春秋時代239 東周敬王(八) 王子朝の出奔 前516年(2)

今回は東周敬王四年の続きです。
 
[] 冬十月丙申(十六日)、周敬王が滑で兵を起こしました。
辛丑(二十一日)、郊(王子朝の邑)に入り、尸(尸氏)に遷ります。
 
十一月辛酉(十一日)、晋軍が鞏を攻略しました。
王子朝の党に属していた召伯・盈(召簡公)が王子朝を駆逐します。
王子朝と召氏の一族および毛伯得、尹氏固、南宮嚚が周の典籍を持って楚に奔りました。
陰忌(王子朝の党)は莒(周の邑)に奔って挙兵します。
 
召伯・盈が尸で敬王を迎え入れ、劉狄、単旗と盟を結んで協力を誓いました。
その後、敬王軍は圉沢に入り、隄上に駐軍します。
癸酉(二十三日)、敬王が成周に入りました。
資治通鑑外紀』によると、これ以降、王城を西周、成周を東周と呼ぶようになりました。
 
甲戌(二十四日)、敬王が襄宮(襄王の廟)で盟を結びました。
晋軍は成公般(晋の大夫)に周を守らせて兵を還します。
 
十二月癸未(初四日)、敬王が荘宮(王城の宮殿)に入りました。
 
以上は『春秋左氏伝(昭公二十六年)』の記述です。『春秋』経文には「冬十月(『左伝』は十一月)、天王が成周に入り、尹氏、召伯、毛伯が王子朝を奉じて楚に奔った」と書かれていますが、召伯は敬王に帰順しているので、楚に奔ったのは「召伯」ではなく「召氏」です。
 
史記・周本紀』では、王子朝は楚に奔ったのではなく、敬王に仕えた子朝為臣)としています。『春秋左氏伝』と大きく異なります。
また、『周本紀』は諸侯が周のために城を築いたと書いています。『春秋左氏伝』では六年後の魯昭公三十二年(東周敬王十年・前510年)に詳述しています。
 
[十一] 楚に奔った王子朝が諸侯に告げました「昔、武王が殷に勝ち、成王が四方を安定させ、康王が民を休息させた時、同母弟を諸侯に建てて周の蕃屏にし、こう言った『私は一人で文王と武王の功績を享受することができない(よって同母弟を分封する)。後人が迷敗傾覆にて難に陥った時、救済するためでもある。』夷王が悪疾に悩まされると、諸侯は皆、望(山川の神を祀ること)を行い、王のために祈祷した。厲王は暴虐だったため、万民が堪えられず、ついに彘に追放された。その間、諸侯が自分の位を離れて王政を補った。宣王には志(知識)があったため、天子の位に即くことができた。ところが幽王の代になると、天が周を憐れまなかったため、王は昏乱で道理に従わなくなり、再びその位を失うことになった。攜王は命を犯したが(天命に逆らって天子を自称したが)、諸侯は攜王に代えて王嗣(平王)を建て、郟(成周)に遷都した。これは兄弟(諸侯)が王室のために力を出したからできたのである。恵王の時代からは天が周を安定させず、頽に禍心を生ませ、叔帯に及んだ。そのため恵王と襄王は難を避けて王都から離れることになった(子頽が乱を起こして恵公は鄭に住み、叔帯が乱を起こして襄王は汜に住むことになりました)。しかし晋と鄭のおかげで不端(正しくない者)を全て滅ぼし、王家を安定させることができた。これは兄弟(諸侯)が先王の命(諸侯が王室を守るという任務)を守ったからできたのである。定王六年、秦人が妖を降してこう言った『周に頾王(口髭が生えた王)が産まれ、その職(天子の業)を修めることができる。諸侯が服して国を享受し、二世に渡って職を守る。しかし王室に王位を窺う者が現れ、諸侯も王室を助けず、乱災を受けることになる。』霊王は産まれた時から頾(口髭)が生えており、特に神聖で、諸侯に対しても悪をもたらさなかった。そのため、霊王と景王は善い終わりを迎えることができた。
今、王室が乱れて単旗と劉狄が天下を乱しており、専横して理に逆らい、『先王の常規は必要ない。余の心に沿う者を立てる。誰にも討伐はさせない』と言っている。彼等が不弔(不善)の群れを率いて王室を混乱させているのだ。彼等は欲のままに侵し、貪り求めて限りがなく、鬼神を冒涜することに慣れて刑法を軽視し、斎盟(いつの盟約かは分かりません)に背いて裏切り、威儀を無視して先王を侮っている。しかも不道な晋は彼等を助け、放縦を赦している。その結果、不穀(天子の自称)は動乱のため遠くに流離し、荊蛮に隠れて帰宿する場所もない。もしも我が一二の兄弟甥舅(王族や諸侯)が天法に則ることを奨励し、狡猾を助けることなく、先王の命に従い、天罰を防ぎ、不穀の憂いを除いて共に謀ろうというのなら、それは不穀の願いである。これから腹心(心中の思い)と先王の経(命)を全て述べるので、諸侯は深く考えよ。
かつて先王はこう命じた『王后に適(嫡子)がいなければ年長者を選んで立てよ。年が同じなら徳がある者を立てよ。徳が同じなら卜によって選べ。王は偏った愛を持たず、公卿は私心を無くすのが古の制である。』ところが、穆后と大子(太子)・寿が早くに世を去ると、単・劉が私心を持って年少の者を立て、先王の命に背いた。伯仲叔季(兄弟。諸侯)はよく考えよ。」
 
魯の閔馬父が子朝の辞を聞いて言いました「文辞とは礼を行うためにある。子朝は景王の命を犯し(景王は王子猛を後継者に立てていたようです)、晋という大国を遠ざけ、自分の志を満足させることだけを考えている。礼が無いこと甚だしいのに、文辞が役に立つと思っているのだろうか。」
 
[十二] 斉で彗星が現れました。彗星は不吉な星とされていたため、斉景公が禳(祈祷。お祓い)をして災害を除こうとしました。
しかし晏嬰が言いました「無益です。誣(詭弁。詐術。偽り)を招くだけです。天道を疑うことはできず、その命に逆らうこともできません。禳に何の意味がありますか。天の彗星が現れたのは穢(汚れ)を除くためです(彗星は箒星ともいうので、旧を除いて新をもたらす象徴とされていました)。国君に穢徳(汚れた徳)がないのなら、何に対して禳をするのですか。逆にもし徳が穢であれば(汚れていたら)、禳によって何を除けるのですか。『詩(大雅・大明)』にこうあります『文王はいつも慎重だった。上帝に仕えることを明らかにし、多くの福を想った。徳が天に逆らうことなく、万国の帰心を受けた(惟此文王,小心翼翼。昭事上帝,聿懐多福。厥徳不回,以受方国)』国君が徳を違えなければ方国(四方の国)が帰順します。彗星を憂いる必要はありません。また、『詩(恐らく佚詩)』にはこういう句もあります『私には鑑(教訓)がない。あるとしたら夏后夏王朝と商だけだ。政治が混乱したために、民が流亡することになった夏王朝商王朝は徳を失い政治を混乱させたため、民を流亡させた。それを戒めとしなければならない。「我無所監,夏后及商。用乱之故,民卒流亡」)。』徳が天に背けば乱を招き、民が流亡します。祝史の行為(祈祷)で補えるものではありません。」
景公は諫言に喜び、祈祷を中止しました。
 
斉景公と晏嬰が路寝(天子や諸侯の正庁)に坐って会話をしました。
景公が嘆息して言いました「美しい室(部屋)だ。誰がここを得ることになるだろう。」
景公は自分の徳が足りないため、子孫が久しく国を保つことができないことを知っていたようです。
晏嬰が問いました「それはどういう意味ですか?」
景公が言いました「徳がある者がここを所有できるはずだ。」
安嬰が言いました「主公の言の通りだとしたら、陳氏(恐らく陳乞の代になっています。陳氏の家系については東周敬王三十一年・前489年に述べます)でしょう。陳氏に大徳はありませんが、民に施しを行っています。豆・区・釜・鍾(全て容量を量る道具)の容積は、公(税)を取る時は小さく、民に施す時は大きくなっています(民から税を取る時はわざと秤を小さくして少な目に取り、民に与える時は秤を大きくして大目に与えています)。主公の税が多いのに較べて、陳氏は施しが多いので、民は陳氏に帰心しています。『詩(小雅・車舝)』にはこうあります『あなたに恩恵を与えることはできないが、あなたのために歌舞を披露しましょう(雖無徳與女,式歌且舞)。』陳氏の施しに対して民は歌舞を披露しています(民は陳氏に直接恩を返すことができませんが、広く称賛の声を挙げています)。主公の後世が少しでも怠惰になり、その時に陳氏が亡んでいなければ、この国は彼の国になるでしょう。」
景公が聞きました「その通りだ(善哉)。どうすればいい?」
晏嬰が答えました「礼だけがそれを止めることができます。礼に符合していれば、家(卿大夫。ここでは陳氏)の施しが国に及ぶことはなく、民は遷らず(流亡せず)、農民も工賈(工商)も職を変えず、士は官を失わず、官吏は怠けず、大夫は公室の利を奪わなくなります。」
景公が言いました「素晴らしい(善哉)。今までの私にはできていなかったが、今後、礼によって国を治めることができると知った。」
晏嬰が言いました「礼によって国を治めるというのは、既に久しいことで、天地と併存しています(天地ができた時から礼は存在し、それによって国を治めてきました)。主公が政令を発したら臣下は恭しく従い(君令臣共)、父は慈愛で子は孝順(父慈子孝)、兄は仁愛で弟は恭敬(兄愛弟敬)、夫が和して妻は温柔(夫和妻柔)、姑は慈愛で嫁は従順(姑慈婦聴)であること、これが礼というものです。主公の政令は礼に違わず、臣下は恭敬で二心を抱かず、父は慈愛を持って子に教え、子は孝心を持って父を戒め、兄は仁愛を持って親しみ、弟は恭敬な態度で従い、夫は和して義を守り、妻は温柔かつ正直で、姑は慈愛を持って忠告に従い、嫁は従順かつ婉曲であること、これは礼の善物(礼がもたらす好い事)です。」
景公が言いました「素晴らしい(善哉)。寡人は今、礼の偉大さを知った。」
晏嬰が言いました「先王は天地から礼を学んで民を治めました。だから先王は礼を尊重したのです。」
 
以上は『春秋左氏伝(昭公二十六年)』の記述を元にしました。景公と晏嬰の会話は『韓非子』等にも書かれています。
また、『資治通鑑外紀』は穰苴という人物も紹介しています。
晏嬰と穰苴の故事は別の場所で紹介します。

 
 
次回に続きます。