春秋時代 周景王の鐘 音楽と政治

東周景王二十四年(前521年)に周景王が大鐘を鋳造しました。
本編では『春秋左氏伝(昭公二十一年)』の内容を紹介しました。『国語・周語下』に更に詳しい記述があります。
 
景王二十三年(前522年)、景王が無射(大鐘の名)を鋳造しようとし、まず大林(大鐘の名)を作ることにしました。「無射」と「大林」は古代の音律である十二律の一部です。十二律とは陽律(六律)の「黄鐘・太簇・姑冼・蕤賓・夷則・無射」と陰律(六呂)の「大呂・夾鐘・中呂・林鐘・南呂・応鐘」からなります。「大林」は「無射」の調律のために、先行して作られたようです。
周の卿士・単穆公が反対して言いました「いけません。既に重幣(大銭)を鋳造して民の資(財)を奪ったのに(二年前)、また大鍾を鋳造したら、ますます民の負担を大きくしてしまいます。民の蓄えを全て集めて負担を更に重くしたら、民はどうやって財を作るのですか。そもそも、鍾は音楽を演奏するためだけにあります。無射の音を大林で調律しても、(無射は陽声で小さい音であり、大林は陰声の大きな音なので)無射の音は耳に及びません(聞きとることができません)。鐘声(鐘の音)耳で聞くためにあります。耳に及ばないのなら鍾の声ではありません(鐘を作る意味がありません)。目に見えない物を目の前に置くようなものです。目に見えるのは、歩武(一歩は六尺。一武は半歩)尺寸の距離の物だけであり、色を見分けることができるのも墨丈尋常(一墨は五尺。一丈は二墨。一尋は八尺。一常は二尋)の間の物だけです。耳が聞きとることができるのも、清濁の間の違いだけであり、その清濁の違いは、人が持ち挙げられる鐘が出す音の範囲を越えることがありません。先王が鍾を作る時は、音色の範囲は鈞(調律用の楽器が出す音)を越えず、重さは石(百二十斤)を越えませんでした。こうして(音律)・度(長さ)・量(容量)・衡(重量)が定められ(古代は陽律の最初の音である黄鍾から度量衡が定められました。黄鍾の音を出す楽器の重さ、長さ、容量が測量の基準になったようです)、大小の(大きい単位である斤・両・丈・尺と小さい単位である錙・銖・分・寸を測量する道具)が作られたのです。だから聖人は鐘に対して慎重な態度で接しました。ところが王が作る鍾は、耳で清濁を聞きとることができず、大きさは度を過ぎており(鈞・石を越えており)、鍾声から調和を知ることもできず、規格は節(度量衡の基準)を成さず、楽(音楽。または娯楽)に対して無益で、民の財を浪費しています。これを何に使うというのですか。
(音楽)とは耳で聞くものに過ぎず、美とは目で観るものにすぎません。もし楽を聞いて耳を震わせ、美を観て目を眩ますようなら、それよりも悪いことはありません。耳目とは心の枢機です(中枢。耳目の情報で心は動かされ、心が欲することを耳目が受け入れます)。だから必ず和(調和された音)を聞き、正(正しい事物)を視なければなりません。和を聞けば聡となり、正を視れば明となります。耳が聡であれば人々に言を聞かれ(正しいことを聞いた人の言葉は人々の心を動かし)、目が明であれば徳が明らかになります。言が受け入れられて徳が明らかになったら、思慮が純正になります。正しい言を用いて民に徳を教えたら、民は喜んで従い、感謝して心から帰順します。上(国君。天子)が民心を得て義方(正道)を樹立すれば、事業で成功しないことはなく、何かを求めて手に入らないこともありません。このような状態を、楽(音楽。楽器。または喜び)を作るというのです。耳には和声(調和した音)があり、口からは美言を出し、それらによって憲令(法令)を定めて諸民に発布し、正しい度・量の規範を作れば、民は心力を尽くして従い、厭うことがありません。このようにして誤ることなく事(政事)を完成できたら、それは楽の極みとなります。口には味(五味)があり、耳には声(五声。五音)があります。声と味は気を生み、気が口にあれば言となり、目にあれば明(聴覚)となります。言は名(号令)を行き届かせ、明は時に応じた行動の判断をさせます。名(号令)によって政事を成し、時に応じた行動によって財を生みます。政事が完成して財が生まれるのは、楽の極みです。視聴が和さず、震眩があったら、口に味が入っても精美ではなく、精美でなければ気が分散し、気が分散したらますます調和を失います。その結果、狂悖の言(道理に反した狂言、眩惑の明(錯乱した見方)、転易の名(混乱した号令)、過慝の度(秩序が無い姦悪な法度)が生まれます。政令に信がなく、刑政(刑法・政事)が混乱し、行動が時に応じなくなったら、民は依拠する者がいなくなり、どうやって力を尽くすべきかも分からず、離心を招くことになります。上が民を失ったら、行動しても完成できず、求めても得ることができません。これで楽(喜び)といえるでしょうか。三年の間に民を離心させる器物を二つも作ったら(大銭と大鐘)、国の危機を招きます。」
 
景王はこのことを伶(楽官)・州鳩(州鳩は名)に話しました
州鳩が言いました「臣の守官(職責)では、それらの事は分かりません(単穆公は卿大夫なので音楽と政事に関して語りましたが、楽官の州鳩は政事について語る資格がないと判断してこう言いました)。しかし、琴瑟は宮(宮調。五音の一つ。以下同じ)を演奏するのにふさわしく、鍾は羽(羽調)に相応しく、石(磬)(角調)に相応しく、匏竹(笙䔥)は音を調整するためにあるといいます。楽器の音は、大きくても宮を越えてはならず、小さくても羽を越えてはならないものです。宮は音の主であり(宮は最も大きい音なので筆頭になります)、後に羽があります。古の聖人は楽(音楽)を保ち(安定させ)、財を惜しみました。財は器(楽器)を供えさせ、楽は財をもたらすからです。楽器で重いもの(鍾磬)は小さい音(羽・角)に従い、軽いもの琴瑟)は大きい音(宮)に従うものです。金(鐘)が羽に相応しく、石(磬)角に相応しく、瓦絲琴瑟)が宮に相応しいのはこのためです。また、匏竹(笙䔥)(調整)に相応しい楽器とされており、革(鼓)(柷敔。打楽器の一種)一声(一つの音)しかありません。
(政治)は楽(音楽)によって象徴されます。楽は和を求め、和は平(平穏。安定)を求めます(これは政治と同じです)。声(五音)は楽(音楽)を調和し、律(十二律)は声を平(安定)にします。金石(鍾磬)が五音を発し、絲竹(琴瑟)が曲を作り、詩句が意志を表現し、歌声が詩を詠いあげ、匏(笙)がそれを発揚し、(塤。笛の一種)がそれを助け、革木(打楽器)が節をつけます。事物が常態を保つことを楽極(中和。ちょうどいいこと)といい、極(中和)が集まってできた音を正声(正音)といい、声が互いに呼応して安定することを和といい、大小の音が互いに干渉しないことを平といいます(無射と大林は互いの音律を干渉しています)。和と平を作るために、金を鋳造して鐘を作り、石を磨いて磬を作り、絲と木を繋いで琴瑟を作り、匏竹に孔をあけて笙䔥を作り、鼓によって節を決め、(調和のとれた音楽を)演奏するのです。それは八風(八方向の風。正西は八卦の『兌』で、金に通じ閶闔風といいます。西北は『乾』で、石に通じ不周風といいます。正北は『坎』で、革に通じ広莫風といいます。東北は『艮』で、匏に通じ融風、または条風といいます。正東は『震』で、竹に通じ明庶風といいます。東南は『巽』で木に通じ、清明風といいます。正南は『離』で、絲に通じ景風といいます。西南は『坤』で、瓦に通じ涼風といいます)に応じています。それぞれが調和すれば、夏は陰気を溜めず発散させ、冬は陽の散乱を抑え、陰陽は秩序を持ち、風雨は時宜に応じ、穀物が実って人々が繁栄し、民に多くの利がもたらされるのです。物が備わり楽(楽器)が整えられ、上下が疲労することのない様子を、楽正といいます。
今回、小さい音(無射)が律を越えて正声を侵し、物(鐘を作るための金属)の浪費が多くて財を損なっています。正声が侵され財を損なえば楽が害されます(調和を失います)。小さい音(無射)が大きい音(大林)に遮られて耳に届かないようでは和といえません。聞こえても小さすぎて遠く感じるようなら平とはいえません。正声を侵し、財を損ない、その声(音)も和と平でないようなら、宗官(宗伯。楽官は宗伯の管轄下に属します)が管理できるものではありません。
和と平の声があれば、財も増えて行きます。道(詩が表現する内容)は中徳(中庸の徳。調和がとれていること)であり、詠(詩をうたう歌)は中音(調和された音)であり、徳と音が途切れることなく神と人を通じさせるから(祭祀で調和された音楽を演奏できるから)、神は安寧になり、民は従順になるのです。もしも財物を浪費し、民力を疲弊させて淫心(私欲)を満足させたら、耳に入る音は不和となり、律は度(決まり)に合わず、教化に対して無益なうえ、民を離心させ、神を怒らせる事になります。そのような前例を臣は聞いたことがありません。」
 
結局、景王は諫言を無視して大鍾を鋳造しました。
 
 
景王二十四年、大鍾が完成しました。伶人(楽人)がそれを報告します。
景王が伶・州鳩に言いました「鍾の音は和しているではないか。」
州鳩が言いました「まだわかりません。」
景王がその理由を聞くと、州鳩はこう言いました「上(国君。天子)が器(器具。楽器)を作り、民がそれを喜ぶようなら、和しているといえます。しかし今、財を浪費し、民を疲弊させたため、怨みをもたない者はいません。だから臣には和していると思えないのです。全ての民が好む事は、滅多に失敗しません。全ての民が嫌うことは、多くが廃されます。諺にこうあります『人々の心が集まれば城を成すこともできるが、人々の誹謗が集まれば金石も破壊する(衆心成城,衆口鑠金)。』三年の間に民の財を二回も害したので、一度は何かを失う恐れがあります。」
景王は「汝は老いて耄碌したから何も分からないのだ」と言いましたが、翌年、景王が死に、鍾の音も調和しなくなりました。
 
『国語・周語下』には、景王が無射の大鐘を作る時、伶・州鳩に音律について尋ね、州鳩が詳しく回答したことが書かれています。先述の十二律(六律・六呂)や七律(宮・商・角・徴・羽の五音に変宮と変徴を加えたものを七音といい、その音律を七律といいます。十二律のうち、黄鐘・太簇・姑冼・蕤賓・林鐘・南呂・応鐘にあたります)に関する解説になります。
しかし古代の音楽に関する用語が多く理解が困難なので、省略します。