春秋時代222 東周景王(四十四) 大火災 前524年(1)

今回は東周景王二十一年です。二回に分けます。
 
景王二十一年
524年 丁丑
 
[] 春二月乙卯(十五日)、周の毛得が毛伯過を殺してその地位を奪いました。
 
周の萇弘が言いました「毛得は必ず亡命することになる。この日は昆吾夏王朝時代の国名。またはその国君の名。商王朝の開祖・成湯によって夏王朝と同じ日に滅ぼされたといわれています)の悪が満ちた日(滅ぼされた日)であり、それは驕横によってもたらされた。毛得も王都で驕横によって成就した。亡命しないはずがない。」
 
[] 三月、曹平公が在位四年で死に、子の悼公・午が立ちました。
 
[] 夏五月、黄昏に火(大火星)が現れました。
丙子(初七日)、風が吹き始めました。
 
魯の梓慎が言いました「これは融風(東北風)というもので、火(火災)の始まりだ(東は五行の木に当たり、火は木から生まれるので、東北風が火災の始まりとされたようです)。七日後(足掛け七日です)に火災が起きる。」
 
戊寅(初九日)、風が強くなりました。
壬午(十三日)、風がますます強くなり、宋、衛、陳、鄭で火災が起きます(『史記・陳杞世家』は陳恵公七年の事としていますが、恵公十年の誤りです)
 
梓慎が大庭氏の庫(大庭氏は古い国名で、魯都内に跡がありました。魯がそこに府庫を立てたため、大庭氏の庫とよばれました)に登って眺め、「(火災が起きたのは)宋、衛、陳、鄭だ」と言いました。
数日後、四国から火災の報告が入りました。
 
鄭の裨竈が言いました「私の言を用いなかったため、鄭でも火災が起きた(前年参照)。」
そこで鄭人が子産に裨竈の言う通りにするよう勧めましたが、子産はやはり同意しませんでした。子太叔が言いました「宝とは民を守るためにあります。火災によって国が亡ぶかもしれません。それを救おうというのに、なぜ宝を惜しむのですか。」
子産はこう言いました「天道は遠く、人道は近い(天道は天象、人道は火災等の人為による災害です)。だから両者が相関することはない。どうして天象から人道を知ることができるのだ。竈は本当に天道を知っているのか?彼は言が多いから、時にはあたることがあっても当然だ。」
子産は祭祀に用いる玉器を裨竈に与えませんでした。暫くして火災は収まりました。

以上は『春秋左氏伝(昭公十八年)』からです。『史記・鄭世家』では、子産は「(祈祷するのではなく)徳を修めるべきだ」と言っています。

『春秋左氏伝』に戻ります。
鄭で火災が起きる前に、大夫・里析が子産に言いました「間もなく大祥(大きな変異)が起きて、民は震撼し、国は滅亡に瀕します。その時、私の身は既に尽きています(死んでいます)。国を遷すことはできませんか。」
子産が答えました「できないことではないが、私一人では決められない。」
火災が起きた時、里析は既に死んでいましたが、埋葬前でした。子産は三十人を送って里析の柩を遷させました。
 
火災が起きると、子産は東門で晋から来た公子や公孫に会い、急いで帰国させました。東門は鄭の各城門の中で最も栄えていた場所のようです。同時に、新客(鄭に来たばかりの賓客)に対しても、司寇を使って城外に避難させました。旧客(以前から鄭にいる客)は家から出ることを禁止します。長期滞在する賓客が住む場所は、火災の備えがあり安全だったようです。あるいは外出して逆に災害に巻き込まれることを恐れたのかもしれません。
大夫の子寬(游吉の子・游速)と子上(詳細不明)に各所の屏攝(祭祀を行う場所)を確認させました。二人は都内の屏攝を全て確認して大宮(太廟)に至ります。
開卜大夫・公孫登に大亀(卜に使います)を移動させ、祝史に主祏(宗廟の神主が入った石の箱)を周廟西周厲王廟)まで運ばせ、先君に火災の報告をしました。
府人も庫人もそれぞれ自分が管轄する場所で火に備えます。
大夫・商成公に命じて司宮(宦官)を監督させ、旧宮人(先公の宮女)を安全な場所に避難させました。
司馬、司寇が火道に並びました。消火活動と盗難を防ぐことが任務です。
城下の人々は列を成して城壁に登りました。
 
翌日、火災を知った城外の野司寇(県士)が徴集した徒役を率いて駆けつけました。
郊人(郊内の郷の長官)が祝史を助けて国北の地を清め、祭壇を築いて玄冥(水神)と回禄(火神)に鎮火を祈りました。
また、四鄘(四城)でも祈祷が行われました。城壁は土が重ねられており、陰気が溜まっているので、火を祓うことができると考えられていたようです。
火災で崩れた家屋を記録し、被災者の賦税を減らして新しい家を建てる費用に充てさせました。
三日間哭礼し、市を封鎖します。
火が収まると行人(外交官)を各地に送って諸侯に火災の報告をしました。
 
宋と衛も同じような対応をしましたが、陳は火災に対して行動を取らず、許は被災者の慰問・救済をしませんでした。この事から、君子(知識人)は義を失った陳と許が早く滅ぶと判断しました。
 
[] 六月、鄅君(鄅は姓・子爵の国)が城外の農地を巡視しました。その間に邾人が鄅城を襲います。
鄅人が城門を閉じようとしましたが、邾人・羊羅が城門を守る鄅人の首を取ったため、鄅城は占拠され、城民が全て捕虜になりました。
鄅子(鄅の国君)は「余には帰るところがない」と言うと、捕まった妻子に会うために邾に行きました。
邾荘公は鄅子の夫人を返し、娘を留めました。
 
[] 秋、曹が平公を埋葬しました。
 
魯から葬礼に参加した者が周の原伯・魯(大夫)に会って話をし、原伯・魯が学問を好まないことを知りました。
帰ってからそれを閔子馬に話すと、閔子馬はこう言いました「周は乱れるだろう。周では多くの人が原伯のように話しているはずだ(学問を好まないと言っているはずだ)。だから大人(政治を行う者)に影響を及ぼしている(人々が学問を好まないから、原伯のような大夫も学問を好まなくなっている)。大人は位を失うことを恐れるべきであるのに、大切な道理を理解できず、『無学でも問題ない。無学は害にならない』と言っている。目先に害がないから学問に励もうとせず、その時その時を過ごすことができればそれで満足している。だから下が上を凌駕しようとするのだ。これで乱れないはずがない。学問とは殖(植物を育てること)と同じだ。学ばなければ(枝葉が落ちるように)堕落する。原氏は亡ぶだろう。」
 
 
 
次回に続きます。