろう。」
荀呉は情報を鼓人に伝えて裏切り者を殺させ、守りを整えさせました。
 
鼓の包囲は三カ月にわたりました。一部の鼓人が投降を願い出ます。しかし荀呉は鼓人に会うとこう言いました「まだ食色がある(顔色がいい)。城を修築して守りを続けよ。」
軍吏が言いました「城を取れるのに取らず、民を労して武器を損ない、どうして主君に仕えることができますか?」
荀呉が答えました「わしはそうやって主君に仕えているのだ。一邑を取っても民に怠(怠惰)を教えたとしたら、何の意味もない。怠によって邑を買うくらいなら、旧(元の様子。ここでは勤勉の意味)を守った方がいい。怠を買ったら善い終わりはなく、旧を棄てたら不祥を招く。鼓人がよくその君に仕えるように、わしも我が君に仕えている。義によって行動すれば誤りはなく、好悪(善悪)が適切なら城を得ることができ、民も義が存在する場所を知ることができる。命を棄てて二心を持つことがない姿こそ、正しい姿ではないか。」
荀呉は鼓城攻略が間違いなく成功すると信じていたため、頑なに義を示したようです。
暫くして鼓人が晋軍に食糧がなくなり力尽きたことを報告しました。
晋軍は鼓を占領してから、一人も殺すことなく、鼓子・●鞮(鼓国の主。●は「戴」の「異」が「鳥」。「鳶」とも書きます)を連れて兵を還しました。
 
『国語・晋語九』等にもこの戦いについて記述があります。また、『資治通鑑外紀』はここで晋の故事を紹介しています。それぞれ別の場所で書きます。
 
[] 冬、魯昭公が晋に入朝しました。二年前の平丘の会で捕まった季孫意如が釈放されたため(前年参照)、拝謝したようです
 
[] 十二月、晋の荀躒(文伯)が周に入りました。穆后の葬送のためです。籍談が介(副使)を務めました。
埋葬が終わり喪服を脱ぐと、周景王が荀躒を招いて宴を開きます。魯から献上された壺が樽(尊。酒器)に使われました。
景王が言いました「伯氏よ、諸侯は皆、王室を鎮撫しているが(貢物を献上しているが)、なぜ晋だけはないのだ?」
荀躒は籍談を向いて揖(片方の手で片方の拳を包んで頭を下げる礼)をしました。籍談に回答を促すためです。
籍談が景王に答えました「諸侯が封じられた時、皆、王室から明器(徳を明らかにするための器。宝器)を与えられ、自分の社稷を安定させました。だから諸侯は彝器(礼器)を王に献上できるのです。しかし晋は深山におり、戎狄と隣接しています。王室から遥か遠くに離れているため、王霊(王の福)は及ばず、戎を服従させるのに精一杯です。どこに彝器を献上する余裕があるのでしょう。」
景王が言いました「叔氏(籍談を指します。荀躒は伯氏です。叔氏と伯氏は叔父、伯父という意味です。どちらも周王の親戚で姫姓だとわかります。また、伯父は叔父より年長になります)は忘れたのではないか。叔父(ここでは同姓の先祖の意味です)の唐叔(晋の祖)は成王の同母弟だったのに、賞賜がなかったと言うのか。密須(密国)の鼓と大路(車)は文王が大蒐(狩猟。閲兵)に用いた物であり、闕鞏の甲(闕鞏国が作った甲冑)は武王が商を滅ぼした時に使った物だが、唐叔はそれを受け取り、戎狄が居住する参虚(晋の地)の地に置いた。その後、襄王が下賜した二路(大路と戎路。車)(斧越)、秬鬯(黍の酒)、彤弓(赤い弓)、虎賁(勇士)を文公が受け取り、南陽の田(地)を所有して東夏(東方諸国)を安定させた。これらが賞賜でないとしたら何になるのだ。勲功があれば廃すことなく、功績があれば記録し、土田を奉じ(贈り)、彝器によって慰撫し、車服によって表彰し、文章によって明らかにし、子孫が忘れることがないから、福となるのだ。このような福祚(福)を記録せず、叔父(唐叔)はどこにいると言うのだ(王から与えられたこれらの福がなければ晋は存在しない)。そもそも、かつて汝の高祖(遠祖)にあたる孫伯黶は晋の典籍を主管して大政を行い、籍氏を名乗るようになった。その後、辛有の次子・董が晋に来て、董史(代々続く史官の家系の董氏)が生まれた。汝は司典(典籍の主管。孫伯黶)の後裔であるのに、なぜ忘れたのだ。」
籍談は答えることができませんでした。
荀躒、籍談等が退席してから、景王が言いました「籍父の後世は滅ぶだろう。典故を挙げながら自分の祖を忘れている。」
 
一方、帰国した籍談がこの事を叔向に言うと、叔向はこう言いました「王は善い終わりを迎えることができないだろう。『楽しんだ事によって、それにふさわしい終わりを迎える(所楽必卒焉)』という。今、王は憂を楽しんだ。だから憂によって死ぬはずだ。これは善い終わりではない。王はこの一年で二回も三年の喪があった(太子と王后の死を指します)。それなのに喪賓(葬送に参加した賓客)と宴を開き、しかも彝器を要求した。これは憂を楽しむこと甚だしく、礼からも外れている。彝器は功を嘉するから得られるのであって、喪事によって得るものではない。三年の喪は、たとえ尊貴な天子でも服すのが礼である。王は喪に服さず、早くも宴を楽しんだ。これも礼から外れている。礼とは王の大経(規則)である。それなのに一つの行動で二つの礼を失ったのだから(喪中なのに彝器を求めたことと宴を開いたこと)、大経が失われたといわなければならない。言とは典籍を考察するためにあり、典籍とは経(礼)を記録するためにある。経を忘れて言だけが多いようでは、典籍を挙げても役に立たない。」

[] 『史記・楚世家』はこの年に楚が秦女を迎え入れたとしています。東周景王二十二年523年)に書きます。  


 
次回に続きます。