春秋時代230 東周景王(五十二) 周景王の死 前520年(1)

今回と次回は東周景王最後の年です。
 
景王二十五年
520年 辛巳
 
[] 春二月甲子(十六日)、斉の北郭啓が莒を攻撃しました。
莒子(莒国の主)が迎撃しようとすると、大夫・苑羊牧之(氏は苑、名は牧之で羊は字)が諫めて言いました「斉帥(斉の将)は位が低いので、要求も多くありません。下手に出るべきです。大国を怒らせてはなりません。」
莒子は諫言を聞かず、寿餘で北郭啓の軍を破ります。
これが斉景公を怒らせ、大軍の攻撃を招きました。莒子は講和を求めました。最初から講和していれば斉の要求も少なかったはずですが、交戦してからの講和なので巨額な財物が必要になったはずです。
 
斉の大夫・司馬竈が莒に入って盟を結び、莒子が斉に入って稷門の外で盟を結びました。斉の大夫が城内に入って盟を結んだのに、莒の国君が城の外で盟を結んだのは、莒君への軽視を表しています。
この失敗が原因で、莒の人々は莒君を怨むようになりました。
 
[] 宋の南里で包囲されている華氏・向氏を迎えに来た楚の越が、宋元公に伝えました「国君に不令(不善)の臣がいれば国君を憂いさせ、宗廟の恥辱になるという。寡君(楚王)(華氏と向氏を)迎え入れて戮(処刑)すつもりだ(実際は華氏と向氏の出奔を手伝うことが目的です)。」
しかし宋元公は楚の思惑を察し、こう答えました「孤(国君の自称)は不才のため、父兄(公族。華氏・向氏を指します)の歓心を得ることができず、楚君の憂いを招いてしまいました。君命(楚王の言葉)を受け入れるつもりです。君臣が戦う日が続いていますが、楚君が『余は必ず臣下を助ける(謀反した臣下の亡命を受け入れる)』と言うのなら、その命に従います。しかし『乱門に近寄ってはならない(「唯乱門之無過」。争乱が起きている家に近寄ってはならない。乱を起こした者を手伝ってはならない)』と言われています。もしも楚君の恩恵によって敝邑が保たれ、楚君が不忠を助けて乱人を励ますようなことをしないというのなら、それは孤の望です。楚君の深慮を請います。」
これは大義に則って婉曲に楚の要求を拒否する内容です。楚は困惑しました。
 
この時、晋を始めとする諸侯が宋元公を守っていました。諸侯が楚の動きを知って言いました「華氏は自分に前途がないと知ったら死力を尽くすだろう。楚も功(華氏と向氏を救出すること)が無いことを恥じて、速戦を求めるはずだ。これは我々にとって不利である。彼等を出奔させて楚の功とした方がいい。出奔した華氏には何もできないはずだ。宋を救ってその害を除くことができるのだから、それ以上求めることはない。」
晋を始めとする諸侯は華氏と向氏を出奔させるように要求し、結局、宋もそれに同意しました。
 
己巳(二十一日)、宋の華亥、向寧、華定、華貙、華登、皇奄傷、省臧、士平が南里を出て楚に出奔しました。
宋元公は公孫忌を大司馬に(華費遂の代わりです)、辺卬(宋平公の子・禦戎が字を子辺といい、その子孫が辺を氏にしました。辺卬は禦戎の孫です)を大司徒に、楽祁(子罕の孫・楽祁犂)を司城に、仲幾(字は子然。仲江の孫)を左師に(向寧の代わりです)、楽大心を右師に(華亥の代わりです)、楽輓(子罕の孫)を大司寇に任命し、政治を改めて国人を安定させました。
 
[] 魯が昌間(または「昌姦」)で大蒐(狩猟。閲兵)を行いました。
 
[] 周景王は太子・寿を失ってから(東周景王十八年・前527年)、後継者を決めていませんでした。跡継ぎの有力な候補には王子朝と王子猛がいます。
この二人の関係がよくわかりません。『春秋左氏伝』の注(杜注)を読むと、王子朝は「景王の長庶子」、王子猛は「次正」と書かれています。次正というのは太子の次に跡を継ぐ資格を持つ者です。
史記・周本紀』には「長子猛」とあります。既に太子が死んだので、猛が「長子」と数えられているのかもしれません。この場合は太子・寿の同母弟(王后の次男)にあたると思われます。
十八史略』では子朝を子猛の「庶弟」としています。
本来なら王子猛が跡を継ぐはずですが、景王は王子朝を寵愛しました。また、子朝の傅を務める賓起も景王に信任されています。景王と賓起は王子朝を後継者に立てたいと思うようになりました。
 
当時、劉摯(献公)庶子・劉狄(文公。伯が単旗(穆公)に仕えていました。劉狄は賓起を嫌っており、また、王子朝が後継者の地位を狙っている現状も礼を乱していると考え、排斥の機会を狙っていました。
 
ある日、賓起が郊外に行くと、雄鶏が自分の尾の羽を抜いていました。古い羽毛を抜いていたのかもしれません。
賓起がそれを見て、「なぜ自分で自分の尾を短くするのだ」と問うと、侍者が「祭祀の犠牲になることを恐れるからです」と答えました。
祭品は完全な姿をしていなければ選ばれません。尾が短ければ犠牲として使われることがなくなります。
帰った賓起はこの事を景王に報告しました。以下、『春秋左氏伝(昭公二十二年)』と『国語・周語下』から賓起の言葉を紹介します。
「臣は鶏が自分の尾を啄んで羽を抜くのを見ました。人々は『犠牲として使われるのを恐れているからだ』と言っています。家畜なら確かにその通りでしょう。しかし人と家畜は異なります(家畜は大切にされて欠陥がなければ犠牲として祭祀で使われますが、人は寵愛を受ければ受けるほど、尊貴になるものです)。犠牲として人に利用されるのは苦難ですが、自分のために犠牲になるのなら(犠牲になるはずの家畜のように大切にされても他人に利用されないのなら)、害はありません。家畜は人に使われたくないので敢えて身を損ねていますが、人にはその必要がなく、犠牲(寵愛を受ける存在)になるのは他者を治めるためです。」
理解が難しい言い回しです。鶏等の家畜は、寵を受けて美しく育ったら祭祀の犠牲として利用されることになります。しかし人が寵愛を受けたら、尊貴を手に入れて人を治める立場に立つことになります。景王に対して遠回しに「寵愛している子朝を後継者に立てるべきだ」と勧めています。
景王は内心同意しましたが、何も言いませんでした。
 
尚、『国語・周語下』には、景王は王子朝を寵愛していたため、王子猛の師傅を務めていた下門子を殺したとありますが、『春秋左氏伝』には見られません。
 
夏四月、景王が北山で狩りをしました。全ての公卿が従っています。景王はこの機会を利用して、王子朝に対抗している単子と劉子の殺害を計画しました。しかし状況は急変します。
乙丑(十八日)、周景王が栄錡(大夫)の家で死んでしまいました。心臓病による急死だったようです。
戊辰(二十一日)、劉子摯も死にました。嫡子がいなかったため、単子が劉狄に劉氏を継がせました。
 
五月庚辰(初四日)、単旗と劉狄が周王に謁見しました。この王は子猛です。
新しい国君は年を越えてから正式に即位して改元することになっています。よって、王子・猛はまだ正式に即位していません。しかも年を越える前に死んでしまいます。しかし悼王という諡号が贈られるので、以下、悼王と書きます。
 
悼王に謁見した単旗と劉狄は賓起を攻撃して殺し、諸王子の反対を恐れて単旗の家で盟を結びました。
 
 
 
次回に続きます。