春秋時代221 東周景王(四十三) 火災の予言 前525年

今回は東周景王二十年です。
 
景王二十年
525年 丙子
 
[] 春、小邾穆公が魯に入朝しました。魯昭公が宴を開いてもてなします。
季孫意如(季平子)が『采叔(采菽。詩経・小雅)』を賦しました。「君子が来朝しました。どのような福があるのでしょう(君子来朝,何錫之)」という句があります。
穆公は『菁菁者莪(小雅)』を賦しました。「既に君子に会えました。楽しくもあり、儀礼も備わっています(既見君子,楽且有儀)」とあります。
叔孫昭子)が言いました「国を治める賢才がいなければ、久しく保つことはできない(小邾は賢才が国を治めているので、久しく保つことができるだろう)。」
季孫意如が賦した詩は、小邾穆公の入朝によって利益を求めていることを表します。しかし穆公は君子に会えたことが既に福であると答えました。叔孫はこの答えを称賛し、穆子のような主君が国を治めれば小邾は長く保つことができると評価しました。
 
[] 夏六月甲戌朔、日食がありました。
正陽の月(夏暦四月、周暦六月)に日食があったら社の祭祀を行う慣わしがあったため、魯の祝史(祭祀を管理する官)が祭祀で用いる品目を問いました。
叔孫昭子)が言いました「日食が起きたら、天子は豊盛な食事をせず、社で鼓を打ちます。諸侯は幣(祭品)を社に納めて朝廷で鼓を叩きます。これが礼です。」
季孫意如(季平子)が反対して言いました「陰気がまだ生まれていない正月朔に日食が起きたら(陰気の月が陽気の太陽を侵したら)、鼓を打って幣を納めるのが礼です。しかしそれ以外の日食で鼓を打つ必要は必要ありません。」
「正月朔」というのは「正陽の月の朔日」という意味ですが、季孫意如はこの「正月(正陽の月)」が周暦六月を指すことを知らないようです。そのため、太史の発言を招きます。
大史(太史)が言いました「(正月とは)まさにこの月です。日(太陽)が分春分を過ぎて至夏至に至らない間に、三辰(日・月・星)に災があったら(日食、月食等、互いに侵しあったら)、百官は素服(白服。喪服)を着なければならず、国君は豊かな食事をとらずに正寝から離れて災(日食等)の時を過ごすものです。そしてその時、楽(楽工)が鼓を奏で、祝(祝史)が幣を用い、史(太史)が辞を述べて祀ります。だから『夏書(佚書。似ている文は『尚書・胤征』にあります)』にはこうあります『日月が通常の場所にいない時は(日食の時は)、瞽(盲目の楽工)が鼓を奏で、(異変に備えるために)嗇夫(郷邑の官)が車を走らせ、庶人(平民)が駆けまわる(辰不集于房,瞽奏鼓,嗇夫馳,庶人走)。』これはまさにこの月の朔日のことをいっているのです。夏四月(夏暦四月。周暦六月)は『孟夏』ともよばれています。」
季孫意如はこの意見に従いませんでした。
退出した叔孫が言いました「夫子(彼)には異志(異心)がある。国君を国君と思っていない。」
日食は陰が陽を侵しているので、臣下が主君を侵すことの象徴とされていました。日食に正しく対応すれば、臣下が主君に正しく仕えていることになります。季孫意如は日食が起きた時の慣例を無視したため、異志があるとみなされました。
 
尚、楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年の周暦六月朔に日食が起きたというのは誤りで、本年九月朔に日食があったようです。但しその場合は「甲戌朔」ではなく「癸酉朔」になります。もしくは、他の年の日食の記述が誤ってここに書かれているという説もあります。
 
[] 秋、郯子(郯国の主)が魯に来朝しました。魯昭公が宴を開いてもてなします。
叔孫昭子)が郯子に問いました「少皞氏は鳥を官名に使いましたが、それはなぜですか?」
郯子が答えました「我が国の祖の事なので、よく知っています。昔、黄帝氏は雲によって紀命名・記録)したので、雲を師(諸官の長)の名につけました(春官は青雲、夏官は縉雲、秋官は白雲、冬官は黒雲、中官は黄雲)。同じように、炎帝氏は火で紀したので、火を官名に使い(春官は大火、夏官は鶉火、秋官は西火、冬官は北火、中官は中火)共工氏は水で紀したので水を官名に使い(春官は東水、夏官は南水、秋官は西水、冬官は北水、中官は中水)、大皞氏は龍で紀したので龍を官名に使いました(春官は青龍氏、夏官は赤龍氏、秋官は白龍氏、冬官は黒龍氏、中官は黄龍氏)。我が高祖である少皞・摯が即位した時は、鳳鳥が現れました。よって鳥で紀し、鳥を官名に用いたのです。鳳鳥氏は暦を正し、玄鳥氏は分春分秋分を管理し、伯趙氏(伯趙は「伯労」ともいう鳥の名)は至夏至冬至を管理し、青鳥氏は啓立春立夏を管理し、丹鳥氏は閉立秋立冬を管理しました。また、祝鳩氏は司徒、鳩氏は司馬、鳲鳩氏は司空、爽鳩氏は司寇、鶻鳩氏は司事(農事の官)であり、この五鳩は鳩民の官(民をまとめる官)にあたりました。五雉雉・雉・翟雉・雉・翬雉)は五工正(各種の手工業を管理する官)で、器物用具を改善し、度量を正し、民が必要とする物を均等に行き渡らせました。九扈(春扈・夏扈・秋扈・冬扈・棘扈・行扈・宵扈・桑扈・老扈は九農正(農業に関わる諸事を管理する官)で、民の淫放を規制しました。顓頊の時代になってから、瑞祥が遠くから来ることがなくなったので(龍、雲、鳥等の瑞祥が現れなくなったので)、近くの物を使って紀し、民事に近い物を選んで民を治める師(官)の名に用いるようになったのです。
 
この出来事を孔子が聞きました。当時、二十七歳前後です。
孔子は郯子に会いに行って古代の官制を学びました。
後日、孔子が知人にこう話しました「『天子は官を失い(周や魯は衰えて官制に関する典籍を失ったという意味です)、その学問は四夷(辺境)にある(天子失官,学在四夷)』といわれているが、まったくその通りだ。」
 
[] 当時、轘轅(地名)より東に位置し、河南・山北に住む戎族は陰戎と号しており、広い範囲で栄えていました。
晋と楚が領土を拡大して諸戎を威服させるようになると、陰戎は陸渾・伊洛の戎と共に晋に仕えました。南方の蛮氏(蛮族)は楚に服従します。
 
しかしこの頃、陸渾の戎が晋に逆らうようになりました。
 
秋、晋頃公が屠蒯(晋の膳宰)を周に送り、雒水と三塗山の祭祀を行う許可を求めました。
周の萇弘が劉献公に言いました「客(屠蒯)の容貌は猛(勇ましい)なので、本当の目的は祭祀ではありません。戎を討つつもりでしょう。最近、陸渾氏(戎)が楚と親睦しているので、それが原因です。備えをするべきです。」
劉献公は晋と戎の戦を警戒し、備えを強化しました。
 
九月丁卯(二十四日。『春秋左氏伝』は「九月」ですが、『春秋』経文は「八月」としています)、晋の荀呉が軍を率いて棘津から黄河を渡りました。まず、祭史を雒水に派遣し、犠牲を使って祭りの儀式を行わせます。
陸渾の戎に気づかれる前に、晋軍が前進しました。
 
庚午(二十七日)、晋軍が陸渾の戎を急襲し、楚と関係を深くした罪を譴責しました。陸渾の戎は滅亡し、陸渾子(戎主)は楚に奔ります。この後、楚は諸戎と蛮族の双方に大きな影響力を持つようになりました。
陸渾の衆は甘鹿に逃げましたが、警戒を強めていた周軍に多くが捕えられました。
 
出兵前、韓起がある夢を見ました。晋文公が荀呉の手を牽き、陸渾を荀呉に与えます。夢から醒めた韓起は荀呉に軍を指揮させて大勝を得ました。奪った捕虜は文宮(文公廟)に奉献されました。
 
[] 冬、星孛(彗星)が大辰(大火星。心宿)に現れ、西の漢河(銀河)に至りました。
魯の大夫・申須が言いました「彗とは旧を除いて新をもたらすものです(彗星は箒星ともよばれており、ほうきは掃除に使われるので、旧から新に代わる象徴とされました)。天事はしばしば吉凶を表します。今回、火が除かれましたが、新しい火が必ず現れるでしょう。諸侯に火災が起きるのではないでしょうか。」
梓慎が言いました「昨年、私も(彗星を)見ました。その時は火(大火星)が現れてから星孛が姿を見せました。今年は火が現れてから星孛がますますはっきりしました。また、火が入ったら(大火星が沈んで見えなくなったら)、星孛も隠れました。星孛が火の傍にいて久しく、その動きが連動しているのは間違いありません。通常、火(大火星)が現れるのは夏暦の三月、商暦の四月、周暦の五月であり、夏暦は天数と対応しています(よって、火災が起きるのは大火星が現れる夏暦三月、周暦では五月です。来年五月に火災が起きます)
(火災)が起きるとしたら宋・衛・陳・鄭の四国が該当するはずです。宋は大辰の虚です(星宿を分割して各国にあてはめた時、大火星は宋にあたります)。陳は大皞の虚です(大皞は陳の地に住んでいました)。鄭は祝融の虚です祝融は鄭の地に住んでいました)。これらは全て火房(火舎。火がいるところ)にあたります。また、星孛が漢河に至りました。漢は水の祥です。衛は顓頊の虚なので帝丘といい、その星は大水にあたります。水は火の牡です(火と水は相配します。火は牝、水は牡とされました。火が水を恐れるからです)
火災が起きるのは丙子か壬午の日でしょう。その日は水火が重なるからです(十干十二支は火と水に分けられていました。丙は火日、子は水位、壬は水日、午は火位に当たり、丙子と壬午は火と水が重なります。火と水が重なったら水が勝ちそうですが、今回、彗星が大火から出ており、漢河に至る時には小さくなっていたので、火が多く水が少ないことになります)。もしも火(大火星)が見えなくなって星孛も隠れたら、火災は壬午の日に起きます(大火星が隠れたら水が強くなります。丙子は「火・水」で壬午は「水・火」なので、水が先にある壬午に火災が起きる、という意味のようです)。火(大火星)が見える月(周暦五月)を越えることはありません。」
 
鄭の裨竈も子産に言いました「宋、衛、陳、鄭で同じ日に火災が起きます。しかし私が瓘斝玉瓚(玉器)で祭祀を行えば、鄭は火災から逃れることができます。」
子産は玉器を与えませんでした。
 
[] 呉が楚を攻撃しました。
 
楚の陽(子瑕。楚穆王の曾孫。穆王の子は王子揚、揚の子は尹、尹の子が令尹になり、戦を卜うと「不吉」と出ました。
司馬・子魚(公子魴)が言いました「我々は上流にいます。なぜ不吉なのですか。そもそも楚の慣例では司馬が令亀(命亀。卜の内容を告げること)を行うものです。私に改めて卜わせてください。」
子魚は「魴(私)が属(部下)を率いて死に、楚師がそれに続いて大勝を得る」と言って卜いました。その結果、「吉」と出ました。
 
楚と呉は長岸で戦いました。水戦のようです。
子魚が先に戦死しましたが、楚軍が後に続いて猛攻を加え、呉軍が敗退します。楚軍は呉王の舟・餘皇を奪いました。
 
楚軍は隨人と後から来た士卒に奪った舟を守らせました。舟を陸に揚げ、周りに深い壕を作って呉軍の襲撃に備えます。壕が深くて地下水に達したため、壕から出入りする通路を炭で埋めて水を塞ぎ、陣を構えました。
 
呉の公子・光(呉王・夷末の子。または諸樊の子。後の呉王・闔閭)が兵達に向かって言いました「先王の舟を失ったのは光(私)だけの罪ではない。皆の罪でもある。皆で力を合わせて取り返し、死から逃れよう。」
兵達は同意しました。
そこで長鬣者(背が高く強壮な者)三人を選び、「私が『餘皇』と叫んだらそれに応えよ。夜の闇の中、師(呉軍)はそれを目標にして進む」と命じて舟の傍に潜伏させました。
夜、公子・光が「餘皇!」と三回叫ぶと、三人が代わる代わる声を挙げて応えました。
楚兵が三人を見つけて殺しましたが、突然、呉軍の急襲を受けたため、楚軍は混乱に陥って大敗しました。
呉軍は餘皇を取り返して引き上げました。
 
 
 
次回に続きます。