春秋時代 晏子(二)

今回も晏子に関する故事を紹介します。
 
晏子春秋・内篇諫下(第二)』からです。
晏子が使者として魯に行った時、景公が国人に命じて大台を築かせました。しかし冬の寒い時だったため、多くの者が凍餒(凍えと飢え)に苦しみます。人々は斉に帰ってきた晏子に望みを託しました。
晏子が帰国して復命すると、景公は宴を設けました。晏子が言いました「主公のお許しがあれば、臣が歌を歌いましょう。」
晏子が続けました「庶民はこう歌っています。『凍水が私を囲むが、私には何もできない。上天が私を害すが、私には何もできない(凍水洗我,若之何。太上靡散我,若之何)』。」
晏子は歌い終わると嘆息して涙を流しました。
景公が晏子を慰めて言いました「夫子は大台の役を憂慮しているのだろう。寡人はすぐ労役を止めさせよう。」
晏子は再拝して退席すると、建設中止については誰にも話さず、大台に行きました。そこで鞭を持ち、労役を怠ける者を打って言いました「私は細人(地位が低い者)だが、蓋廬(家)があり、乾燥や湿気を避けることができる。国君が一つの台を造ろうというのに、なかなか完成しないのはなぜだ!」
人々が言いました「晏子が天を助けて暴虐を行っている。
晏子が去って家に着く前に、景公が労役を中止する命令を出したため、人々は解散しました。
これを聞いた仲尼孔子が嘆息して言いました「古に人臣として善く国君に仕えた者は、名声は国君に帰させ、禍災を自分の身に帰させた。内に入ったら国君の不善を厳しく指摘し、外に出たら国君の徳義を高く称揚した。だから惰君(暗君)に仕えたとしても、天下を治めることができ、諸侯を朝聘させ、自分の功績を誇ることがなかった。この道を守ることができるのは、晏子だけだろう。」
 
これとほぼ同じ話が『春秋左氏伝(襄公十七年)』に宋の出来事として記載されていました(東周霊王十六年・前556年参照)
 
 
次も『晏子春秋・内篇諫下(第二)』からです。
景公は台が完成してから鐘を造ろうとしました。
しかし晏子が諫めて言いました「国の君となる者は、民の悲哀を自分の楽しみとしないものです。しかし主公の欲には限りがなく、台が完成したばかりなのにまた鐘を造ろうとしています。これでは民に重税を課すことになり、必ず民の悲哀を招きます。民の悲哀によって自分の歓楽を得るのは不祥であり、国を治める者のやることではありません。」
景公はあきらめました。
 
淮南子・要略』によると、景公は台を築いてから鐘も造ったようです。以下、『淮南子』からです。
斉景公は、宮内では声色(音楽や女)を愛し、宮外では犬馬を好み、狩猟に出たらなかなか帰らず、好色で驕奢に際限がありませんでした。また、路寝の台を築き、大鐘を造り、庭で鐘を打つと郊外にも音が響いて雉が鳴くほどでした。一朝において三千鐘(鐘は容積の単位)の賞賜を群臣に与えたこともありました。
梁丘拠や子家噲が景公の左右で誤った道に誘ったため、晏子の諫言が生まれるようになりました
 
 
資治通鑑外紀』は酒を飲んだ景公が晏子を招いて歌を聞かせる故事を紹介していますが、『晏子春秋』では斉荘公と晏子の故事となっています。以下、『晏子春秋・内篇雑上(第五)』からです。
晏子が荘公に仕えていた時、荘公は晏子を嫌っていました。
ある日、荘公は酒を飲み、晏子を招きました。晏子が宮門を入ろうとすると、荘公が楽人にこう歌わせました「止まれ、止まれ。寡人は楽しむことができない。汝はなぜ来たのだ(已哉已哉。寡人不能説也,爾何来為)
晏子が席に着くと、楽人が同じ歌を三回繰り返しました。晏子はやっと自分のことを歌っているのだと気がつきます。そこで、晏子は立ち上がって北を向き(国君は南を向いて座っています)、地面に座りました。
荘公が問いました「夫子(汝)は席に着くべきだ。なぜ地面に座るのだ?」
晏子が答えました「訟夫(訴える者)は地面に坐るといいます。今、嬰(私)には国君に訴えることがあるので、地面に座らなければなりません。『人数が多くても義が無く、強くても礼が無く、勇を好んでも賢者を嫌ったら、必ず禍が訪れる(衆而無義,彊而無礼,好勇而悪賢者,禍必及其身)』といいます。これは主公の事を言っているのでしょう。嬰の言が用いられることもないようですので、ここから去ることをお許しください。」
晏子は小走りで退席すると、家の中に保管していた財物を荘公に納め、家の外の財産を市に売り払いました。
その後、晏子は「君子は民に対して力を尽くすことができるのなら爵禄を受け取り、富貴を辞さないものだが、民に対して力が無ければ旅食(平民の飲食。ここでは官爵を棄てて民と共に生活すること)し、貧賤を嫌わないものだ」と言って東方に移り、海浜を耕して生活しました。
数年後、荘公は崔杼の乱によって殺されました。
 
 
次は『晏子春秋・外篇(第七)』からです。
景公は弋(鳥を捕まえる狩り)を好み、燭鄒に捕まえた鳥を管理させていましたが、ある日、鳥が逃げてしまいました。怒った景公は官吏に命じて燭鄒を処刑しようとします。
それを知った晏子が言いました「燭鄒には三つの罪があります。その罪を列挙してから殺すことをお許しください。」
景公が「わかった」と言うと、晏子は景公の前で燭鄒を譴責して言いました「燭鄒よ、汝は我が君のために鳥を管理していたのに、逃がしてしまった。これは一つ目の罪だ。我が君が鳥のために人を殺すことになった。これが二つ目の罪だ。そのことが諸侯に知られたら、諸侯は我が君が鳥を重んじて士を軽んじていると判断するだろう。これが三つ目の罪だ。」
晏子が改めて燭鄒の処刑を求めると、景公はこう言いました「殺すな。寡人は命(忠告)に従おう。」
これと同じような話は『国語・晋語八』にも見られます(附『春秋時代・晋の出来事』参照)
 
 
晏子春秋・内篇諫上(第一)』からです。
斉を大旱が襲い、長い時間が経ちました。そこで景公が群臣に問いました「天が久しく雨を降らせず、民には飢色が現れている。わしが卜いをさせたところ、高山・広水(大川)の祟りと出た。寡人は賦税を少し集めて霊山を祀ろうと思うが、如何だ?」
群臣が黙っている中、晏子が進み出て言いました「いけません。祀っても無益です。霊山はもともと石を身体とし、草木を髪としています。天が久しく雨を降らせなければ、髪は焦げ、身体も熱せられます。なぜ彼が雨を欲しないのでしょう。祀っても益はありません。」
景公が言いました「それならば河伯を祀ろうと思うが、如何だ?」
晏子が言いました「いけません。河伯は水を国とし、魚鱉(魚や亀)を民としています。天が久しく雨を降らせなければ、泉水が無くなり、百川が涸れ、国が亡び、民が滅ぶことになります。なぜ彼が雨を欲しないのでしょう。祠りは無益です。」
景公が問いました「それではどうすればいいのだ?」
晏子が答えました「国君が宮殿を離れて露営し、霊山や河伯と憂いを共にすれば(贅沢な生活を止めれば)、幸を得て雨が降るかもしれません。」
景公は野に出て宿営ました。果たして三日後に大雨が降り、民は農耕を再開できました。
景公が言いました「すばらしい(善哉)晏子の言は用いなければならない。彼こそは徳がある人物だ。」
 
晏子春秋・内篇諫下(第二)』からです。
朝会の後、晏子が景公に言いました「朝廷で厳しすぎるのではありませんか?」
景公が問いました「朝廷で厳しくすることが、国家を治めるにあたって害になるのか?」
晏子が答えました「朝廷で厳し過ぎれば下が無言になります。下が無言になれば、上は意見を聞くことできなくなります。下に言が無いことを『瘖(おし)』といい、上が言を聞けないことを『聾』といいます。『聾瘖』が国家を害さないはずがありません。一升一斗のわずかな食糧が集まって倉廩(倉庫)を満たし、細い糸や太い糸によって幃幕が作られます。大山の高さは一つの石でできているのではなく、小さな石がたくさん集められてその高さになるのです。天下とは一士の言だけを用いて治めるのではありません。もちろん、言を聞きながら用いない場合もあります。しかし最初から拒絶して聞かないというのは誤りです。」
 
 
資治通鑑外紀』はもう一つ晏子が景公を諫める故事を紹介していますが、出典がわかりません。
斉で景公の罪を得た男がいました。激怒した景公はその男を殿下に縛り、近臣を呼んで肢解(四肢を分断して処刑する極刑)を命じ、「諫める者も誅殺する」と宣言しました。
すると晏子が左手で男の頭をつかみ、右手で刀を持って問いました「古の明王・聖主も肢解を行いましたが(肢解の決まりがありました)、臣等にはどこから始めたらいいのか分かりません。」
晏子は景王が明王や聖主になるつもりなのか、暴君になるつもりなのかを試しています。景王自身は明王や聖主になれないことを理解していますが、暴君になるつもりもありません。
景公は席を立つと「彼を放せ。罪は寡人にある」と言いました。
当時、景公が定めた刑罰は多岐にわたり厳格過ぎるほどでした。
ある日、景公が踊を売る者を見ました。踊とは刖(足を切断する刑)を受けた者がつける義足です。
景公が晏子に問いました「(汝)は市の近くに住んでいるから、何が高く何が安いかを把握しているだろう?」
晏子が答えました「踊が高く靴が安くなっています履賤)。」
足が無い者が多いため義足が高くなり、逆に靴が安くなっているという意味です。
景公は晏子の批判を覚り、刑罰を軽くしました
 
 
最後は『晏子春秋・内篇雑上(第五)』からです。
ある日の朝堂のことです。寒い日だったため、景公が傍にいた晏子に言いました「暖食(温かい食物)を持って来てくれ。」
晏子が言いました「嬰(私)は国君に食事を運ぶ侍臣ではありません。」
景公が言いました「裘(毛皮)を持って来てくれ。」
晏子が言いました「嬰は席を重ねる(温める)侍臣ではありません。」
景公が問いました「それでは、夫子(汝)は寡人にとって何者だ?」
晏子が答えました「嬰は社稷の臣です。」
景公が問いました「社稷の臣とは何だ?」
晏子が答えました「社稷の臣とは、社稷を立て(国のために政治を行い)、上下の義(秩序)を分けてそれぞれに理(倫理・道理)を持たせ、百官の序(秩序)を定めてそれぞれに宜(居場所)を持たせ、辞令(文書)を作って四方に発布するものです。」
この後、景公が晏子に会う時は必ず礼を守るようになりました。
 
 
 
次回は穰苴を紹介します。