春秋時代234 東周敬王(三) 呉楚国境の衝突 前518年

今回は東周敬王二年です。
 
敬王二年
518年 癸未
 
[] 春正月辛丑(初五日)、周の召伯・盈(簡公。召荘公・奐の子)と南宮嚚(南宮極の子)が甘桓公(甘平公の子)を王子朝に推挙しました。
 
この事を知った劉狄(劉子)が萇弘に言いました「甘氏も去ってしまった。」
萇弘が言いました「害はありません。同じ徳を持つ者は義も共にするものです(同徳度義)。『太誓尚書・泰誓)』にこうあります『紂商王朝最後の王。暴君)には億兆の人がいたが、徳から離れていた。余西周武王)には乱を治める臣が十人しかいなかったが、心も徳も一つだった(紂有億兆夷人,亦有離徳。余有乱臣十人,同心同徳)。』これが周が興隆した理由です。あなたは徳に務めるべきであり、人がいないことを心配する必要はありません。」
 
戊午(二十二日)、王子朝が鄔に入りました。
 
[] 二月丙戌(二十日)、魯の仲孫貜(孟僖子)が死にました。子の何忌(懿子)が大夫を継ぎました。
 
仲孫貜は遺言を残し、自分の子(孟懿子と南宮敬叔)孔子に師事させました。東周景王十年(前535年)にも『春秋左氏伝(昭公七年)』の記述を元に書きましたが、ここでは『史記孔子世家』の記述を紹介します。
 
魯の大夫・孟釐子(孟僖子)が病にかかりました。死ぬ前に嗣子の懿子(何忌)を招いて言いました「孔丘孔子は聖人商王朝初代王・成湯)の後代だが、祖先は宋で一度滅んだ。彼の先祖である弗父何は宋の国君になるはずだったが、厲公(弗父何の弟)に譲った。正考父の代になって戴公、武公、宣公を補佐し、三命(三公の命)によって上卿を勤めたが、ますます恭敬になった。だから鼎銘にはこう書かれている『一命を受けて頭を低くし、再命を受けて体を屈め、三命を受けて身を伏せる。道の端を小走りで移動しても(恭敬を示します)、余を侮ることがない(どんなに腰を低くしても他人から軽視されることはない)。饘がここにあり、鬻にここがあり(饘も鬻も粥の一種。倹約を意味します)、余の糊口をしのぐ(一命而僂,再命而傴,三命而俯,循牆而走,亦莫余敢侮。饘於是,鬻於是,以餬余口)。』彼の恭敬な態度はこのようだった。聖人の後代は国君にならないとしても、必ず達者(賢人)が現れるという。今、孔丘は若いのに礼を好んでいる。彼こそが達者ではないか。わしが死んだら必ず師として仕えよ。」
釐子が死ぬと懿子と南宮敬叔は孔子に礼を学びに行きました。
史記孔子世家』はこの時、孔子はまだ十七歳だったとしていますが、実際は三十五歳前後のはずです。
 
[] 晋の士彌牟(士景伯。士伯)が箕に拘留している魯の叔孫を迎えに行きました。
叔孫士彌牟の意図を知らないため、梁其踁を門の中に潜ませてこう命じました「わしが左を見て咳をしたら彼を殺せ。右を見て笑ったら動くな。」
叔孫士彌牟に会うと、士彌牟が言いました「寡君(晋君)は盟主であるために子(あなた)を久しく留めることになった。もうすぐ敝邑の粗末な礼物が従者に贈られることになる(餞別の礼です。礼物は叔孫に贈られますが、直言を避けて「従者や左右に贈る」と表現するのが当時の礼義でした)。寡君が彌牟(私)に命じて吾子(あなた)を迎えに来させた。」
叔孫は礼物を受け取って魯に帰りました。
二月、叔孫が魯に到着しました
 
[] 三月庚戌(十五日)、晋頃公が士彌牟を周に派遣して敬王と王子朝の対立について調査しました。
士彌牟は乾祭門(王城北門)に立って大衆の意見を聞きます。その結果、大衆が王子朝の非を訴えたため、晋は王子朝への協力を拒否し、その使者も受け入れないことにしました。
 
[] 夏五月乙未朔、日食がありました。
魯の梓慎が言いました「水害があるはずだ(日食は陰の月が陽の日を隠すので、陰が強くなると考えられました。水は陰にあたります)。」
しかし叔孫昭子)がこう言いました「旱害だ。日が春分を過ぎたのにまだ陽が勝てない春分を過ぎたら陽気が盛んになるはずなのにまだ陰に勝てない)。だから(鬱積された)陽が勝つ時は大きく勝ち、必ず旱害が起きる。陽が時を過ぎたのに勝てないのは、陽を集積しているからだ。」
 
[] 六月壬申(初八日)、周の王子朝が瑕と杏(どちらも敬王の邑)を攻撃し、壊滅させました。
 
[] 鄭定公が晋に行きました。
鄭の子太叔(子大叔)が晋の士鞅(范献子)に会うと、士鞅が問いました「王室はどうなるでしょう。」
子太叔が答えました「老夫(私)には自分の国と家のことも顧みることができないのに、どうして考えが王室に及ぶのでしょう。こういう言葉があります『寡婦は緯(織物の糸)が足りないことを心配せず、宗周の衰落を心配する。禍が自分に及ぶことを恐れるからだ(嫠不恤其緯,而憂宗周之隕,為将及焉)。』今、王室が動揺して我々小国も恐れていますが、大国の憂いは我々には分からないことです。吾子(あなた)は早く謀るべきです。『詩(小雅・蓼我)』にこうあります『缾が空なのは、罍の恥(「缾」は小さな酒器、「罍」は大きな酒器で、缾の酒は罍から注がれます。缾の酒が無いというのは罍が酒を注がない、または注げないからで、それは罍の恥になります。ここでは缾は周、罍は晋の比喩として使われています。「缾之罄矣,惟罍之恥」)。』王室が安定しないのは、晋の恥ではありませんか。」
士鞅は納得して韓起(韓宣子)と相談し、来年、諸侯と会合することにしました。
 
[] 秋八月、魯が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。叔孫昭子)の予言が的中して旱害に襲われたためです。
 
[] 九月丁酉(初五日)、杞平公が在位十八年で死に、子の成が継ぎました。悼公といいます。
 
[] 冬十月癸酉(十一日)、周の王子朝が成周の宝珪(玉器)黄河に沈めて福を祈りました。
甲戌(十二日)、津黄河の港。恐らく盟津)に住む人が黄河で宝珪を得ました。
それを知った敬王の大夫・陰不佞が温人を率いて南侵し、玉を得た者を捕えました。陰不佞は奪った玉を売ろうとしましたが、玉は石に変わったといいます。黄河の神が王子朝の玉を受け入れず、石に変えたという意味かもしれません。
後に敬王の地位が安定すると、陰不佞は石(宝珪)を敬王に献上しました。敬王は陰不佞に東訾の地を与えました。
 
[十一] 楚平王が舟師を率いて呉の国境を侵しました。
沈尹・戌が言いました「この出征で楚は邑を失う。民を慰撫することなく逆に疲労させ、呉に動く気配がないのに出兵を促している。それに、もし呉が楚を追撃しても、疆場(国境)に備えがない。これで邑を失わないはずがない。」
 
越の大夫・胥犴が豫章の汭(川が曲がる場所)で楚平王を慰労しました。越の公子・倉が楚平王に舟を贈ります。また、公子・倉と寿夢(越の大夫)が越兵を率いて楚平王に従いました。
 
楚平王は圉陽(楚地)に至って兵を還しました。
しかし呉軍がその後を追いました。楚の国境に備えがなかったため、呉は巣と鍾離を攻略します。
 
沈尹・戌が言いました「郢(楚都)の滅亡はここから始まった。王は一度動いて二姓の帥(巣と鐘離を守る大夫)を失った。これが繰り返されたら郢に及ぶだろう。『詩(大雅・柔桑)』にはこうある『誰が禍を招いたのか。今に至るまで苦しんでいる(誰生厲階,至今為梗)。』これは王のことを言っているのだろう。」
 
史記』の『呉太伯世家』と『楚世家』は楚と呉の戦いが国境の小さな対立から始まったと書いています(『楚世家』は前年の事としていますが、恐らく誤りです)
以前、呉の辺境の邑・卑梁と楚の辺境の邑・鍾離の女や小童が桑を巡って争いました。両家は怒って互いに攻撃し合い、鐘離の人が卑梁の家族を皆殺しにしました。それを聞いた呉の卑梁大夫(邑長)は怒って邑兵を動員し、鍾離を攻撃します。
すると楚王(平王)が怒って国兵を出し、卑梁を滅ぼしました。
その報告を聞いた呉王(僚)も激怒し、楚を討伐しました。その結果、公子・光が楚を攻撃し、鍾離を滅ぼして巣に駐軍しました
尚、『楚世家』はこの戦いで呉軍が楚平王の夫人(太子・建の母)と通じて楚を攻めたとしていますが、夫人の内応を得て楚と戦ったのは前年のことです。
 
呂氏春秋・先識覧』にもこの戦いに関する記述がありますが、『史記』とは若干異なります。
楚の辺邑・卑梁に住む少女と呉の辺邑に住む少女が国境の桑の木に登って遊んでいましたが、呉の少女が卑梁の少女に怪我を負わせました。卑梁人は怪我をした少女を連れて呉人に謝罪させます。ところが、呉人の態度が恭しくなかったため、卑梁人は呉の少女の家人を殺して去りました。
これに怒った呉人が報復し、卑梁の少女の家族を皆殺しにします。
それを知った卑梁公(邑大夫)が怒って言いました「呉人が敢えて我が邑を攻撃してきた!」
卑梁公は兵を挙げて呉の国境を攻撃し、老弱問わず皆殺しにします。
呉王・夷昧(『史記』では呉王・僚の時代です)がこれを聞いて激怒し、兵を送って楚の辺邑を攻め、邑を滅ぼし平地にしてから兵を還らせました
 
[十二] 杞が平公を埋葬しました。
 
 
 
次回に続きます。