春秋時代224 東周景王(四十六) 楚の太子建 前523年

今回は東周景王二十二年です。
 
景王二十二年
523年 戊寅
 
[] 春、楚の工尹・赤が陰地の戎を下陰に遷し、令尹・子瑕が郟に築城しました。どちらも楚を守るための措置のようです。
 
魯の叔孫昭子)が言いました「楚の志は諸侯になく、自分を守って代々伝えることだけにある。」
 
[] 蔡の邑である陽の封人(国境を管理する官)の娘と平王との間に子ができました。太子・建です。これがいつの事かははっきりしません。平王が蔡公だった頃の事だとすると、この年、太子はまだ七歳前後なので幼すぎます。それよりも前に蔡を聘問したことがあり、女性と関係を持ったのかもしれません。
平王は即位すると伍奢(伍挙の子)を太子の師に、費無極を少師に任命しました。しかし費無極は太子に好かれなかったため、讒言の機会を探しました。
ある日、費無極が平王に言いました「建は室(妻)を迎えるべきです。」
平王は同意して秦から妻を迎えることにしました。費無極が秦に派遣されます。
しかし帰国した費無極は、平王に秦女の美貌を語り、平王自ら娶るように勧めました。
正月、秦女・嬴氏が楚に入り、平王夫人になりました。
 
以上は『春秋左氏伝(昭公十九年)』の記述です。
史記・秦本紀』は三年前の晋哀公十一年(東周景王十九年・前526年)に「楚平王が秦女を太子・建の妻にしようとしたが、秦女が楚国に至ると、美しかったため、平王が娶った」と書いています。
また、同じ『史記』でも『楚世家』と『十二諸侯年表』では、楚平王二年(東周景王十八年・前527年。四年前)の事としています。
以下、『楚世家』からです。
平王が太子・建に妻を娶らせるため、大夫・費無忌秦に派遣しました。しかし秦女より先にい濃くした費無忌平王にこう言いました「秦女は美しいので王が娶るべきです。太子には別の女性を求めましょう。」
平王は同意し、秦女を娶りました。後に熊珍が産まれます。
太子は別の女性を娶りました
『楚世家』によると太子・はこの時十五歳で、蔡女です。母は平の寵愛を受けておらず、費無忌もしばしば太子を讒言していたため、平は太子を遠ざけるようになりました。

[] 前年、鄅国が邾国に占拠されました。
鄅子の夫人は宋の向戌の娘だったため、向戌の子・向寧(夫人の兄弟)に出兵を請いました。
 
二月、宋元公が邾を討伐して蟲(邾の邑)を包囲しました。
三月、宋が蟲を占領しました。
邾は鄅から奪った捕虜を全て釈放しました。
 
[] 夏、許悼公が瘧(伝染病)にかかりました。
五月戊辰(初五日)、太子・止が薬を飲ませると、悼公は死んでしまいました。太子は晋に出奔します。
 
君子(知識人)はこの出来事についてこう言いました「心力を尽くして国君に仕えたのなら、薬を飲ませなくても問題ない(薬を飲ませなくても不孝の謗りを受けることはない)。」
無理して、もしくは軽率に薬を飲ませた太子・止を非難する意味が込められています。
 
なお、この事件を『春秋』経文は「許の世子(太子)・止がその君・買(悼公)を弑した」と書いています。わざとではないにしても父を死に至らしめた太子を責めています。
 
許では公子・斯(悼公の子)が即位しました。斯の代で許国は一度滅ぼされるため、諡号はなく、「許男・斯」とよばれています。
 
[] 邾人、人、徐人が宋元公と会見しました。邾討伐が終了したからです。
乙亥(十二日)、蟲で盟を結びました。
 
[] 楚平王が舟師を動員して濮(南夷の地)を攻撃しました。
 
費無極が平王に言いました「晋が伯(覇者)になったのは、諸夏(中原諸国)が近かったからです。楚は辟陋(辺鄙な地)にいるので、(晋と諸侯を)争うことができません。城父に大城を築き、太子を置いて北方と通じさせ、王が南方を収めれば、天下を得ることができます。」
平王は喜んで進言に従い、太子・建を城父に住ませました。
 
[] 楚の令尹・子瑕が秦を聘問しました。秦から夫人を娶ったからです。
 
[] 己卯(十六日)、魯で地震がありました。
 
[] 秋、斉の高発が莒を攻めました。莒共公は紀鄣(莒の邑。「紀」ともいいます)に奔ります。
斉は孫書(陳無宇の子・子占)に紀鄣を討たせました。
 
以前、莒共公が一人の男を殺しました。その妻は嫠婦寡婦になって歳をとりました。
婦人は紀鄣に移り住んでから、城壁の高さほどある長い縄を作って隠していました。
斉軍が紀鄣に至ると、婦人は城壁から縄を落としました。同時に孫書に人を送り、夜になったら城壁を登るように伝えます。
夜、六十人の斉兵が城壁を登った時、縄が切れてしまいました。しかし城下の斉軍が一斉に喚声を上げて戦鼓を敲き、城壁に登った六十人も喚声を上げました。
莒共公は驚き恐れ、西門を開いて逃走しました。
七月丙子(十四日)、斉軍が紀鄣に入りました。
 
[] 冬、許が悼公を埋葬しました。
 
[十一] この年、鄭の子游(駟偃)が死にました。
子游は晋の大夫の娘を娶り、絲が産まれました。しかしまだ幼弱だったため、父兄(父や兄と同世代の親族)は子瑕(駟乞。献子)を跡継ぎに立てました。子瑕は公孫夏の子、子游の弟で、絲の叔父に当たります。
しかし子産は子瑕を嫌っており、子ではなく弟が継ぐというのも通常の慣習から外れているため、賛同もせず、反対もせず、中立の態度をとりました。駟氏はこれを恐れました。
 
後日、家を継げなかった絲が晋の大夫(外祖父)に訴えました。
 
冬、晋人が幣物を持って鄭に入り、なぜ駟乞が後継者になったのかを問いました。駟氏は晋を恐れ、駟乞は逃げようとします。しかし子産が駟乞を留めました。駟乞が亀で卜おうとしましたが、子産はそれも拒否します。鄭の大夫がどう対応するか相談していると、子産が大夫の結論を待たず、晋の客に言いました「鄭国は天の福がないため、寡君の二三臣(諸臣)が病死・夭折し、今また我が先大夫・偃も失いました。その子は幼弱なので、父兄は宗主が途絶えることを心配し、私族で相談して年長の親族を立てたのです。この事に対して、寡君と二三老(卿大夫。大臣)は『あるいは天が継承の常法を乱したのかもしれない(嫡子ではなく弟が継ぐというのは天意かもしれない)。我々ではどうすることもできない』と言っています。諺には『動乱が起きている門は通らない(無過乱門)』とあります。民でも乱兵があれば恐れてそこを通ろうとしないのですから、天が降した乱ならなおさら関わることができません。今、大夫(あなた)は継承の理由を問いましたが、寡君でも知ることができないのに、誰が知っているというのでしょうか。平丘の会で貴君(晋君)は旧盟を温めてこう言いました『職責を失ってはならない(それぞれの国が周王から与えられた職責を全うしなければならない。諸侯は独立した国として責任を果たさなければならない)。』もしも寡君の二三臣が世を去った時、晋の大夫が専制して後継者の位を決めるようなら、鄭は晋の県鄙(辺境の県邑)になったのと同じです。そのような状態になって国ということができるでしょうか。」
子産は晋の客が贈った幣物を返し、礼を用いて使者を遇しました。晋人は干渉をあきらめました。
 
[十二] 楚が州来に城を築きました。
沈尹・戌(楚荘王の孫、または曾孫)が言いました「楚は失敗するだろう。以前、呉が州来を滅ぼした時(東周景王十六年・前529年)、子旗が討伐を願ったが、王は『まだ我が民を慰撫していない』と言って拒否した。今もそれは同じなのに、州来に築城して呉を挑発している。失敗しないはずがない。」
侍者が言いました「王は施舍を行って倦まず、民を五年も休めました。慰撫したといえるでしょう。」
戌が言いました「民を慰撫するというのは、内では節用し、外には徳を築き、民は生活を楽しみ、寇讎(仇)がなくなることをいう。今、宮室の贅沢は限りなく、民はいつも不安に震え、辛労によって死んでも埋葬されず、寝食の余裕もない。これでは慰撫したとはいえない。」
 
[十三] 鄭で大水(洪水)がありました。
この時、龍が時門(鄭城南門)外の淵で戦ったという情報が入ったため、国人が禜(祭祀)を求めました。しかし子産が拒否して言いました「我々が争った時、龍は我々を観ようともしない。龍が争った時、なぜ我々が観なければならないのだ。祭祀を行ったとしても、時門外の淵は元々龍の住処だ(去るはずがない)。我々が龍に求めることはなく、龍も我々に求めることはない。」
祭祀は行われませんでした。
 
[十四] 楚の令尹・子瑕が蹶由(呉王の弟で、楚に捕まりました。東周景王八年・前537年参照)のために平王に言いました「彼に何の罪があるのですか?諺に『家の中で怒って市で鬱憤を晴らす(室於怒市於色)』とありますが、まさに今の楚のことを言っています(憎んでいるのは呉王なのに、弟を捕えたという状況を指します)。今までの怨みを棄てるべきです。」
蹶由は釈放されました。
 
 
 
次回に続きます。