春秋時代238 東周敬王(七) 魯・斉の戦い 前516年(1)

今回は東周敬王四年です。二回に分けます。
 
敬王四年
516年 乙酉
 
[] 春正月庚申(初五日)、斉景公が魯の鄆を攻略しました。亡命した魯昭公を鄆に住ませるためです。
 
[] 宋が元公を埋葬しました。前年、元公は質素な葬儀を行うように遺言しましたが、群臣は先君が定めた制度にあわせた葬礼を用いました。
 
[] 三月、魯昭公が鄆に住みました。
 
[] 夏、斉景公が魯昭公を帰国させようとしました。斉の群臣に魯の貨(賄賂)を受け取らないように命じます。
 
魯の申豊が女賈(または「汝賈」。二人とも季氏の家臣)に従って斉に行きました。昭公の帰国を阻止することが目的です。二両(二匹)の錦を幣物としました。錦は一つに縛り、瑱(鎮圭。天子が持つ細長い玉器)のような形にして懐に隠します。
二人は子猶(または「子将」。梁丘拠。斉景公の寵臣)の家臣・高齮(または「高齕」。一説では齕が名で齮は字)に会い、こう言いました「もし子猶を説得できたら、あなたを高氏の後継者に推して、粟五千庾(庾は容量の単位)を与えましょう。」
高氏は斉の正卿の家系でしたが、高彊の代になって魯に出奔しました(東周景王十三年・前532年)高齮は斉に残った高氏に属しますが、梁丘氏の家臣に過ぎません。そこで申豊等は高齮を高彊に代えて高氏の宗主(斉の正卿)に立てることを約束しました。
 
高齮は渡された錦を子猶に見せました。子猶は自分のものにしようとします。そこで高齮が言いました「これは魯人が買ったものです。(魯にはもっとたくさんの錦があり)百両(百匹)で一布(一山)になっていますが、道が通じていないため(戦時であり、しかも斉景公が賄賂を禁止したため)、先に幣財(簡単な礼物)を贈ってきました。」
子猶は錦を受け取ってから、景公に進言しました「魯の群臣が魯君のために力を尽くさないのは、国君の命に背こうとしているからではなく、奇異に感じているからです。宋元公は魯君のために晋に向かいましたが、曲棘で死にました。叔孫昭子もその君を国に入れようとしましたが、病もないのに死んでしまいました。これは天が魯を棄てたからでしょうか。それとも魯君が鬼神の罪を得たからでしょうか。主公は曲棘(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、斉に「曲棘」は無いので、恐らく「棘」の誤り)で待機し、群臣を魯君に従わせて卜ってください(戦況を確認して勝算の有無を判断してください)。問題なく出兵が成功してから主公が後に続けば、抵抗する敵はいません。もし出兵が成功しなくても、主公が辱めを受けることはありません。」
景公はこれに従い、公子・鉏(景公の子)に兵を率いて魯昭公に従わせました。
 
魯の成大夫・公孫朝が季孫意如(季平子)に会いに行きました。成は孟氏の邑ですが、仲孫何忌(孟懿子)がまだ若いため、季氏の指示を仰いでいたようです。
公孫朝が季孫意如に言いました「都(城邑)とは国を守るためにあります。私に斉師を防がせてください。」
季孫意如は同意しました。
公孫朝が季氏に人質を納めようとすると、季孫意如は拒否してこう言いました「汝を信じている。それで充分だ。」
 
公孫朝が斉軍に伝えました「孟氏は魯の敝室(落ちぶれた一族)です。成を使って戦おうとしていますが(民力も財力も劣るので)堪えることができません。斉に帰順して休息させてください。」
斉軍は成邑がすぐに帰順すると信じて兵を向けました。
斉軍が淄水(柴汶水。小汶河)で馬に水を飲ませていると、成人が斉軍を急襲してこう言いました「これは大衆を抑えるためです(公孫朝が投降することを民衆に知られないために行った攻撃です)。」
斉軍は成邑が投降すると信じているため、攻撃を開始しませんでした。
その間に成邑は防備を整えます。
戦の準備が終わった公孫朝が斉軍に伝えました「大衆を制御できませんでした(斉に投降できません)。」
 
魯軍と斉軍は炊鼻で戦いました。
斉の子淵捷(子淵が氏、捷が名。字は子車。斉頃公の孫)が魯の大夫・野洩(野が氏、洩が名。諡号は声子)を追撃して矢を射ました。矢は(車軛。車を馬に繋ぐ部分)から(車轅。馬と車の間の木)を通って楯瓦(盾の左右真ん中にある脊)に中り、三寸突き刺さりました。
野洩が反撃して子淵捷の馬を射つと、鞅(馬の首につける革具)を断ちました。馬は倒れて死にます。
この記述から、子淵捷には勇力があり、野洩は矢の腕が精確だったことがわかります。
子淵捷は馬が死んだため兵車を乗り換えようとしました。すると、一人の魯人が鬷戻(叔孫氏の司馬)だと思い、助けるために接近しました。
それに気づいた子淵捷が「わしは斉人だ」と言ったため、魯人は子淵捷を攻撃しました。子淵捷はとっさに矢を射て魯人を殺しました。
子淵捷の御者が「もっと射てください(魯兵をもっと倒してください)」と言いましたが、子淵捷は「衆(大衆。民。ここでは昭公の帰国に反対する魯の民意)とは恐れるべきだ。怒らせてはならない」と答えました。
斉軍には魯との戦いを大きくするつもりがなかったようです。
 
斉の大夫・子囊帯が野洩を追撃して罵りました。野洩は「軍に私怒(個人的な怒り)はないが、私は私怒に報いよう。子(汝)の相手をする」と返しました。
子囊帯が再び罵ったため、野洩も罵り返します。但し、互いに罵りあうだけで戦いませんでした。ここからも斉の戦う意志が乏しかったことが分かります。
 
魯の冉豎(季氏の臣)が陳開(字は子彊。陳武子。陳無宇の子)を射ました。矢が手に中ります。弓を落とした陳開は冉豎に向かって大喝して罵りました。
冉豎は相手が陳開とは知らないため、季孫意如にこう言いました「白晳鬒鬚眉(顔が白く髭と眉が黒くて濃い様子)で、口が達者な君子がいます。」
季孫意如が言いました「それは子彊に違いない。対抗できないか?」
冉豎が言いました「既に君子と言ったのですから(君子と認めたのですから)、対抗するわけにはいきません。」
 
魯の林雍は顔鳴の車右でいることを恥とし、車から降りて戦いました。しかし斉の大夫・苑何忌苑子が林雍の耳を斬ったため、顔鳴が林雍を助けに行きます。
苑何忌の御者が後ろを向いて苑何忌に言いました「下です!」
苑何忌は車の下にいる林雍の足を斬りました。
林雍は片足で他の車に飛び乗って引き返します。
その後、顔鳴が三回斉軍に突入し、その度に「林雍が乗っているぞ!」と叫びました。魯軍は全軍が一心になって季孫氏を支持しており、私怨によって分裂することはないという姿を見せるためです。
『春秋左氏伝』には明記されていませんが、この戦いで魯軍(季氏)が斉軍を破ったようです。
 
[] 四月、周の単旗が晋に急を告げました。王子朝の勢力が盛り返したためです。
五月戊午(初五日)、劉人(劉邑の勢力。劉狄軍)が尸氏で王城の師(王子朝軍)を破りました。
戊辰(十五日)、王城の師と劉人が施谷で戦い、劉師が敗れました。
 
[] 秋、魯公(昭公)が斉侯(景公)、莒子、邾子、杞伯と(詳細位置不明)で会盟しました。魯昭公の帰国に協力するためです。
 
[] 魯昭公が陵から鄆に帰りました。
 
[] 七月己巳(十七日)、王子朝に破れた劉狄が敬王を連れて劉邑を出ました。
庚午(十八日)、敬王が渠に駐軍しました。
王城の師が劉邑を焼きます。
丙子(二十四日)、敬王が褚氏に宿泊しました。
丁丑(二十五日)、敬王が萑谷に遷りました。
庚辰(二十八日)、敬王が胥靡に入りました。
辛巳(二十九日)、敬王が滑に駐軍しました。
晋の知躒と趙鞅が軍を率いて敬王を迎え入れ、女寬(叔寛。女斉の子)に闕塞(伊関)を守らせました。
 
[] 九月庚申(初九日)、楚平王が在位十三年で死にました。
令尹・子常が子西を即位させようとしました。子西は平王の庶弟、もしくは庶長子です。
子常が群臣に言いました「太子・壬は幼弱で(十歳にもなっていません)、その母は非適であり(正妻ではなく)、王子・建のために招いた女性です(東周景王二十二年・前523年参照)。逆に子西は年長で善を好みます。年長者を立てることは順(道理に合うこと)であり、善を立てることは治(国が治まること)となります。王が順であり、国に治をもたらすことを選ばなければなりません。」
すると子西が怒って言いました「これは国を乱し、君王の悪(平王が太子・建のために招いた妻を奪った件)を晒すことになります。国に外援があったら疎かにしてはなりません(太子・壬の母は秦人なので、秦が外援です)。王に適嗣(嫡子)がいるのなら乱してはなりません。親(平王)の名声を汚し、讎を招き(秦の怨みを買い)、嗣(後嗣)を乱すのは不祥であり、私が悪名を得ることになります。天下が私に賄賂を贈っても、私が従うわけにはいきません。令尹は楚国をどうするつもりですか。令尹を処刑するべきです。」
子常は恐れて太子・壬を即位させました。これを昭王といいます。
史記』の『楚世家』は昭王の名を「軫」、『十二諸侯年表』は「珍」としています。即位後に改名したようです。
 
楚平王が死んだという情報は呉にも届きました。平王に対する敵討ちを決意していた伍子胥にとって、衝撃的な出来事でした。以下、『呉越春秋(第三)』からです。
呉に亡命していた伍子胥白公・勝(楚平王の太子だった建の子。後に楚に呼び戻されて白公と号します)に言いました「平王が死にましたが、私の志は尽きていません。(平王が死んでも)楚国はまだあります。憂いることはありません(楚国があれば、仇討ちはできます)。」
白公は黙ったまま何も言いません。伍子胥は部屋に座って泣き続けました
 
 
 
次回に続きます。