春秋時代236 東周敬王(五) 魯の内争 前517年(2)

今回は東周敬王三年の続きです。
 
[] 秋七月上辛(上旬の辛日。辛卯。初三日)、魯が大雩(雨乞いの儀式)を行い、季辛(下旬の辛日。辛亥。二十三日)に再び雩を行いました。
二回儀式が行われたのは、旱害がひどかったためです。
 
[] 以前、魯の季公鳥(季公若の兄)が斉の鮑国(鮑文子)の娘(季姒)を娶り、子ができました。子の名は伝わっていないため、『春秋左氏伝(昭公二十五年)』には「甲」と書かれています。「甲」は「某」と同じ意味です。
季公鳥が死ぬと、季公亥(季公若)が公思展(季氏の一族)および季公鳥の臣・申夜姑と共に家を治めることになりました。
 
後に寡婦となった季姒が饔人(食官。季氏の飲食を担当する者)・檀と私通しました。季姒は季公亥等に譴責されることを恐れます。
そこで季姒は妾(婢女)に自分を殴らせてから、魯の大夫・秦遄の妻(季公鳥の妹。秦姫)に言いました「公若が私に関係を要求しましたが、拒否したので殴られました。」
また、公甫(季孫紇の子。季孫意如の弟。公甫の子孫は公甫氏を名乗ります)にもこう言いました「展と夜姑が私に非礼を強要しようとしています(二人は私が季公若と関係を持つことを強要するつもりです)。」
秦姫はこれを公之(公甫の弟)に報告し、公之は公甫と共に季孫意如(平子)に告げました。
訴えを信じた季孫意如は公思展を卞に拘留し、申夜姑も捕えて殺そうとしました。
季公若は泣いて「彼等を殺すのは私を殺すのと同じだ」と言い、命乞いに行きます。
しかし季叔意如は豎(小吏)に命じて季公若の面会を拒否させました。日が昇って正午になっても季公若は面会ができません。その間に有司(申夜姑を捕えた官吏)が季孫意如の命を聞きに来たため、公之は速やかに申夜姑を殺すように指示しました。
この事件があってから季公若は季孫意如を怨むようになりました。
 
ある日、季氏と郈氏が闘鶏をしました。季氏は鶏に「介」をつけました。『春秋左伝注』によると、「介」の解釈は二つあるようです。一つは「芥(粉末)」に通じ、鶏に粉末をつけて郈氏の鶏の目をくらませたという説です。もう一つは「甲」に通じ、鶏に甲冑をつけたという説です。
一方の郈氏は鶏に金距をつけました。金属で作った偽の爪です。
結果は季氏の負けでした。
怒った季孫意如は自分の屋敷を拡大し、郈氏の土地を奪ったうえ、郈氏を譴責しました。こうして郈悪(昭伯。魯孝公の子孫)も季孫意如を怨むようになりました。
 
臧孫賜(臧昭伯)の従弟・臧会(臧頃伯。宣叔・許の孫)が臧氏の家で他の者を陥れようとし、季氏の家に逃げました。しかし臧氏が藏会を捕えたため、季孫意如は怒って臧氏の老(家老)を捕まえてしまいました(この事件は本年の終わりの方で詳述します)
 
襄公廟で祭を行った時、万舞を行う者は二人(または「二八」で十六人)しかいませんでした。ところが季氏の家(私祭)では多数の者が万舞を披露します。
臧孫賜が言いました「これでは先君の廟で祭祀を行いながら先君の功労に感謝することができない。」
このような出来事が重なったため、魯の大夫達も季孫意如を憎むようになりました。
 
季公若が公為(昭公の子・務人)に弓を献上し、矢を射るために外出するように誘いました。そこで季氏を除く相談がされます。公為は弟の公果と公賁に計画を伝え、公果と公賁は侍人・僚枏(昭公の従者)を通じて昭公に連絡します。
僚枏は他者に覚られないため、夜になってから昭公に会いに行きました。昭公は既に寝ていましたが、僚枏の報告を聞くと戈を持って僚枏を撃とうとしました。僚枏は慌てて逃走します。昭公は「捕えよ」と言いましたが、正式な命令は出しませんでした。
 
その後、僚枏は恐れて出仕せず、数カ月にわたって姿を現わしませんでしたが、昭公は僚枏を譴責しませんでした。
暫くして僚枏が再び報告に行きましたが、昭公はやはり戈を持って追い返しました。
三回目に僚枏が昭公に会いに行った時、昭公はこう言いました「小人(従者・僚枏)が口出しすることではない。」
そこで公果が自分で昭公に季氏討伐の計画を話します。
昭公はまず季氏と対立している臧孫賜に相談しましたが、臧孫賜は困難だと判断しました。
昭公は郈孫悪にも相談しました。郈孫悪は成功すると判断し、昭公に実行を勧めました。
昭公が子家羈(または「子家駒」。子家懿伯。子家子。荘公の玄孫。史記隠』によると大夫仲孫氏の一に話すと、子家羈はこう言いました「讒人(季氏を悪くいう者。公若や郈孫氏)は主公の徼幸(幸運)に頼っていますが、事が成功しなかったら、主公が悪名を得ることになります。実行するべきではありません。民を棄てて既に数世になるので、成功を求めても無理でしょう。政権は他者(季氏)の手にあります。計画は困難です。」
昭公が子家羈に退出を命じると、子家羈は「臣は既に君命(陰謀)を聞きました。もしその言が洩れたら、臣は良い死を迎えることができないでしょう(秘密を漏らすことはありません)」と言って、公宮に住み始めました。
 
宋を聘問した叔孫昭子)(魯邑)まで来た時、昭公は長府(府庫)にいました。
九月戊戌(十一日)、公室を支持する勢力が季氏を討伐し、宮門で公之を殺して進入しました。
季孫意如が楼台に登って言いました「主公は臣の罪を調査せず、有司(官員)に干戈で臣を討伐させました。臣が沂水の辺で調査を受けることをお許しください。」
昭公は拒否しました。
季孫意如が費邑(または「邑」。季氏の采邑)で幽閉されることを求めても、昭公は拒否します。
五乗の車で亡命することも、昭公は拒否しました。
子家羈が言いました「主公は季氏の要求を許すべきです。政令が季氏から出るようになって久しく、隠民(困窮した民)の多くが季氏から食を得てきました。その徒者(一党)は多いので、日が暮れてから事を起こすかもしれません(季氏を支持する勢力が反旗を翻すかもしれません)。大衆の怒りを溜めてはなりません。怒りが溜まってからうまく処理できなければ、怒りはますます多くなり、民に叛心が生まれます。民に叛心が生まれて同じ要求(季氏を助けること)を持つ者が集まったら、主公は必ず後悔することになります。」
しかし昭公は進言を無視しました。
郈孫悪も「季氏を殺すべきです」と強く勧めました。
昭公は郈孫悪を送って仲孫何忌(孟懿子)を迎えに行かせました。孟孫氏の協力を得るためです。
 
その頃、異変を聞いた叔孫氏の司馬・鬷戻が家衆に問いました「我々はどうするべきだ?」
誰も答える者がいません。再び問いました「私は家臣(叔孫氏の臣)なので、国の事を知ろうとは思わない。季氏が存続するのと居なくなるのとでは、どちらが叔孫氏にとって有利だ?」
皆が言いました「季氏が無くなれば叔孫氏も無くなります。」
鬷戻が言いました「それなら季氏を助けよう。」
鬷戻は徒(歩兵)を率いて宮城の西北角を攻略し、宮中に入りました。昭公の徒(歩兵)が甲冑を脱ぎ、冰(矢を入れる筒の蓋。水を飲む時にも使いました)を持って跪きます。戦うつもりがないことを示します。鬷戻は昭公の兵を解散させました。
 
孟懿子(仲孫何忌)が部下を西北角の城壁に登らせ、季氏の家を確認させました。部下が西北角まで来ると、叔孫氏の旌(旗)がなびいています。
叔孫氏が季孫氏を援けているという報告を聞いた仲孫何忌は、迎えに来た郈孫悪を捕えて南門の西で殺し、昭公の徒を攻撃しました。
楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この時、仲孫何忌はわずか十四歳なので、実際の指揮は家臣がとったようです。
 
昭公が出奔しようとしたため、子家羈が昭公に言いました「諸臣が国君を脅迫して今回の事を起こし、その者(季氏討伐を首謀した者)はすでに罪人の汚名を負って逃走したことにしましょう。主公は留まるべきです。(今回の事があったので)意如も主公に仕える態度を改めるはずです。」
しかし昭公は「余には(季孫氏のいいなりになるのが)堪えられない」と言うと、臧孫賜と共に祖先の墓陵に行き、祖先に別れを告げてから亡命の相談をしました。
 
己亥(十二日)、昭公が斉国境を越えて陽州(または「楊州」。元は魯邑。この時は斉邑)に至りました。
魯昭公出奔の情報が斉景公にも伝えられます。そこで景公は平陰で魯昭公を出迎えて慰労することにしました。ところが魯昭公は既に平陰を通り過ぎて野井(済水東)に来ていました。
斉景公が言いました「これは寡人の罪です。有司(官員)に命じて平陰で待機させたのは(陽州に)近いからです(まさか魯公を野井で待たせてしまうことになるとは思いませんでした)。」
 
斉景公は魯昭公にこう約束しました「莒境以西の千社(一社は二十五家なので、千社は二万五千家)を譲り、君命(季氏討伐の命)を待ちます。寡人は敝賦(斉の兵)を率いて執事(魯の執政者。昭公)に従い、全ての命を聞きます。魯君の憂いは寡人の憂いです。」
昭公は喜びましたが、子家羈が言いました「天の禄(福)は二度と降りてきません。天が主公を助けるとしても、周公(旦。魯の祖)を越えることはないので、魯を擁することができればそれで充分です。それなのに既に魯を失いながら千社を擁して臣下になったら、誰が主公を擁立するでしょう(斉の千社を受け入れたら斉の臣下になります。周公の地を失って斉の臣になったら、二度と国君に戻ることはできなくなります。そもそも斉君には信がありません。速やかに晋に行くべきです。」
昭公は従いませんでした。
 
 
 
次回に続きます。