春秋時代223 東周景王(四十五) 周の大銭 前524年(2)

今回は東周景王二十一年の続きです
 
[] 七月、鄭で火災があったため、子産が大規模な社を造って四方の神を祭り、火災の被害者を救済しました。
また、兵を選んで大蒐(閲兵式)を行うことにしました。大蒐のために道が整備されます。
子太叔の廟は道の南にあり、家は道の北にありました。どちらも閲兵の進路に影響しているため、取り壊しが命じられましたが、子太叔は期限を過ぎても動きません。
期限を過ぎて三日後、子太叔が徒役を道の南、廟の北に並べて言いました「子産が通ったら速やかに撤去作業を開始し、汝等が向いている方(廟の方向)で作業を始めろ。」
この日、入朝する子産が子太叔の家の前を通りました。子産は家と廟が撤去されていないのを見て、子太叔を譴責します。すると徒役が南を向いて作業を開始しました。
子産は子太叔の家を通りすぎて衝(大通りの十字路)まで来た時、従者を送ってこう伝えました「北(家)を撤去せよ(廟は壊すな)。」
子太叔は子産が仁によって廟を破壊できないと判断して、わざと子産が来るのを待って作業を開始しました。おかげで子太叔は家を取り壊すことになりましたが、廟を守ることはできました(同じような故事が東周景王十五年530年にもありました。一つの故事が重複して語られているのだと思われます)
 
火災が起きた時、子産が陴(城壁の低くなっている場所)に登って武器を配りました。子太叔が言いました「晋が討伐に来るのではないですか?」
鄭は晋の公子や公孫を帰国させました。その上、城壁で武器を配ったので、晋に対する背反ととられる恐れがありました。
子産が言いました「小国は守(守備。防備)を忘れたら危険になるという。火災が起きたのだからなおさらだ。備えがある国は他国から軽視されないものだ。」
暫くすると、晋の辺吏(辺境の官員)が鄭を譴責して言いました「鄭国に火災が起きたので、晋君も大夫も安心できず、卜筮を行い、各地の名山大川を祭り、犠牲や玉帛を惜しまず鄭のために祈祷している。鄭の災は寡君の憂いである。しかし今、執事(鄭の執政者)は猛然と陴に登って武器を配っている。誰の罪を討つつもりだ。辺人(辺境の晋人)が心配しているので、敢えてこれを告げる。」
子産が答えました「吾子(あなた)の言の通りなら、敝邑の災は確かに貴君(晋君)の憂いでもあります。敝邑の失政によって天が災を降しました。讒慝(姦悪の者)がその隙を狙って悪事を企み、貪婪の人(敵国)を誘ったら、敝邑の不利が重なり、貴君の憂も重ねることになります。幸い滅亡を免れることができたら、まだ話すこともできますが(恐らく武器を配った理由を説明できるという意味です)、不幸にも滅亡してしまったら(火災の隙を衝かれて他国に滅ぼされたら)、貴君が憂いても何の役にも立ちません。鄭が他国に侵されたら、晋に頼るしかありません。既に晋に仕えているのに、なぜ二心を抱くことがあるでしょう。」
 
[] 楚の左尹・王子勝が平王に言いました「許は鄭の仇敵であり、今は楚の地(葉)に住んでいます。これは鄭に対して礼を欠いています。晋と鄭は和睦しているので、鄭が許を攻めたら晋が助け、楚はその地を失うことになるでしょう。楚は許を専有できません。鄭では令政(善政)が行われています。許が(旧許の地の領有権を主張して)『我が旧国だ(旧許の地は鄭に占領されています)』と言っても、鄭は『その地は我が俘邑(捕虜の地。東周桓王八年・前712年に許は鄭に一度滅ぼされてから復国しました)である』と答えるはずです。葉(現在、許国がある場所)は楚国にとって方城外の要所です。その土地を失ってはならず、相手の国(鄭)を軽視することもできず、許を捕虜にされてもならず、讎(鄭の仇・怨み)を招くべきでもありません。主公はよく考えるべきです。」
これは葉の地が鄭に攻撃される前の許国を遷さなければ、鄭との対立を招き、葉の地も失うことになるという意味です。平王は納得しました。
 
冬、平王が王子・勝を派遣して、許を析の地に遷させました。析の旧名は白羽といいます。
 
[] この年、周景王が大銭を鋳造しました。『国語・周語三』に記述があります。
大銭というのは従来の貨幣よりも価値が高い貨幣です。『国語』の注釈(韋昭注)によると、虞(舜)・夏・商・周の金幣(金属の貨幣)は三等ありました。黄(金)は上幣、白(銀)は中幣、赤(銅)は下幣です。景王が鋳造した大銭はこれらの貨幣よりも大きく、価値もあったようです。
景王が大銭を鋳造しようとした時、周の卿士・単穆公が反対して言いました「いけません。古では、天が災(水旱・蝗害等)を降した時、財貨を統計して貨幣の軽重を調整し、民を救済したのです。貨幣が軽く物価が高いことを民が嫌ったら、重幣(大銭)を発行し、母(大銭)によって子(小銭)の流通を助けて民に利益をもたらしました。また、もし貨幣が重く物価が安いことを民が嫌ったら、軽幣(小銭)をたくさん作って流通させ、重幣も廃すことなく、子(小銭)に母(大銭)を助けさせました。こうすることによって、小銭も大銭も利をもたらすことができたのです。
しかし今、王は軽幣を廃して重幣を造ろうとしています(景王は小銭を廃止して大銭に統一しようとしたようです)。これでは(小銭が使えなくなるため)民は資(財)を失い窮乏してしまいます。民が窮乏したら王が必要とする資金も不足し、その結果、民から搾取することになります。民はそれを負担することができず、遠志(異心)を抱き、離散し始めるでしょう。そもそも、国の備えとは災害を防ぐために設けるものと、災害が起きてから救済のために使うものがあります。これらを混同してはなりません。事前に備えをしないことを怠(怠惰)といいます。事後の備えを先に行ったら災を招きます(現行の貨幣でも民に不便がないのに、無理に変えたら禍を招きます)。周は既に羸国(弱国)となり、天が繰り返し災禍を与えています。今また民を離心させて災禍を助けさせるというのですか。民とは共存しなければならないのに、逆に離心させるのですか。災禍に対しては備えを設けなければならないのに、逆に災禍を招いて、どうして国を経営できるでしょう。国に経(国を治める方法)が無いのに、どうして政令を発布できるでしょう。民が政令に従わないことを、上(国君。天子)は憂患とします。だから聖人は民に恩徳を施して、憂患を除いたのです。
『夏書尚書・五子の歌)』にはこうあります『賦税が公平なら、王府に蓄えができる(関石和鈞,王府則有)。』また、『詩(大雅・旱麓)』にもこうあります『旱山の麓を見よ。榛楛(樹木の名)が茂っている(徳が行き届いて陰陽が調和し、樹木が良く育っている)。親しみやすい君子が愉快に禄(福)を求めている(瞻彼旱麓,榛楛済済。愷悌君子,干禄愷悌)。』旱山の麓で榛楛が良く育ったので、君子は気持ちよく禄(福。恐らくここでは果実の意味)を求めたのです。もしも山林が枯れ、林麓(山下の森林)が失われ、藪沢が干され、民力が尽き、田疇(田は穀物、疇は麻を生産する地)が荒れ果て、資用(財貨)が欠乏したら、君子は危機に瀕して悲哀する余裕すらなくなります。どうして気持ちよく禄を求めることができるでしょう。
民用(民の財産。ここでは小銭)を奪って王府を満たすのは、川源を塞いで潢汙(溜池)を作るようなもので、すぐに水が涸れてしまいます。民が離れて財がなくなり、災禍が来ても備えが失われている状態で、王はどうするつもりですか。我が周の官員は災害に対して備えを疎かにしている部分が既にたくさんあります。その上、民の資(財)を奪ったら、災禍を大きくするだけであり、藏(民の財)を棄てさせて人々を死地に追いやることになります。王はよく考えるべきです。」
景王は諫言を聞き入れませんでした。
 
[] この年、燕共公が在位五年で死に、平公が立ちました。
 
 
 
次回に続きます。