西周時代 『史記・世家』の分封に関する記述

西周武王によって諸侯の分封が行われました。
史記』の『世家』が各所で分封とその後についてまとめています。

まずは『史記・陳杞世家』から聖人の子孫の分封についてです。
舜の子孫は周武王によって陳に封じられ、楚恵王に滅ぼされました。『陳杞世家』があります。
禹の子孫は周武王によって杞に封じられ、楚恵王に滅ぼされました。『陳杞世家』があります。契の子孫は殷(商)王朝を開きました。『殷本紀』に書かれています。
殷が破れると周はその子孫を宋に封じました。宋は斉湣王に滅ぼされます。『宋微子世家』があります。
后稷の子孫は周王朝を開き、秦昭王に滅ぼされました。『周本紀』があります。
皋陶の子孫は英や六に封じられ、楚穆王に滅ぼされました。詳細は伝わっていません。
伯夷の子孫は周武王によって斉に封じられました。これを太公望といいます。後に陳氏に滅ぼされます。『斉太公世家』があります。
伯翳の子孫は周平王の時代に秦に封じられ、項羽に滅ぼされました。『秦本紀』『秦始皇本紀』があります。
垂、益、夔、龍の子孫がどこに封じられたのかはわかりません。
以上、十一人は唐虞の時代に功を立てた徳臣です。このうち五人(舜・禹・稷・契・翳)は本人もしくは子孫が帝王になりました。それ以外は全て諸侯になりました。
滕、薛、騶(邾)といった国は夏・殷・周の間に封じられましたが、小国なので語るべきことはありません。 
 
 
次は『史記・管蔡世家』から西周文王の子(武王の兄弟)に関してです(一部、本編と重複します)
文王の正妃は太姒といいます。姒姓の女性で、夏禹夏王朝初代王)の子孫といわれています。太姒は十人の子を産みました。長子は伯邑考(伯は最年長の意味)で、次子が武王・発です。その後は管叔・鮮、周公・旦(魯国の祖)、蔡叔・度、曹叔・振鐸、成叔(郕叔)・武、霍叔・処、康叔・封(康は畿内の国名。後に衛国に遷されます)といい、末子が冄季載(冄は国名。季は最年少の意味)になります。
十人の同母兄弟の中で特に発と旦に賢才があり、常に文王の左右に仕えて補佐してきました。そのため文王は長子の伯邑考ではなく、次子の発を太子に立てました。
 
文王が死んで発が即位した時、伯邑考は既に死んでいました。その後世がどこに封侯されたかはわかりません。
武王・発とその後世に関しては『史記・周本紀』に記述があります。
管叔・鮮は成王の時代に乱を起こして殺され、家系が断絶しました。
周公・旦は『魯周公世家』に記述があります。
蔡叔・度は『管蔡世家』があります。
曹叔・振鐸は『管蔡世家』に付記されています。
成叔・武の後世についてはよくわかっていません。
霍叔・処の後世は晋献公に滅ぼされました。
康叔・封は『衛康叔世家』に記述があります。
冄季載の後世についてはよくわかっていません。