春秋時代225 東周景王(四十七) 伍子胥の出奔 前522年(1)

今回は東周景王二十三年です。三回に分けます。
 
景王二十三年
522年 己卯
 
[] 春二月己丑日(初二日。または朔日)、南至冬至、魯の梓慎が気を観測して言いました「今年は宋で乱が起きて滅亡に瀕し、三年後にやっと乱が鎮静化する。蔡では大喪がある。」
叔孫昭子)が言いました「(宋で難を受けるのは)戴族(華氏)と桓族(向氏)だろう。驕慢で礼がないこと甚だしい。乱が存在する場所だ。」
 
[] 楚の費無極が平王に言いました「太子・建は伍奢と共に方城の外で謀反を企み、宋・鄭のように独立した一国になろうとしています。斉も晋もこれを助けているので、将来、楚を害することになります。彼等の謀反は成功するでしょう。」
平王は讒言を信じて伍奢に詰問しました。伍奢が答えました「主君は既に一回過ちを犯しました(太子・建が娶るはずの秦女を自分の夫人にしたことを指します)。一回の過ちでも多いのに、讒言を聞いて更に過ちを重ねるつもりですか。」
平王は諫言を聞かず、伍奢を逮捕しました。
 
以上は『春秋左氏伝』からです。この内容は『淮南子・人間訓』にもありますが、若干異なります。
伍子奢(伍奢)の游人(游客)が平王に太子・建の仁と勇を語り、民心を得ていることを報告しました。
平王がそれを費無忌(費無極)に話すと、費無忌はこう言いました「それは臣もかねてから聞いています。太子は(城父に移ってから)内は百姓を安定させ、外は諸侯と結び、斉や晋も太子を助けています。将来、楚の害となるでしょう。この事は既に久しくなります。」
平王が言いました「わしの太子でありながら、これ以上、何を望むというのだ?」
費無忌が答えました「秦女の事で王を怨んでいます。」
平王は太子・建と伍子奢を殺すことにしました。
 
『春秋左氏伝(昭公二十年)』に戻ります。
平王は城父の司馬・奮揚に太子の処刑を命じました。しかし奮揚は使者を送って太子に報せ、逃走させました。
 
三月、太子・建が宋に奔りました。
平王が奮揚を召すと、奮揚は城父の人に自分を逮捕させて平王の前に連行させました。平王が言いました「言(命令)は余の口から出て汝の耳に入った。誰が建に伝えたのだ?」
奮揚が答えました「臣が伝えました。かつて君王は臣に対して『余に仕えるように建に仕えよ』と命じました。臣は不才なので二心を抱くことができません。最初の命令を奉じて太子に接してきたので、後の命令(処刑すること)を実行するわけにはいかず、わざと逃がしました。暫くして後悔しましたが、既に間に合いませんでした。」
平王が問いました「なぜ敢えてここに来た?」
奮揚が言いました「命を受けながら命を失い(命令に逆らい)、召されたのに来ないようでは、罪を重ねることになります。それでは逃げる場所もありません。」
平王が言いました「帰って今まで通り職務を行え。」
 
費無極が言いました「伍奢の子は有能な人材なので、もし呉に仕えるようになったら必ず楚国の憂いになります。父の罪を赦すと言って招くべきです。彼等は仁があるので必ず来ます。そうしなければ後の患憂になるでしょう。」
平王は使者を送って伍奢の子にこう伝えました「朝廷に来れば父を釈放する。」
棠君(棠尹。棠は地名)・伍尚が弟の伍員(字は子胥)に言いました「汝は呉に行け。私は(朝廷に)帰って死ぬ。私の才智は汝に及ばない。私は死ぬことができ、汝は報いることができる。父の命が助かると聞いたら、駆けつけないわけにはいかない。親戚(親や親族)が殺されたら、報いないわけにはいかない。駆けつけて父を死から逃れさせることができるのなら、それは孝である。功(成果)を予測してから行動するのは仁である(仁者は成功を重視するといいます)。任務を選んで進むのは知である。死を知って避けないのは勇である。父を棄てることはできず、名を廃することもできない。汝は努力せよ。私の言に従え。」
こうして伍尚だけが平王に会いに行きました。伍奢は伍員が来ないと知って「楚君も大夫も食事を遅くとることになるだろう(伍員の報復を恐れて通常の時間に食事をすることができなくなるという意味です)」と言いました。
楚は伍奢と伍尚を処刑しました。
 
史記・楚世家』にはこの時の事が少し詳しく書かれています。
費無忌が平王に「伍奢には二子がいます。彼等を殺さなければ楚国の憂患となるでしょう。父の刑を免じると言って招けば必ず来ます」と進言したため、平王が伍奢に使者を送って伝えました「二子を招くことができたら生かしてやろう。できなかったら死だ。」
伍奢が言いました「尚は来るが胥は来ない。」
平王がその理由を問うと、伍奢はこう答えました「尚の人となりは廉潔で死節を守ることができる。また、慈孝で仁があるので、父を助けられると聞いたら必ず死を顧みず招きに応じる。胥の人となりは智があり謀を好み、勇を持って功を立てようとしている。来れば殺されると知っているから、招きに応じるはずがない。楚国にとって憂いとなるのはこの子だ。」
平王の使者が伍尚と伍胥に伝えました「王のもとに来れば汝の父の罪を赦そう。」
伍尚が伍胥に言いました「父の罪が許されると知って行かないのは不孝だ。父が殺されながら仇に報いないのは無謀だ。能力を測って事を成し遂げるのは知だ。子(汝)は去れ。私が帰順して死のう。」
伍尚は朝廷に向かいました。
伍胥は弓矢を持って部屋を出ると使者に会って言いました「父に罪があるのに、なぜ子を招く必要があるのだ。」
伍胥が矢をかまえると、使者は逃げ帰りました。
伍胥は呉に出奔します。
この事を聞いた伍奢が言いました「胥が亡命したのなら、楚国の危機となるだろう。」
楚は伍奢と伍尚を処刑しました
 
『春秋左氏伝』『史記・楚世家』によると、楚を出た伍員は直接呉に入ったようです。しかし『史記伍子胥列伝』『呉越春秋』等は呉に入る前に宋・鄭を経由したとしています(太子・建に関して、『史記・鄭世家』では鄭定公八年・東周景王二十三年・前522年に太子が鄭に走り、二年後の鄭定公十年が太子・を殺したとしています)
伍子胥列伝』に関しては後述します。『呉越春秋』の内容は別の場所で紹介します。

『春秋左氏伝』に戻ります。
呉に入った伍員が呉王・僚(州于)に楚討伐の利を説きました。
しかし公子・光がこう言いました「彼は宗族(家族)が殺されたから、仇を討つために言っているのです。聞く必要はありません。」
伍員は「公子には異志がある。彼のために士を求め、辺境で動きを待とう」と判断し、鱄設諸(専諸)を公子・光に推挙しました。伍員自身は辺境で農耕を始めます。
 
公子・光に関して『史記・呉太伯世家』からです。
公子・光は王諸樊の子です。夷末の子・僚が呉王になってから、公子・光はしばしばこう言いました「私の父は四人兄弟で、国君の地位を季子(末子・季札)に伝えるはずだった。しかし季子は国君の地位を受け入れなかった。私の父が先に国君になったのだから、季子に伝えないのなら私が即位するべきだ(自分は諸樊ので、今の王・僚は夷末の子だ。諸樊は夷末の兄だったのに、私が僚に仕えるのは間違っている)。」
公子・光は秘かに賢士を集め、王僚を襲う機会をうかがっていました。
 
呉に仕えることになった伍子胥は楚に対して復讐を行います。『史記』は伍子胥のために列伝を立てて劇的な伍子胥の生涯を描いています。『伍子胥列伝』は『史記』の列伝を代表する一篇なので、別の場所で紹介します。
 
[] 夏、曹の公孫会が(または「夢」。曹の邑)から宋に出奔しました。出奔の詳細は分かりません。
公孫会は曹宣公の孫、子臧(欣時)の子で、子臧はかつて曹国君の地位を譲った人物です(東周簡王十年・前576年)
 
[] 宋元公は信がなく私心が多く、華氏と向氏を嫌っていました。華定と華亥が向寧と謀って言いました「亡命は死よりもましだ。先に動こう(殺される前に動こう。失敗しても亡命すればいい)。」
華亥は病と称して諸公子を誘い、見舞いのために来た公子を次々に拘留しました。
 
六月丙申(初九日)、公子・寅、公子・御戎、公子・朱、公子・固と公孫・援、公孫・丁が殺されました。公子達は元公の子、公孫達は平公の孫です。また、向勝と向行(元公の党)も捕まり、廩(穀倉)に幽閉されました。
元公自ら華氏を訪ねて赦しを請いましたが、華氏は同意せず、逆に元公を捕まえました。

以上は『春秋左氏伝(昭公二十年)』の記述です。『史記・宋微子世家』は「宋元公にはがなく、偽って諸公子を殺したため、大夫氏と向氏が乱を起こした」としています。
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
癸卯(十六日)、太子・欒(または「曼」。後の景公)と同母弟・辰、公子・地(三人とも元公の子)が人質として華氏に送られました。華氏と向氏も元公に人質を送ります。華亥の子・華無慼、向寧の子・向羅、華定の子・華啓が人質になりました。
双方が人質を受け入れ、元公と華氏が盟を結びました。
 
 
 
次回に続きます。