春秋時代219 東周景王(四十一) 韓起の玉環 前526年(1)

今回は東周景王十九年です。二回に分けます。
 
景王十九年
526年 乙亥
 
[] 春正月、魯昭公は晋にいます。晋が昭公を帰国させませんでした。
史記・魯周公世家』を見ると、魯昭公十五年(前年。東周景王十八年・前527年)に「晋が魯昭公を留めて晋昭公を葬送させたため、魯がこれを恥とした」とありますが、晋昭公が死ぬのは本年(景王十九年・前526年)秋の事なので時系列が合いません。
 
[] 二月丙申(十四日)、斉景公が徐を攻撃しました。
『春秋』経文と『資治通鑑外紀』は正月の事としていますが、恐らく『春秋左氏伝』の二月が正しいはずです。
斉軍が蒲隧に駐軍しました。
徐が講和を望んだため、徐子と郯人、莒人が斉景公と会見し、蒲隧で盟を結びました。甲父(古国名)の鼎が斉に贈られます。
 
魯の叔孫叔孫昭子)が言いました「諸侯に伯(覇者)がいないから、(小国の)害となっている。無道な斉君が師を興して遠方を討伐し、会盟で和を成立させて帰還したが、誰も止める者がいない。これは伯がいないからだ。『詩(小雅・雨無正)』には『宗周が既に滅び、安定することがない。政治を行う大夫は離散し、民の労苦を知る者がいない(宗周既滅,靡所止戻。正大夫離居,莫知我肄)』とあるが、まさに今の状況を歌っているのだ。」
 
[] 蛮氏(戎蛮族)が叛したという情報が楚に入りました。
楚平王は然丹を派遣して戎蛮子・嘉を誘い出し、殺しました。
楚が蛮氏の領地を占領しましたが、再び戎蛮子・嘉の子を国君に立てました。
 
[] 三月、晋の韓起が鄭を聘問しました。鄭定公が享(立ったまま行う宴)を開いてもてなします。
事前に子産が卿大夫を諫めて言いました「朝廷に席がある者は(享宴に参加する者は)、無礼があってはならない。」
ところが孔張(公孫申。公孫洩の子、子孔の孫)が遅れて来ました。本来は自分の席があるはずですが、遅れてきた孔張は自分の席がわからず、賓客(晋の韓起とその一行)がいる場所に立ちます。すると執政典礼を主宰する者)が拒否して去らせました。孔張が客の後ろに立とうとした時も、執政に追い払われます。仕方なく、鐘等の楽器が懸けられている間に立ちました。孔張の慌てる様子は賓客達の失笑を買いました。
 
享宴が終わってから鄭の大夫・富子が子産を諫めて言いました「大国の使者に対しては慎重であるべきです。彼等に笑われるようでは、彼等に虐げられることになります。我々に礼があったとしても、彼等は我々を軽視します。しかしもし国に礼がなかったら、何によって栄えを求めることができるでしょう(礼は大切ですが、それによって軽視されてはなりません。しかし軽視されるからといって礼を棄てるわけにもいきません)。孔張が居場所を失ったのは、吾子(あなた)の恥です。」
子産が怒って言いました「命令が適切でなく信にも欠けており、刑が不公平で、獄(訴訟)も混乱しており、会朝(朝廷。朝会)は不敬で(諸臣に礼義がなく)、人々は命に従わず、大国の凌辱を受け、民を疲弊させて功がなく、罪が及んでも気づかないようなら、それは僑(子産)の恥である。しかし孔張は国君の昆孫(兄の孫。孔張は子孔の孫で、子孔は鄭襄公の兄です)であり、執政の嗣(後継ぎ)として大夫になった。また、君命を受けて使者となり、諸侯を巡っている。そのおかげで国人に尊敬され、諸侯にも名が知られた。朝廷には官職があり、家では祖廟を祀り、国の俸禄をもらい、軍賦(卿大夫の采邑から出す物資や兵)を負担し、喪祭では職責が与えられ、受脤・帰脤を行い(「脤」は祭祀で用いる肉。国君が社を祭ったら、祭肉を卿大夫に配りました。これが「受脤」です。逆に大夫が社を祭る時は、祭肉を国君に贈りました。これが「帰脤」です)、国君が廟を祭る時には自分の席がある。代々官位に就いてその業を守って来たのに、今回、自分の居るべき場所を忘れたのは僑が恥とすることか?辟邪の人(正しくない者)は全ての過ちを執政(子産)の責任にするが、(好き勝手な発言をする者に刑を用いなければ)先王の刑がないのと同じだ。子(汝)が私を諫めたいのなら、他の事で私を諫めよ。」
 
韓起はある玉環を持っていました。本来、この玉環は複数の玉で完成するのですが、玉の一つは鄭の商人が持っていたため、未完成のままでした。そこで韓起は鄭定公に玉を請いました。しかし子産が拒否して言いました「これは官府の守器ではないので、寡君は関与しません。」
子太叔と子羽が子産に言いました「韓子の要求は多くなく、我々が晋に背くこともできません。晋国も韓子も軽視してはなりません。もし誰かが我が国と晋を離間させようとし、鬼神がそれを助けて晋の凶怒を招いたら、後悔しても取り返しがつきません。吾子(あなた)はなぜ一環を惜しんで大国の怨みを招こうとするのですか。玉を手に入れて韓子に譲ればいいではありませんか。」
子産が答えました「私は晋を軽視しているわけでも、晋に対して二心を抱いているわけでもありません。最後まで晋に仕えるつもりです。玉を渡さないのは、まさに忠信のためです。君子は財物がないことを難(憂い)とせず、官位を得ながら令名(美名)がないことを患(憂い)にするといいます。また、国を治めるにあたっては、大国に仕えることができず小国を養うこともできないという状態を難とせず、礼がないためにその地位を安定できないことを患とするといいます。大国の人が小国に要求を出した時、小国はどれだけの財物を贈ればその要求を満足させることができるでしょうか。一度は譲ったのに次は譲らないというのでは、その罪はますます大きくなります。大国の要求が礼に合わないようなら、拒否しなければ際限がありません。我が国が彼等の鄙邑(辺境の邑)になったら、国としての地位を失うことになります。韓子は君命を受けて使者となりましたが、(私心によって)玉を求めるようなら、貪婪の極みです。これは彼の罪ではありませんか?一つの玉を差し出せば二罪を得ることになります。我々は国としての地位を失い、韓子は貪婪な人になるのです。このようにすることが本当に必要ですか。玉によって罪を買うのは、意味のないことです。」
 
韓起は直接、賈人(商人)を探して交渉しました。交渉は成立し、玉が韓起に渡されます。どれくらいの金額が払われたかは分かりませんが、かなり安価だったはずです。
賈人が韓起に言いました「必ず君大夫(領地を持つ大夫。ここでは子産)にこの事を伝えてください。」
そこで韓起が子産に言いました「先日、起(私)が環を求めた時、執政(子産)は義に外れていると言いました。だから二度と話をしませんでした。しかし今回、商人から玉を買ったら商人がこの事を伝えるように言いました。だから敢えて話に来ました。」
子産が言いました「昔、我が先君の桓公(鄭国の祖)は商人と共に周を出て、協力してこの地を開き、蓬・蒿・藜・藋(野草・雑木)を伐採して共に住むようになりました。その後代々盟を誓い、互いに信頼して『汝がわしを裏切らなければ、わしは強賈(無理に安値で買いたたくこと)せず、無理に乞わず、奪うこともない。汝に利市(売買のもうけ)があっても、宝賄(貴重な宝物)があっても、わしは関与しない』と約束しました。この関係は今に至るまで保たれてきたのです。しかし今回、吾子(あなた)は友好のために訪れながら、敝邑で商人から強奪しました。これは弊邑が盟誓に背いたことになります。吾子には玉を得て諸侯を失うようなことをするつもりはないでしょう。大国の令を受けたからといって無制限に貢物を贈るようになったら、鄭が晋の鄙邑になってしまいます。我々にもそうするつもりはありません。だから前回、僑(私)は玉を献上しなかったのです。以上の事を、敢えて個人的にお伝えします。」
韓起は「起は不敏(聡明ではない)ですが、玉を求めて二罪を得ることはできません。お返しします」と言って玉を返しました。
 
 
 
次回に続きます。