春秋時代233 東周敬王(二) 雞父の戦い 前519年(2)

今回は東周敬王元年七月の続きからです。
 
[] 莒子・庚輿(共公)は前年、斉に大敗したため、国人の支持を失っていました。しかも共公は元々残虐な性格で、剣を愛していました。新しい剣ができると人を斬って試したため、ますます国人に憎まれるようになります。
共公は斉にも背こうとしました。斉とは前年盟を結んだばかりです。
 
見かねた莒の大夫・烏存が国人を率いて共公を追放しました。
共公が国を出る時、烏存が殳(槍に似た武器)を持って道の左に立っていました。共公は殺されるのではないかと恐れます。それを見て大夫の苑羊牧之が言いました「進むべきです。烏存は勇力によって名を知られれば充分だと思っています。主君を弑殺して名を成すつもりはありません。
共公は魯に出奔しました。
斉が亡命していた郊公(東周景王十七年・前528年参照)を莒に帰国させました。
 
[] 呉が楚の州来を攻撃しました。
楚では令尹・子瑕が病だったため、司馬の越が楚平王の命を受けて楚軍を率い、諸侯の軍と共に州来に駆けつけました。
呉軍は鍾離に駐軍して守りを固めます。
暫くして令尹・子瑕が死んだため、楚軍の士気が下がりました。
 
呉の公子・光が言いました「多くの諸侯が楚に従っていますが、それらは全て小国で、楚を恐れて仕方なく従っているだけです。『事を起こす時、威信が感情に勝れば、自分の力が小さくても成功できる(作事威克其愛,雖小必済)』といいます。胡と沈の国君は幼いうえに狂(軽率)であり、陳の大夫・齧は強壮ですが頑固で融通がききません。頓と許、蔡は楚の政治を憎んでいます。最近、楚の令尹が死んだので、楚師は士気が落ちています。しかも、将帥は地位が低いのに寵を受けており、政令は一定せず、七国(楚・頓・胡・沈・蔡・陳・許)は共に兵を出していますが同心ではありません。将帥の地位が低ければ兵を整えることができず、命にも威信がありません。今なら楚を破ることができます。師を分けてまず胡・沈・陳の陣を攻めれば、三国は必ず真っ先に奔走します。三国が敗退すれば諸侯の師は動揺し、諸侯が混乱したら必ず楚も壊滅します。先行する部隊に警戒を解かせて軍威を薄くし(敵を誘い出し)、その後ろに陣を厚くして隊列を整えた部隊を置きましょう。」
呉王・僚はこの計に従いました。
 
戊辰晦(二十九日)、両軍が雞父(または「雞甫」。楚地)で会戦しました。
呉王・僚は罪人三千に胡・沈・陳の陣を攻撃させます。訓練を受けていない囚人の集団は隊列が乱れており、まともに戦える状況ではありません。三国は争って呉人を捕虜にしました。
しかし囚人三千人の後ろに呉の三軍が続きました。中軍は呉王・僚、右軍は公子・光、左軍は掩餘(呉王・寿夢の子)が率いています。呉の囚人が三国の陣内で無秩序に動いているため、三国の軍は混乱に陥りました。そこを呉の正規軍に襲われたため、三国は大敗します。胡子・髠(胡国の主。楊伯峻の『春秋左伝注』は胡を嬀姓の国としていますが、『資治通鑑外紀』には姫姓と書かれています)、沈子・逞(または「盈」「楹」。沈国の主)と陳の大夫・夏齧が捕えられました。三人とも殺されたようです。
呉軍は胡と沈の捕虜を釈放し、許・蔡・頓の陣に走らせて「我が君が死んだ!」と叫ばせました。
その後ろで呉軍が戦鼓を敲き、喚声を挙げます。
許・蔡・頓三国の兵は恐れて敗走し、楚軍も退却しました。
 
[] 八月乙未(二十六日)、魯で地震がありました。
丁酉(二十八日)、周でも地震がありました。家屋が倒壊して南宮極(王子朝の党)が命を落とします。
周の萇弘が劉狄(劉文公)に言いました「あなたが努力すれば、先君(劉摯。劉献公)が目指したことがきっと実現します(劉摯は王子朝の即位に反対し、王子猛を立てようとしていましたが、実現する前に死んでしまいました)。周が滅ぶ時西周幽王時代)、三川(涇水・渭水・洛水)地震がありました。今回、西王(王子朝)の大臣(南宮極)がいる場所で地震があったのは、天が彼等を棄てたからです。東王(敬王。狄泉が王城の東にあったため、東王といいます)が必ず大勝します。」
 
[十一] 楚平王は秦女を娶って太子・建を廃してから、その母を実家の(蔡地)に帰らせました。
建の母は楚を怨んでいたため、呉と通じての城門を開き、呉軍を誘い入れました
冬十月甲申(十六日)、呉軍がに入り、楚夫人(建の母)と宝器を奪って撤兵しました。
この時、呉軍を指揮したのは、『春秋左氏伝(昭公二十三年)』では「呉の太子・諸樊」となっています。しかし諸樊は二代前の呉王の名で、呉王・僚の伯父にあたるので、王・僚が自分の子に「諸樊」という名をつけるとは思えません。
史記・呉太伯世家』には「呉王・僚八年(本年)、呉が公子・光に楚を撃たせて楚師を破る。楚の故太子・建の母を居巣から迎え入れて兵を還す」とあります。
また、『楚世家』も「呉が公子を討たせ、陳、蔡を破り、太子を連れて去った」としています。
楊伯峻の『春秋左伝注』は、呉軍の指揮を取ったのは『史記』に書かれている「公子・光」の方が信憑性があるとしています。但し、『史記』と『左氏伝』では「「」と「居巣」の違い等があり、これらは『左氏伝』が正しいと思われます。
 
楚の司馬・越が呉軍を追撃しましたが、追いつけなかったため自殺しようとしました。
周りの者が言いました「呉を攻撃すれば、あるいは勝てるかもしれません(功績を立てて罪から逃れられるかもしれません)。」
しかし越はこう言いました「もしも再び君師(楚王の軍)を敗れさせたら(既に州来で大敗しています)、死んでも罪を償えなくなる。国君の夫人を失ったのだから、死なないわけにはいかない。」
越は漢水東岸の地)で首を吊って死にました。
 
[十二] 冬、魯昭公が叔孫のために晋に向かいましたが、途中で病にかかったため引き返しました。
 
[十三] 楚が囊瓦(子常)を令尹に任命しました。囊瓦は令尹・子囊(公子・貞)の孫です。
子囊は死ぬ前に、首都・郢に城を築くように遺言しました(東周霊王十三年・559年)
囊瓦も呉の攻撃を恐れて郢城の増築を進言します。平王はこれに従いました。
 
沈尹・戌が言いました「子常は郢を失うことになる。元々守ることができないのだから、城壁があっても無意味だ。古では天子の守りは四夷にあったが(徳が広く伝わり、四夷が天子の守りとなりました)、天子が衰えると守りは諸侯に移り(天子の徳が衰えたため四夷が背き、諸侯が四夷の侵攻を防ぐようになりました)、諸侯の守りは四鄰に置かれた(四方の隣国が互いに守り合い、天子を助けました)。更に諸侯が衰えると守りは四境に移った(諸侯の徳が衰えると、諸侯は天子を守らず自分の国境を守るようになりました)。諸侯が四境を警備し、四援(四方の隣国の援助)を受ける中で、民は自分の野(地)に安住して三務(春・夏・秋の農事)を行い、収穫するようになった。民に内憂も外患もなければ、国に城壁は必要ない。今、呉を恐れて郢に城を築き、小さい範囲を守ろうとしているが、諸侯が衰えた時の範囲(四境。国境)も守らないようで、どうして滅ばずにいられるだろう(国境を疎かにして国都の城壁だけを高くしても国を守ることはできない)。昔、梁伯は公宮に溝を作って民を瓦解させた(東周襄王十二年・前641年)。民が上(国君)を棄てても滅ばないとしたら、何を待つのだ(民が上を棄てたら滅亡を待つしかない)。国境を正し、土田(土地)を修め、走集(国境の塁壁)を堅固にし、民と親しくし、伍候(四方と国内の眺め、情報)を明らかにし、鄰国に信を築き、官吏を職責に対して慎重にさせ、交礼(交際・交接の礼)を守り、僭(礼から外れること)にならず、貪(貪婪)にならず、惰弱にならず(他国の辱めを受けず)、強暴にならず、自分の守りを完成させて不虞(不測の事態)に備えれば、何も恐れることはない。『詩(大雅・文王)』にはこうある『汝の祖先を想い、その美徳を修める(無念爾祖,聿脩厥徳)。』若敖、蚡冒や武王、文王(四人は楚の先君で、賢者として称えられています)を見れば分かることだ。当時の土地は同百里四方)を越えなかったが、四境を警戒するだけで郢に城を築かなかった。今は数圻(数千里)の土地を擁しながら、郢に城を築こうとしている。これで安泰を求めても、難しいことだ。」
 
 
 
次回に続きます。