春秋時代232 東周敬王(一) 魯邾の対立 前519年(1)

今回から東周敬王の時代です。
 
敬王
東周景王が死に、子の猛が立ちました。これを悼王といいます。しかし悼王は周の内乱の中で死んでしまいました。悼王の死後、弟の(または「丐」)が即位しました。これを敬王といいます。
 
敬王元年
519年 壬午
 
[] 春正月壬寅朔、二師(周軍と晋軍)が王子朝を討伐するため、郊(周の邑)を包囲しました。
『春秋左氏伝』には記述がありませんが、『史記・鄭世家』によると、鄭定公も晋に入朝して周の乱臣討伐に協力したようです。
 
癸卯(初二日)、郊と鄩の二邑(どちらも王子朝支配下の邑)が崩壊しました。
丁未(初六日)、晋軍が平陰に駐軍し、王師は沢邑(狄泉)に移動しました。
敬王は王子朝の乱がほぼ鎮圧され、自力で安定させことができると判断して晋に使者を送りました。
庚戌(初九日)、晋軍が兵を引きました。
 
[] 邾人が翼(邾の邑)に城を築きました。
建築が終わり、邾師(労役に従事した邾人と、それを指揮する将)が国都・鐸に還る準備をしました。まず邾の邑・離姑に入ります。離姑から鐸に行く間には魯の武城があるため、魯に路を借りなければなりません。
邾の大夫・公孫鉏が言いました「魯は我々を阻止するだろう。」
そこで武城を通らず、近くの山の南を迂回して邾に向かおうとしました。しかし徐鉏、丘弱、茅地(三人とも邾の大夫)が反対して言いました「道を下れば雨に遭い(恐らく湿っていて通行が困難という意味です)、出られなくなる。これでは帰国できない。」
結局、邾師は離姑を出て武城に向かいます。
 
邾師が迫っていると知った魯の武城人は、兵を出して道を塞ぎ、退路にあたる道の樹木を伐りました。樹木は完全に倒さず、邾師が通った時に樹木を押し倒します。魯軍に急襲されて退路も失った邾師は壊滅し、公孫鉏、丘弱、茅地と多くの邾人が捕虜になりました(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、ここまでは前年の事のようです)
 
邾は魯の襲撃を晋に訴えました。晋は魯の罪を問おうとします。
ちょうどこの時(本年正月)、魯の叔孫(または「叔孫舎」)が晋を聘問しました
 
[] 癸丑(十二日)、魯の叔鞅(叔弓の子。叔輒の弟)が死にました。子の詣が大夫を継ぎます。
 
[] 晋が魯の行人(使者)・叔孫を捕えました
晋は叔孫邾大夫を同席させて理非曲直を討論させます。しかし叔孫がこう言いました「列国(諸侯)の卿は小国の国君に当たるのが周の制です(魯の卿である叔孫は邾の国君と対等なので、大夫と同席はできません)。しかも邾は夷の国です。寡君(魯君)の命を受けた介(副使)・子服回(昭伯。大夫)がいるので、彼に同席を命じてください。周の制を廃すわけにはいきません。」
結局、両国の討論は中止されました。
 
晋の韓起(韓宣子)が邾に人を集めさせ、叔孫を邾に渡そうとしました。
それを聞いた叔孫は従者を連れず武器も持たず晋頃公に会いに行きました。死も恐れない覚悟を示しています。
晋の士彌牟(士景伯。士伯)が韓起に言いました「子(あなた)の考えは善くありません。叔孫を讎(邾)に渡したら叔孫は必ず殺されます。しかし魯が叔孫を失ったら、(魯が邾を攻めるので)必ず邾も滅びます。邾君が国を失ったらどこに帰ればいいのでしょうか(この時、邾君は晋にます)。その時になって子が後悔しても手遅れです。盟主というのは命に逆らう者を討伐するものです。皆が相手を捕えあったら(魯は邾の三人の大夫を捕えました。晋は邾に叔孫を捕えさせようとしています)盟主に何の意味があるでしょう?」
韓起は叔孫を邾に渡さず、子服回とは異なる館に住ませました。
 
その後、士彌牟が叔孫と子服回の意見を聞きました。晋は盟主として魯に非があると判断しています。邾が魯に対して正式に道を借りなかったのは邾の罪ですが、それに対して邾の大夫や兵を奪った魯は明らかにやり過ぎです。しかし叔孫も子服回も魯の罪を認めなかったので、士彌牟は韓起に報告してから二人を逮捕しました。
士彌牟は叔孫を車に乗せ、その従者四人を従えて獄舎に向かいました。途中、敢えて邾の国君が宿泊している賓館の前を通って叔孫を辱めました
 
晋は邾子(邾の国君)を先に帰国させました。
士彌牟が叔孫に言いました「芻蕘(柴を刈る人)の難(柴や薪の供給が困難になったこと)と従者の労苦を考えて、子(汝)を別の都(邑)に住ませることにした。(追って指示をする。)
叔孫は朝から直立のまま晋の命を待ちました。
晋は叔孫箕邑に住ませ、子服回も他の邑に移しました。
 
晋の士鞅(范献子)が叔孫に賄賂を求めようとし、まず、冠を提供するように請いました。叔孫冠の大きさを確認するために士鞅が使っている冠を取り寄せると、二つの新しい冠を贈って「これで全てです(「尽矣。」二つの冠以外に財貨はありません)」と伝えました。
士鞅は冠をきっかけに財を要求するつもりでしたが、叔孫が先手を打って「尽矣」と伝えたため、続けて要求することができなくなりました。
 
魯の申豊が叔孫のために財物を持って晋に来ました
叔孫が申豊に伝えました「私に会いに来れば、財貨をどこに持っていけばいいかを教えよう。」
申豊は信じて叔孫に会いに行きました。すると叔孫は申豊を留めて外に出られなくしました。叔孫は賄賂を使うつもりがなかったからです。
 
晋の吏人(箕で叔孫を監視している小吏)叔孫吠狗(よくほえる犬)を求めましたが、叔孫は譲りませんでした。小吏に対しても賄賂を使いたくなかったからです。
翌年春、叔孫は帰国する時になって、犬を殺して食用として小吏に与えました。吝嗇ではないことを示すためです。
叔孫が住んだ場所は、たとえ住む期間が一日だけでも屋根や壁がきれいにされ、去る時も来たばかりの時と変わりませんでした。
 
[] 夏四月乙酉(十四日)、周の単旗(穆公。単子)が訾を取り、劉狄(文公。伯劉子)が牆人と直人(どちらも地名)を取りました。三邑とも王子朝が領有していました。
 
[] 夏六月、蔡悼侯が在位三年で死にました。
『春秋』には「蔡侯東国卒于楚」とあります。東国(悼公)が楚で死んだという意味です。しかし『左氏伝』『公羊伝』『穀梁伝』とも記述がないため、詳細が分かりません。
二年前に悼公が即位した時、蔡侯・朱が楚に出奔しました(東周景王二十四年・前521年)。蔡侯・朱と蔡侯・東国(悼侯)の記述が混乱しているのかもしれません。『春秋穀梁伝』は二年前に出奔した蔡侯を「朱」ではなく「東」としています。これが「東国」を指すのか、「朱」の誤記なのかもわかりません。
史記・十二諸侯年表』は蔡悼侯元年東周景王二十四年・前521年)に「楚に奔る」とだけ書いています。これが蔡侯・朱なのか東国なのかもわかりません。
 
悼侯の弟の申が即位しました。昭侯といいます。
 
[] 壬午(十二日)、周の王子朝が京から尹(周の世卿・尹氏の邑)に遷りました。
癸未(十三日)、尹圉(尹文公)が劉佗(劉狄の一族)を誘い出して殺しました。
丙戌(十六日)、単旗が阪道から、劉狄が尹道から尹を討伐しました。単旗が先に尹に到着しましたが、王子朝の軍に敗れます。劉狄は兵を還しました。
己丑(十九日)、召伯奐(召荘公)と南宮極(どちらも周の卿士。王子朝の党)が成周の兵を率いて尹を守りました。
庚寅(二十日)、単旗、劉狄、樊斉(樊頃子)が王子朝を避けて敬王と共に劉(劉氏の邑)に遷りました。
甲午(二十四日)、王子朝が王城に入り、左巷(東城附近)に駐軍しました。
 
秋七月戊申(初九日)、周の大夫・鄩羅が王子朝を荘宮に入れました。尹辛が劉氏の軍を唐(周の地)で破ります。
丙辰(十七日)、尹辛が鄩の地でも劉氏の軍を破りました。
甲子(二十五日)、尹辛が西闈を取りました。
丙寅(二十七日)、尹辛が蒯を攻め、蒯は崩壊しました。
 
劉氏が敗戦を重ね、王子朝の勢力が盛り返したため、敬王は王子朝を避けて狄泉(翟泉。沢邑。成周城外)に遷りました。
尹氏が王子朝を即位させます。
 
 
 
次回に続きます。