春秋時代226 東周景王(四十八) 衛の内争 前522年(2)

今回は東周景王二十三年六月の続きからです。
 
[] 衛霊公の兄・公孟縶は斉豹(斉悪の子)を軽視していたため、司寇の官と鄄邑を奪いましたが、斉豹の力が必要になると官や邑を返して利用しました。事が終わるとまた官と邑を取り上げるということが繰り返されます。
公孟縶は北宮喜(貞子)と褚師圃も嫌っていたため、二人を除く方法を考えていました。
 
同じ頃、公子・朝が襄夫人・宣姜(霊公の母)と私通していたため、発覚を恐れて乱を企んでいました。
霊公に対する謀反を図る公子・朝は、公孟縶に不満を持つ斉豹、北宮喜、褚師圃と手を結びます。
 
かつて斉豹が宗魯を公孟縶の驂乗(兵車に同乗する勇士)として推挙しました。
乱を起こす前に斉豹が宗魯に言いました「公孟の不善は子(なんじ)も知っていることだ。彼の車に乗るな。我々は彼を殺すつもりだ。」
宗魯はこう言いました「私は子(あなた)のおかげで公孟に仕えることができました。子が私には名声があると言って推挙したから、私は公孟から遠ざけられなかったのです。公孟の不善は私も知っています。しかし彼に仕えることで利があったので、今まで彼から離れませんでした。これは私の誤りです。もし今回、難を聞いて逃走したら、子の言(宗魯は名声があり立派な人材だということ)を嘘にしてしまいます。子は子の事を行ってください。私は彼に従って死にます。子のために秘密を守り、公孟の下で死ぬことにします。」
 
丙辰(二十九日)、衛霊公が都城を出て平寿(衛の邑)に行きました。
霊公不在の間に公孟縶が蓋獲の門(外城の門)の外で祭祀を行いました。
斉豹はこれを好機と考え、門外に帷幕を張って甲士を隠し、祝鼃に命じて車で門を塞がせます。車の上には薪を積み、その中に戈を隠しました。また、一乗の車を公孟縶の後ろに従わせました。
 
公孟縶の車は華斉が御し、宗魯が驂乗になりました。
公孟縶一行が門まで来ると祝鼃が車で道を塞いでいたため、公孟縶は閎(恐らく正面の門ではなく脇にある小さい門)から出ようとします。しかし閎門に入った時、斉氏の甲士が戈で公孟縶を撃ちました。宗魯が背を向けて公孟縶を守り、腕を斬られます。更に戈は公孟縶の肩に刺さり、二人とも殺されました。
 
乱を知った霊公は慌てて車に乗り、閲門(衛の城門。恐らく乱が起きた場所から離れている門)から国都に入りました。慶比が霊公の車を御し、公南楚(公は公子・公孫を意味します)が驂乗となり、華寅が貳車(副車)に乗っています。
公宮に到着した時、鴻駵魋(鴻が氏)も霊公の車に乗りました。
霊公は宝物を車に乗せて公宮を出ます。
褚師子申が馬路の衢(十字路)で霊公に合流しました。
 
霊公は斉氏の家の前を通る時、華寅に肉袒(上半身を裸にすること。戦う意志がないことを示します)させ、車蓋(傘)を盾にしました。しかし斉氏が霊公に矢を放ち、南楚の背に刺さります。霊公は城から逃走しました。
 
華寅が郭門(城門)を閉じてから、城壁を越えて霊公に従いました。
霊公は死鳥(地名。衛城東。斉に向かう途中)に入りました。
城内の析朱鉏(成子)も夜の間に竇(城壁に作られた水を流す孔)から抜け出し、歩いて霊公を追いました。
 
ちょうどこの頃、斉景公が公孫青(字は子石。頃公の孫、子夏勝の子)を衛に聘問させました。
公孫青は斉を出たところで衛の乱を聞きます。聘問を続けるべきか確認すると、斉景公はこう言いました「衛君が境内にいるのなら、衛の国君に変わりはない。」
公孫青は死鳥に入って霊公を聘問することにしました。しかし霊公が辞退して言いました「亡人(亡命者。霊公)は不才のため社稷を失い、草莽(草叢)の中にいます。吾子(あなた)が君命を行う必要はありません。」
公孫青が言いました「寡君は朝廷で下臣にこう命じました『執事(政治を行う者。ここでは衛霊公)に対して腰を低くし、親しく接しなければならない。』臣は君命に背くことができません。」
霊公が言いました「斉君が先君の誼を顧みて敝邑に臨み、社稷を鎮撫するというのなら、宗祧(宗廟)があります(聘問は宗廟でなければ受けられません)。」
公孫青は正式な聘礼をあきらめました。
 
霊公が個人的に公孫青に会おうとしました。公孫青は断ることができず、自分の良馬を礼物として霊王に会います。霊公は喜んでその馬を馬車につけました。
公孫青が霊公のために夜の警護をしようとすると、霊公が辞退して言いました「亡人の憂を吾子に及ばせることはできません。草莽の中、吾子の従者を煩わせるわけにはいきません。」
公孫青が言いました「寡君(斉君)の下臣は貴君の牧圉(牛馬を放牧する者)です。もし外の警護ができないとしたら、(心中に)寡君がいないのと同じです(寡君に対する裏切りになります)。臣は罪を恐れるので、警護することで死罪から逃れさせてください。」
公孫青は自ら鐸(大鈴)を持ち、夜を通して衛の兵と共に警護しました。
 
斉氏の宰(家臣の長)・渠子が北宮喜を家に招きました。しかし北宮氏の宰が北宮喜に相談せず、渠子を殺す計画を建てました。
斉氏は北宮氏の宰の攻撃を受けて滅ぼされます。
 
丁巳晦(三十日)、霊公が衛都に戻り、北宮喜と彭水の辺で盟を結びました。元々、北宮喜は斉氏と共謀していたため、霊公はこの盟約によって和を誓いました。
 
秋七月戊午朔、霊公が国人と盟を結びました。
 
八月辛亥(二十五日)、斉氏に協力した公子・朝、褚師圃、子玉霄、子高魴が晋に出奔しました。
閏八月戊辰(十二日)、霊公が宣姜を殺しました。公子・朝と通じていたからです。
霊公は北宮喜に貞子という諡号を、析朱鉏に成子という諡号を下賜し、斉氏の墓がある土地を二人に分け与えました。当時は生前に諡号を決めることもあったようです。
 
衛霊公が国内の安定を斉に報告し、あわせて公孫青の行動が礼に則っていたことも伝えました。
斉景公が酒を諸大夫に与えて言いました「(公族である公孫青に礼があるのは)二三子(諸大夫)の教導のおかげだ。」
しかし大夫・苑何忌が辞退して言いました「青に与えられた賞を共有したら、青に与えられた罰も共有しなければなりません。『康誥(『尚書・康誥』からの引用のようですが、同じ文は見当たりません)』にはこうあります『父子兄弟の間で罪が及ぶことはない(父子兄弟,罪不相及)。』群臣ならなおさらです(父子兄弟の間で罪が及ぶことがないのですから、臣下の間でも罪が及ぶことはありません。同じように公孫青に対する称賛が群臣に及ぶこともありません)。君賜を貪って先王(成王。『康誥』の作者)の意志に背くことはできません。」
 
琴張が宗魯の死を知って弔問に行こうとしましたが、孔子が止めて言いました「斉豹の盗(反逆)と孟縶の賊(被害)は宗魯によってもたらされたのに、汝はなぜ弔問するのだ。君子は姦(悪人の俸禄)を食べず(公孟縶が悪人だとしたら、その俸禄を受けていた宗魯は君子ではありません)、乱を受けず(宗魯は斉豹の乱を受けて死んだので君子とはいえません)、利を求めて姦邪に侵されることなく(宗魯は利のために孟縶から離れることができず反逆した者に殺されたので、君子とはいえません)、姦邪によって人に接することなく(宗魯は斉豹が乱を起こすと知っても止めることなく、孟縶が不善によって殺されると知っても助けようとしませんでした。これは姦邪によって人に接していたことになります)、不義を隠すことなく(宗魯は斉豹が孟縶を殺すとい不義を知っても隠していました)、非礼を行わないものである(宗魯は孟縶に対して二心を持っていたので、礼に欠けています)。」
 
[] 宋で起きた華氏と向氏の乱が原因で、公子城(字は子辺。平公の子)、公孫忌、楽舍(楽喜の孫)、司馬彊、向宜、向鄭(向宜と向鄭は兄弟で、向戌の子)、楚建(楚平王の太子・建。宋に亡命中でした)(小邾穆公の子)が宋から出奔しました。八人とも宋の大夫で、元公の党です。
八人の徒衆が華氏と鬼閻(宋地)で戦いましたが、敗北しました。
子城は晋に奔り、他の七人は鄭に奔ります。
 
華亥と妻は必ず盥で手や酒器を洗って(恭敬を示す礼儀です)人質に取った公子達を遇し、公子達が食事をしてから自分達も食事をしました。
元公も毎日、夫人と共に華氏の家を訪れ、公子達の食事が終わってから帰りました。
華亥はしだいに元公との対立が不安になり、公子達を釈放しようとしました。しかし向寧が言いました「公には信がないからその子を人質に取ったのだ。もしも帰らせたら、我々の死を早めることになる。」
 
一方の元公は大司馬・華費遂に華氏攻撃を相談しました。華費遂はこう言いました「臣は命を惜しむわけではありません。しかし憂を除こうとして武力を用いたら、逆に憂を大きくすることになるでしょう(太子が殺されるでしょう)。臣はそれを恐れます。君命に逆らうことはありません。」
元公が言いました「子(諸公子)の死亡は命(天命)によるものだ。余は今受けている恥を堪えることができない。」
 
冬十月、元公が華氏と向氏の人質を殺して反撃に出ました。
戊辰(十三日)、華氏(華亥・華定)と向氏(向寧)が人質を連れて陳に奔り、華登(華費遂の子)は呉に奔りました。
向寧が太子・鸞を殺そうとしましたが、華亥が止めて言いました「主君を犯して出奔することになったのに、その子まで殺したら、誰が我々を受け入れるというのだ。逆に彼を帰らせれば庸(善功)となるだろう。」
華亥は少司寇・華牼(字は牛。華亥の庶兄)を送って太子と諸公子を帰らせることにしました。華亥が華牼に言いました「子(あなた)は年をとったので、今更出奔して他国に仕えることはできないでしょう。三公子を連れて帰って謀反するつもりがないという証にすれば、必ず罪から免れることができます。」
こうして公子達が国に帰りました。華牼が公門(朝廷の門)から去ろうとすると、元公が急いで接見し、華牼の手をとって言いました「余は汝の無罪を知っている。入って元の地位に戻れ。」
 
[] 十一月辛卯(初七日)、蔡平侯が在位八年で死にました。
これは『春秋左氏伝』を元にしています。『史記』の『管蔡世家』『十二諸侯年表』では蔡の復国の年を『春秋左氏伝』の一年前にしているため、平侯の在位年数は九年になります。
 
太子・朱が即位しましたが、後継者を巡って翌年、争いが起きます(『史記』の『管蔡世家』『十二諸侯年表』は蔡の内争を本年の事としていますが、『春秋左氏伝』に従って翌年に書きます)
 
 
 
次回に続きます。