春秋時代 荀呉と叔向の故事

晋の荀呉(中行穆子)が鼓城を攻略しました。
資治通鑑外紀』が『国語』等の記述を引用しているので、ここで紹介します。
 
まずは『国語・晋語九』からです。
中行穆子(荀呉)が狄を攻めて鼓を包囲しました。ある鼓人が城を挙げて投降しようとしましたが、穆子は拒否します。軍吏が言いました「師を労せず城を得ることができるのに、なぜ拒否するのですか?」
穆子が言いました「主君に仕える礼ではないからだ。城を挙げて投降しようという者は、利(爵賞)を得ることが目的だ。城を守りながら二心をもつのは最も大きな姦悪である。善を賞し姦を罰すのは国の憲法(大法)だ。もし裏切りに同意しながら利を与えなかったら、我々の信を失う。しかし利を与えたら大姦を賞すことになる。姦を行いながら禄を満たすことができるのなら、善の者はどうなるのだ。
そもそも、狄で不満を持つ者が城を挙げて私欲を満たそうとしているが、晋にこのような者がいないと言えるか?我々が裏切りを受け入れたら、我が辺境で二心を抱く者に鼓の例を教えることになる。主君に仕える者は、自分の力を量って進み、力がなければ退くものであり、楽をして裏切り者を買収してはならない。」
穆子は軍吏に命じて大きな喚声を上げさせました。城中に総攻撃を始めることを宣言します。
鼓国は交戦する前に(穆子の義に心服して)降伏しました。
 
唐代の『貞観政要』にもこの戦いが書かれていますが、少し異なります。
中行穆伯(荀呉)が鼓国を攻撃しましたが 一年経っても攻略できませんでした。
饋間倫(人名)が穆伯に言いました「鼓の嗇(地方官)は間倫()の知り合いです。士大夫を疲れさせることなく鼓を得ることができます。」
しかし穆伯は饋間倫の進言を採用しませんでした。
左右の臣が問いました「一戟も損なわず、一卒も傷つけることなく鼓を得られるのに、なぜ採用しないのですか?」
穆伯が言いました「間倫の人となりは奸佞かつ不仁だ。もし間倫に城を攻略させたら、彼を賞さなければならない。彼を賞したら、佞人を賞したことになる。佞人が志を得たら晋国の士が仁を棄てて奸佞となるだろう。それでは鼓を得ても意味はない。」
 
 
資治通鑑外紀』はここで『国語・晋語九』から晋の叔向に関する故事を二つ紹介しています。
晋の大夫・董叔が范宣子の娘士鞅の妹)を娶ることにしました。
それを聞いた叔向が反対して言いました「范氏は富裕すぎます(富家は驕慢なので他者を侮るでしょう)。やめるべきです。」
しかし董叔はこう言いました「婚姻によって繋援(援助)を作りたいのです。」
結婚後のある日、董祁(董叔の妻)兄の范献子士鞅)に訴えました「董叔は私に対して不敬です。」
怒った范献子は董叔を捕まえると庭の槐の木に縛り付けました。そこを叔向が通ったため、董叔が言いました「私を助けるように請願していただけないでしょうか?」
叔向が言いました「あなたは『繋』を求めて既に繋がれました(捕まりました)。『援』を求めて援(引っぱる。引き上げる。木等にしがみついて登ること。ここでは木に縛りつけられている姿)を得ました。自ら望んだことを全て得たのに、これ以上何を請うのですか?」
 
二つ目の故事です。
趙簡子(趙鞅。趙武の孫、趙成の子)が言いました「魯の孟献子(仲孫蔑)には鬥臣(勇士)が五人もいるのに、私には一人もいない。何故だろう。」
叔向が言いました「子(あなた)がそれを欲していないからです。もしも本当に欲するなら、肸(叔向の名)でも交捽(武術の一種)の練習をします(もし本気でそのような臣下を望むのなら、文官の私でも武術の練習をします。人材がいないのは本心から求めようとしないからです)。」