春秋時代 『史記・伍子胥列伝』 後編

今回は『史記伍子胥列伝』の続きです。
 
伍員が楚にいた頃、申包胥と友になりました。伍員が亡命した時、申包胥に言いました「私は必ず楚を覆してみせる。」
申包胥が言いました「私が必ず楚を存続させてみせる。」
呉軍が郢に入城してから、伍子胥は昭王を探しました。しかし昭王は既に逃走していました。そこで楚平王の墓を掘り、屍を取り出して鞭打ちました。三百回打ってやっと止めます。
 
山中に逃走していた申包胥が人を送って伍子胥にこう伝えました「子(あなた)の報復はやり過ぎだ。『人の群れは天に勝つが、天命が定まればまた人を破る(凶暴な群衆は天に勝つことができるが、天が凶を降せば凶暴な人の群れを破ることになる。「人衆者勝天,天定亦能破人」)』という。子はかつて平王の臣下であり、自ら北面して仕えていた。しかし今、死人となった王をこのように辱めるとは、天道を失った行為の極みではないか。」
伍子胥が使者に応えました「私のために申包胥に感謝してこう伝えてほしい『日が沈もうとしているのに、私の道は遥か遠い。だから道理に逆らった行動をしたのだ(私は復讐ができずに自分が死ぬことを心配していた。今、やっと復讐の機会を得たので、道理にかまっている余裕はない。「吾日莫途遠,吾故倒行而逆施之」)。」
 
申包胥は急いで秦に入り、楚の危急を告げました。しかし秦は援軍の派遣を拒否します。
そこで申包胥は秦の朝廷に立って昼夜痛哭しました。七日七夜、泣声が途絶えません。
秦哀公がついに申包胥を憐れんで言いました「楚は無道だが、このような臣がいる。存続させないわけにはいかない。」
秦は兵車五百乗を送って楚を助けることにしました。
 
六月、秦軍が郢郊外の稷で呉軍を破りました。
この頃、呉王・闔廬が久しく楚に留まって昭王を探していたため、闔廬の弟・夫概が先に帰国して王を称しました。
それを知った闔廬は楚攻略をあきらめて兵を還し、夫概を攻撃します。夫概は敗走して楚に降りました。
楚昭王は呉の内乱を見て再び郢に戻り、夫概を堂谿に封じました。これを堂谿氏といいます。
更に楚軍は呉軍と戦って破りました。呉王・闔廬は呉に戻りました。
 
二年後、闔廬が太子・夫差に楚を攻撃させ、番を取りました。楚は呉の大挙侵入を恐れ、都を郢から鄀に遷します。
当時の呉は伍子胥孫武の謀によって、西は強楚を破り、北は斉晋を脅かし、南は越人を帰服させることができました。
 
その四年後、孔子が魯で相になりました。
 
更に五年後、呉が越を攻撃しました。しかし越王・句践が迎撃し、呉軍は姑蘇(「檇李」の誤り)で敗れます。闔廬が足の指を負傷したため、呉軍は退却しました。闔廬はこの怪我が元で死んでしまいます。
死ぬ前に闔廬が太子・夫差に言いました「汝は句践が汝の父を殺したことを忘れるか?」
夫差が答えました「忘れることはありません。」
その日の夕方、闔廬が死んで夫差が呉王になりました。伯嚭を太宰に任命します。
夫差は復讐のために将兵を鍛えました。
 
二年後、呉が越を攻めて夫湫で破りました。
越王・句践は余った兵五千を率いて会稽山に立て籠り、大夫・種(姓は文。種は名。字は子禽)を送って厚幣(賄賂)を呉の太宰・嚭に届けました。越国の政治を呉に委ね、越王と王后が呉の臣妾(臣下。奴隷)になることを条件に和を求めます。
呉王・夫差が同意しようとすると、伍子胥が諫めて言いました「越王は辛苦を乗り越えることができる人物です。今滅ぼさなければ、後に必ず後悔します。」
夫差は諫言を聞かず、太宰・嚭の勧めに従って越と講和しました。
 
その五年後、斉では景公が死んでから大臣が利を争っており、しかも新君が幼弱でした。それを知った呉王・夫差は斉への北伐を考えます。
伍子胥が諫めて言いました「句践は重味(調味料で味付けした物。美食)を食べず、死者を弔い病人をいたわっています。これは事を起こそうとしているからです。彼が死ななければ必ず呉の患いになります。呉にとって越は腹心に潜む疾病と同じです。それなのに王は越よりも斉の事を優先しようとしています。これはおかしなことです。」
呉王・夫差は諫言を聞かず、斉を攻撃して艾陵で大勝しました。鄒国と魯国の主君を威服させて帰還します。
斉に大勝した夫差は呉子胥の謀を遠ざけるようになりました。
 
四年後、呉王・夫差が再び斉に北伐しようとしました。越王・句践は子貢の謀を採用し、越の衆を率いて呉軍を援けます。同時に重宝を賄賂として太宰・嚭に贈りました。太宰・嚭はしばしば越から賄賂を受け取っていたため、越を寵信していました。そこで昼夜、越のためになる話を呉王に聞かせます。夫差は太宰・嚭の言を信じました。
伍子胥が諫言しました「越は腹心の病です。今、彼等の浮辞・詐偽を信じて斉を貪ろうとしていますが、斉を破ったとしても、それは石ばかりの田地を得るようなもので、役に立ちません。盤庚(商代の王)の誥にこうあります『法を破って恭順ではない者は徹底して滅ぼし、その子孫を残してはならない。この城邑においては、(悪人を残して)善人に悪い影響を与えてはならない(有顛越不恭,劓殄滅之,俾無遺育,無使易種于茲邑)。』この教えに従ったから商は興隆したのです。王は斉を棄てて越を優先するべきです。そうしなければ後悔しても手遅れになります。」
呉王はやはり諫言を聞かず、伍子胥を使者にして斉に派遣しました(何のための使者かははっきりしません)伍子胥は出発前に自分の子に言いました「わしは何回も王を諫めてきたが、王は用いようとしない。呉の滅亡は見えている。汝と呉が共に亡ぶのは無益なことだ。」
斉に入った伍子胥は斉の鮑牧に自分の子を託してから帰国しました。
 
呉の太宰・嚭は伍子胥と対立していました。そこで伍子胥を讒言して言いました「子胥の人となりは剛暴で、恩情が少なく、疑い深いので、彼の怨恨は大きな禍になるでしょう。以前、王が斉の討伐を欲し、子胥が反対しましたが、王は兵を発して大功を挙げました。子胥は自分の計謀が用いられなかったことを恥とし、怨みを抱いています。今、王はまた斉を討伐しようとしていますが、子胥は頑固に強諫し、士気を落として国の大事を損なおうとしています。呉の敗戦によって自分の計謀が優れていることを証明したいのでしょう。王は自ら国中の武力を総動員して斉を討とうとしていますが、子胥は諫言が用いられないため朝廷に顔を出さず、病と偽って出征に参加しようともしません。王が彼に対して警戒しなければ、容易に禍を起こすことになります。しかも、嚭が人を使って秘かに調べたところ、彼は使者として斉に行った時、その子を斉の鮑氏に託して来たようです。人臣でありながら国内で満足できず、国外の諸侯に頼っているのです。彼は先王の謀臣を自負し、最近用いられないからといって常に怨みを抱いています。王は早く手を打つべきです。」
呉王が言いました「子(汝)の言が無くても、わしは彼を疑っていた。」
 
呉王は使者を送って伍子胥に属鏤の剣を下賜し、こう伝えました「子(汝)はこれを使って自尽せよ。」
伍子胥は天を仰ぎ嘆いて言いました「ああ、讒臣・嚭が乱を招き、王がわしを誅殺することになった。わしは汝の父を霸者とし、汝がまだ即位する前には、諸公子が位を争う中、わしが先王の前で命をかけて汝のために争った。汝が太子に立てられた時、汝は呉国を分けてわしに与えると約束したが、わしはそれを望もうともしなかった。しかし今、汝は諛臣の言を聞いて長者を殺そうというのか。」
伍子胥が舍人(門客)に言いました「わしの墓の上に梓の木を植えよ。器(棺)にすることができる(間もなく呉が滅んで夫差の棺が必要になるからです)。わしの眼をくりぬいて呉東門の上に掲げよ。越寇が城に入って呉を滅ぼす様子を眺めるためだ。」
伍子胥自刎して死にました。
伍子胥の言葉を聞いた呉王は激怒し、伍子胥の死体を鴟夷革(皮の袋)に入れて長江に棄てさせました。
呉の人々は伍子胥を哀れみ、江上に祠を建てます。この場所は胥山とよばれるようになりました。
 
伍子胥の死は『春秋左氏伝』では東周景王三十六年・魯哀公十一年・呉王夫差十二年・前484年に書かれていますが、『史記・十二諸侯年表』では一年前の呉王夫差十年となっています。
 
呉王・夫差は伍子胥を殺してから斉に兵を向けました。
ちょうどこの時、斉の鮑氏が国君・悼公を殺して陽生を即位させました。呉王は鮑氏を討伐しようとしましたが、勝てずに引き返しました。
二年後、呉王が魯と衛の国君を橐皋に招いて会を開きました。
その翌年、勢いに乗った呉王・夫差は北上して黄池で諸侯と大会を開き、周王に代わって号令を発しました。覇者の地位が認められます。
ところがその隙に越王・句踐が呉を襲い、太子を殺して呉軍を破りました。
情報を得た呉王はすぐに帰国し、使者を越に派遣して厚幣によって和を結びました。
しかし九年後に越王・句踐が呉を滅ぼし、夫差を殺しました。外から重賂を受け取っていた太宰・嚭も主君に対する不忠という罪によって誅殺されました。
 
 
以上が『伍子胥列伝』に描かれた伍子胥の生涯です。司馬遷はこの後、楚から亡命した太子・建の子・勝のその後についても書いていますが省略します。
また、刺客・専諸の故事、呉越の攻防と臥薪嘗胆等、この時代は面白い話がたくさんあり、それぞれ『刺客列伝』『呉太伯世家』『越世家』等に詳述されていますが、本編でも述べるので訳は控えます。
伍子胥列伝』は『史記』列伝の中でも特に物語性が強く、『史記』を代表する作品のひとつと言われているので、特別にここで紹介しました。