春秋時代227 東周景王(四十九) 斉景公 前522年(3)

今回は東周景王二十三年冬の続きからです。
 
[] 斉景公が疥疥癬。皮膚病)と痁(瘧疾。おこり。伝染病)を煩い、一年経っても良くなりませんでした。諸侯が聘問や見舞いのために派遣した多数の使者が、景公に謁見できず斉に留まっています。
景公が寵信している大夫・梁丘據(梁丘が氏)と裔款が景公に言いました「我々(景公と近臣)は鬼神を祀っており、先君の時代よりも厚い祭祀を行っています。今、主公が疾病にかかり、諸侯の憂いを招いているのは、祝と史(どちらも祭祀を掌る官)の罪です。しかし諸侯はそれを知らないので、我々が鬼神に対して不敬だと思っているでしょう。主公は祝固と史嚚を殺して賓客に説明するべきです。」
景公は納得して晏嬰晏子に話しました。しかし晏子はこう言いました「かつて宋の盟(東周霊王二十六年・前546年)で屈建(楚の令尹・子木)が趙武(晋の卿)に范会(晋の士会)の徳について質問したところ、趙武はこう答えました『夫子(士会)は家を善く治め、晋国について語る時は心を尽くして私欲がありませんでした。士会の祝と史も祭祀で鬼神に真実を報告し、後ろめたいことがありませんでした。家が善く治まって猜疑されることがなかったため、祝と史も鬼神に悪事を訴える必要がなかったのです。』屈建がこれを康王(楚王)に話すと、康王はこう言いました『神にも人にも怨まれないのだから、夫子(士会)が五君(文公・襄公・霊公・成公・景公)を補佐して諸侯の主にすることができたのも、当然だろう。』」
景公が言いました「據と款は寡人がしっかり鬼神に仕えているから、祝と史を殺すように勧めた。子(汝)がこの話をしたのはなぜだ。」
晏嬰が言いました「徳がある国君が、内外の事を廃さず(宮内でも朝廷でも行いを正し)、上下(天と民)からも怨まれず、行動が礼から外れることもなく、祝と史が真実を鬼神に報告するのなら、愧心(うしろめたい気持ち)は生まれません。その結果、鬼神は祭祀を受け入れ、国は福を受け、祝と史にも福が訪れるのです。祝や史が子孫を繁栄させ、長寿を得ることができるのは、国君の使者として真実を伝えるからであり、その言が鬼神に対して忠信だからです。彼等がもしも淫君(私欲を恣にする国君)に出会ったらどうでしょうか。内外に姦邪がはびこり、上下が怨み嫉妬し、行動が礼から外れ、欲に従って自分を満足させ、高台深池を築き、鍾を衝き女を舞わせ(歌舞に興じ)、民力を浪費し、民の蓄えを奪い、これらの行為によって過ちを形成しても後人を考えることなく、暴虐淫従で法度に従うことなく、忌避することを知らず、誹謗も考慮せず、鬼神も恐れないため、神が怒り民が痛んでも、心を改めようともしません。その時、祝と史が真実を訴えるのなら、鬼神に国君の罪を報告することになります。しかし過失を隠して美を語るようなら、矯誣(偽り)を報告することになります。真実も偽りも報告できなければ、虚(真実とは関係ないこと)を報告して鬼神に媚びることになります。そうなったら、鬼神は国の祭祀を受け入れず、逆に禍をもたらし、その禍は祝と史にも及びます。彼等が病にかかったり夭折するのは、暴君の使者だからであり、言によって鬼神を偽り侮るからです。」
景公が問いました「それならどうすればいいのだ?」
晏嬰が言いました「方法はありません。今の斉では、山林の木は衡鹿(衡麓の官。山林を管理する官)が守り、沢の萑蒲(葦。家の屋根や蓆等を作ります)は舟鮫(舟虞の官。川沢を管理する官)が守り、藪の薪蒸(柴木)は虞候(藪を管理する官)が守り、海の塩・蜃(大蛤)は祈望(海を管理する官)が守っています(山林川沢は国が管理しており、民が共有することはできません)。県鄙の人(辺境の人)も中央に入って政令に従わなければならず(遠方の民も国都で労役に従事しなければならず)、彼等が国都に近づけば関所で税かかけられ私財が奪われます(税と労役によって民が困窮しています)世襲の大夫は民の財を安く買いたたいています。公布される政令は準則がなく、賦税の徴収には際限がありません。(斉君の)宮室は毎日換えられ、淫楽から離れることなく、内寵の妾は市でほしいままに財を奪い、外寵の臣は辺境で偽りの政令を発し、私欲を満足させさせることに必死で供給できない者には刑罰を与えています。民は痛苦し、夫婦が共に呪詛しています。このような状況なので、たとえ祝(祈祷。国が行う鬼神の祭祀)に益(効果。御利益)があったとしても、詛(民の呪詛)によって損なわれています。聊・攝(斉の西境の邑)以東から姑・尤(斉の東境の邑)以西に至るまで、無数の民が暮らしているので、祝や史が善祝を行ったとしても、億兆人の詛にはかないません。主公が祝と史を殺したいのなら、徳を修めてからにするべきです。」
景公は納得し、有司(官員)に寬政を命じ、関所を廃止し、禁令を除き、賦税を軽くし、責(官府に対する民の負債)を免除しました。
 
[] 十二月、斉景公が沛(沛丘。沢の名)で狩りをした時、弓を使って虞人(山沢の官)を招きました。しかし虞人は応じません。景公が虞人を逮捕させると、虞人はこう言いました「昔、我が先君が田(狩猟)を行った時は、旃(赤い旗)で大夫を招き、弓で士を招き、皮冠で虞人を招きました。臣には皮冠が見えなかったので、応じませんでした。」
景公は虞人を釈放しました。
 
景公が狩りから帰りました。晏嬰が遄台(臨淄附近の楼台)で待機し、子猶(梁丘據)が車に乗って駆けつけます。景公が言いました「據だけがわしと和すことができる。」
それを聞いて晏嬰が言いました「據は『同』というべきです。『和』ではありません。」
景公が問いました「『和』と『同』は異なるのか?」
晏嬰が答えました「異なります。『和』は羹(あつもの)のようなものです。水・火・醯(酢)・醢(肉醤)・塩・梅によって魚肉を煮込み、薪によって火を調整し、宰夫(調理師)がそれらを調和させ、味が薄ければ調味料を加え、濃ければければ水を追加して調えます。君子がそれを食べたら心が平穏になります。君臣の関係も同じです。国君が可としている事の中に否があった場合、臣下が否を指摘して正しい方向に導きます。国君が否としている事の中に可があった場合は、臣下が可を指摘して否を除きます。こうすることによって政治が平穏になり、礼を侵すこともなく、民も争う心を持たなくなるのです。『詩(商頌・烈祖)』にこうあります『調和された羹がある。宰夫を戒めて味を調えさせる。神に捧げて指摘されることなく、朝野が争うこともない(亦有和羹,既戒既平。鬷嘏無言,時靡有争)。』先王は五味(辛・酸・鹹・甘・苦)をそろえ、五声(五音。宮・商・角・徴・羽)を調和して心を安定させ、政治を完成させました。声(音楽)も味と同じで、一気・二体(舞の形。文舞と武舞)・三類(詩の形。風・雅・頌)・四物(四方の物)・五声・六律(黄鐘・大蔟・姑洗・蕤賓・夷則・無射)・七音(五音と変宮・変徴)・八風(八方向の風。東北の条風・東方の明庶風・東南の清明風・南方の景風・西南の凉風・西方の閶闔風・西北の不周風・北方の広莫風。風の名称には諸説あります)・九歌(九功の歌。六府三事の功。六府は水・火・金・木・土・穀。三事は正徳・利用・厚生)によって成り立っており、清濁・大小・長短・疾徐(緩急)・哀楽・剛柔・遅速・高下(高低)・出入・周疏(粗密)が共に調整し合っています。君子はこれを聞いて心を平穏にし、心が平穏になったら徳が和すのです。だから『詩(豳風・狼跋)』には『徳音には欠けがない(徳音不瑕)』とあるのです。據はこのようではありません。主公が可と言えば據も可と言い、主公が否と言えば據も否と言っています。これは水で水を調理するようなものです。このようなものを誰が好んで食べるでしょうか。また、琴瑟の音色が一つしかなければ、誰も聞こうとしません。『同』とはこのように許容されないものなのです。」
 
ある日、景公が酒を飲んで楽しくなり、こう言いました「古から死というものがなかったら、何と楽しいことだろう。」
晏嬰が言いました「古から死がなかったら、この楽しみは古の楽しみであり、主公が得ることはできません。昔、爽鳩氏(少皥氏の司寇)が始めてこの地(斉)に住み、後に季(虞舜・夏王朝時代の諸侯)が代わり、有逢伯陵商王朝時代の諸侯。姜姓)に継がれ、蒲姑氏(または「薄姑氏」)を経て大公(太公・呂尚。斉の祖)がこの地を擁するようになりました。古の者が死ななかったら、この楽しみは爽鳩氏のものであり、主公が望むことではなくなります。」
 
以上は『春秋左氏伝(昭公二十年)』の記述です。
史記』の『魯周公世家』と『斉太公世家』には、「斉景公と晏嬰が魯の国境で狩りをし、国境を越えて礼について尋ねた」という記述がありますが、『春秋左氏伝』には見られません。
資治通鑑前編』は「斉侯と大夫・晏嬰が魯に入り、孔子に礼を問う」とあります。
斉景公と晏嬰が孔子と話したというのは、『史記孔子世家』に記述があります。以下、『孔子世家』からです。
魯昭公二十年(本年)孔子が三十歳の時、斉景公と晏嬰が魯に来ました。
景公が孔子に問いました「昔、秦穆公の国は小さくて辺鄙な場所にあったのに、霸を称えることができたのはなぜだ?」
孔子が答えました「秦は、国は小さかったとはいえ、その志は大きく、場所は辺鄙でしたが行いは中正でした。穆公自ら五羖百里奚)を抜擢し、大夫の爵位を与えて纍紲(囚人)の中から助け出し、三日間話をして政治を任せました。このようであったのですから、王になることもできたはずです。霸者とは小さいものです。」
景公は孔子の答えに納得し、喜びました。
 
[] 『資治通鑑前編』によると、この頃、孔子が周の京師に行きましたが、再び魯に帰りました。但し、具体的な年がいつかははっきりしません。
史記孔子世家』は当時の孔子の様子を描いていますが、別の場所で紹介します。
 
[十一] 鄭の子産が病にかかりました。
子産が子太叔に言いました「私が死んだら子(あなた)が政治を行うことになります。徳がある者だけが民を寛服(寛大な態度で帰順させること)できます。(寛の)次は猛(威猛)です。火の勢いが猛烈ならば、民はそれを見ただけで恐れます。だから火によって死ぬ人はあまりいません。水は懦弱なので民が軽視して近づきます。だから水によって死ぬ者が多いのです。寬とは難しいものです。」
数カ月後に子産が死にました。
 
子太叔の政治が始まりましたが、子太叔は「猛」の手段をとることができず、「寬」に努めようとしました。その結果、鄭では盗賊が増えて芦が茂る沢萑苻の沢。「崔苻」は「崔蒲」とも書き、葦が茂る場所)に集まるようになりました。
子太叔が悔やんでいいました「夫子(子産)の言に早くから従っていれば、こうなることはなかった。」
結局、子太叔は「猛」の手段を選び、徒兵(歩兵)を動員して盗賊を皆殺しにしました。やっと鄭の治安が回復します。
 
子産の死を聞いた魯の孔子は泣いて「古の遺愛だ」と言いました。愛は仁に通じます。子産の仁は古の聖人の遺風である、という意味です。
 
[十二] 『史記・秦本紀』によると、この頃、晋の公室が衰弱し、六卿が力をつけて互いに隙を窺うようになりました。六卿が国内の権力闘争を重視するようになったため、久しく秦と晋が衝突することがなくなりました。
 
 
 
次回に続きます。