西周時代11 成王(四) 魯の伯禽
西周成王八年の続きです。
[四] 周公・旦は魯に封じられていましたが、成王を補佐するため、封国には行きませんでした。成王は周公・旦の子・伯禽を魯に送りました(『史記・魯周公世家』は管蔡等が叛乱を起こした時、周公が封国に行けないため、伯禽を魯に送ったとしています)。
周公・旦が伯禽について傅(教育官)に問うと、傅はこう答えました「彼は寛大で、自分で物事を解決することを好み、しかも慎重です。この三つは彼の美徳です。」
周公・旦が言いました「汝は人が欠点とすることを美徳というのか。彼は誰に対しても寛大だが、それでは賞罰に差がなくなってしまう。これは美徳ではない。自分で解決することを好むというのは、心が狭い証拠だ。君子とは牛のように力があっても牛と争うことなく、馬のように早く走ることができても馬と競うことなく、士のように知識があっても士と競うことはない。彼が自分で行動するのは、他の者と同じ立場になって争っているのだ。それを美徳というのか。彼が慎重なのは見識が狭いからだ。士に会っても問うことがなければ、物事を知ることもできず、知識が少なければ浅ましく賤しくなる。これを美徳というのか。」
周公・旦が伯禽に言いました「わしは文王の子、武王の弟、今上の叔父なので、天下がわしを軽く見ることはない。しかしわしは礼物をもって十人の尊者に会い、三十人の同輩に礼を返し、百余人の士人に礼をもって接してきた。また、千余人を招いて意見を求めたが、その中から得た士は三人に過ぎなかった。わしはその三人によって身を正し、天下を安定させることができた。下士に対して礼を厚くしたから、人々はわしが士人を愛していると思い、多くの人が集まった。そして多くの士人が集まったから彼等の是非を判断することができた。汝は自分を戒めよ。魯国の君主という立場で驕慢になったら危険だ。俸禄を求める士に対しては横柄でもいいが、身を正し、富貴を棄てて勤労に励む士に対しては恭しく接しなければならない。」
『史記・魯周公世家』の周公の言葉は少し異なります。
周公・旦が伯禽を戒めて言いました「わしは文王の子、武王の弟、成王(成王は諡号のはずなので生前に「成王」とよぶことはありませんが、原文のままにしておきます)の叔父なので、天下に軽んじられることはないが、一度の沐浴で三回髪を束ね、一度の食事で三回食べ物を吐き捨てて恭しく士に対応している(「一沐三捉髪,一飯三吐哺」。沐浴や食事の途中でも士が来たらすぐに会いに行くこと。沐浴や食事を頻繁に中断してでも士の対応をすること)。しかしそれでも天下の賢人を失うのではないかと心配している。子(汝)が魯に行ってからも、国君という立場に頼って人に驕ってはならない。」
次は『韓詩外伝・巻三』からです。
周公・旦が伯禽に言いました「徳を行い恭しく寛裕を守る者は栄える。広大な土地を節制によって守る者は安定する。俸禄が多く官位も高いが腰を低くできる者は貴くなる。人が多く兵が強くても慎重な態度を守る者は勝つ。聡明叡智なのに愚者の姿でいる者は哲(本物の聡明)となる。博覧強記でも浅学の姿でいる者は智を益すことができる。この六つは謙徳である。尊貴な天子が四海を擁するのも、この徳によるものだ。恭謙を忘れたら天下を失い身を滅ぼす。桀や紂がそれである。」
『説苑・君道』からです。
成王が伯禽に言いました「汝は人としての上道を理解しているか。貴尊の位にいる者は必ず下の者を敬い、徳に順じて諫言を聞く必要がある。不諱の門(諫言の門)を閉ざしてはならない。節倹・安寧は諫言によって支えられる。たとえ諫者が威を振るうことなく、その発言を信用できなくても、広く意見を求めて選択しなければならない。文があっても武がなければ威信を示すことができない。武があっても文がなければ民は恐れるだけで親しまない。文武を共に行うことで威徳が両立できる。威徳が完成できたら民は必ず服す。上が清ければ下は佞臣を塞ぐことができる。諫者が入ることができたら忠信の者を集めることができる。」
伯禽は再拝してから退出しました。
[五] 伯禽が魯の都・曲阜に至りましたが、淮夷や徐戎が東郊で道を塞ぎました。伯禽は兵を率いてこれらを討ちました。この時、伯禽は『費誓』という文書を作って徐戎の討伐を宣誓しました。『尚書』に収録されています。
『史記・魯周公世家』には『肸誓』という名でほぼ同じ文章が紹介されています。「費」も「肸」も宣誓した場所の地名です。
以下、『史記』から引用します「汝等の甲冑を準備せよ。不善(不備)があってはならない。牿(牛馬を飼う囲み)を破壊するな。馬牛が逃げてきたり、臣妾(奴隷)が逃げてきても、それを追ってはならず、手に入れた物は全て返せ。略奪してはならず、壁を越えて盗みを働いてもならない。三郊三隧(西・南・北三方向の近郊・遠郊)の魯人は芻茭(牛馬の餌)、糗糧(食糧)、楨幹(木の柱)を準備せよ。不足があってはならない。甲戌の日に営塁を築いて徐戎を征伐する。遅れた者は大刑(死刑)に処す。」
魯は徐夷を平定し、成王も東征して淮夷を討ちました。
[七] 鬻熊が文王に仕えたことは書きました。鬻熊は「鬻熊子」「鬻子」「熊蚤」ともいいます。
『史記・楚世家』から改めて紹介します。
その後、呉回は陸終を産み、陸終は六人の子を産みました。六子は母の腹を割いて産まれたといいます。
長子は昆吾、二子は参胡、三子は彭祖、四子は会人、五子は曹姓、六子は季連といいます。
三子の彭祖氏は殷(商)代に侯伯になりましたが、殷の末期に滅ぼされました。
鬻熊は季連の子孫にあたり、周文王に仕えました。
熊蚤の死後(「熊蚤」は「鬻熊」の別名とされています。但し、原文は「蚤死」の二文字です。あるいはこの「蚤」は人名ではなく「早」に通じ、「鬻熊は早死にした」という意味ともとれます。東周桓王十六年・前704年に「鬻熊は文王の師だったが早死した」という文があります)、子の熊麗が継ぎました。熊麗は熊狂を産み、熊狂は熊繹を産みました。
熊繹は成王の時代にあたります。成王は文王・武王時代の功臣の子孫を探し、熊繹を楚蛮に封じました。子爵や男爵に相当する田地が与えられます。熊鐸は羋氏で、丹陽に住みました。
楚子・熊繹は魯公・伯禽、衛康叔・子牟、晋侯・爕、斉太公の子・呂伋と共に成王に仕えました。
[八] 「象舞」を作りました。
『毛詩正義・巻十九之一』に「象舞」の解説があります。「象」は「像」に通じ、「真似る」という意味です。文王の軍が戦う時の様子を舞にしたものとしています。武王が文王を称えて『象舞』という舞楽を作り、成王の時代になって宗廟で奏でられるようになったようです。
[九] 冬十月、王師が唐を滅ぼし、その民を杜邑に遷しました。
次回に続きます。