春秋時代240 東周敬王(九) 呉の政変 前515年(1)

今回は東周敬王五年です。
 
敬王五年
515年 丙戊
 
[] 春、魯昭公が鄆から斉に行き、再び斉から鄆に戻りました。
 
[] 呉王・僚が楚の喪(前年、平王が死にました)に乗じて兵を動かしました。公子・掩餘(または「蓋餘」)と公子・燭庸(どちらも呉王・僚の同母弟。一説では呉王・寿夢の子)が潜(これは『春秋左氏伝』の記述です。『史記・呉太伯世家』では「」になっています)を包囲します。
同時に延州来・季子(季札。元は延陵を邑とし、後に州来も封じられたため、延州来といいます)が上国(中原諸侯)を聘問しました。季札は晋を訪れてから諸侯の態度を観察します。
 
これに対して楚は莠尹(官名。詳細は不明)・然と王尹(王尹は宮内の政務を行う官。または「工尹」)・麇が兵を率いて潜の救援に向かい、左司馬の沈尹・戌が都君子(都邑の士)と王馬の属(王の馬を養う官)を率いて増援しました。
両軍は窮(または「窮谷」)で遭遇し、呉軍の進路が塞がれます。
楚の令尹・子常は舟師を率いて沙汭(楚の東部)に至ってから兵を還しました。
楚の左尹・郤宛と工尹・寿が兵を率いて潜に至りました。呉軍は退路も塞がれてしまい、進退に窮します。
 
その頃、呉国内で王位をねらっている公子・光が言いました「時が来た。機会を失ってはならない。」
以前にも書きましたが、公子・光は王諸樊の子です(『史記・・呉太伯世家』)。王僚は夷末(夷昧)の子で、夷末は諸樊の弟にあたるため、公子・光は王僚に仕えることが不満でした。
ところが、『世本(秦嘉謨輯補本)』には、「寿夢が諸樊、余祭、夷昧及び僚を生み、夷昧が光を生んだ(寿夢生諸樊、余祭、夷昧及僚,夷昧生光)」とあります。一説では「及」が「生」の誤りで、本来は「夷昧が僚と光を生んだ(夷昧生僚,夷昧生光)」が正しいともいいます(『世本・雷学淇校輯本』)
但し、『史記』に書かれているように、諸樊の子と考えるのが一番筋が通っているようです。
 
公子・光は鱄設諸(専諸)にこう言いました「上国(中原諸侯)にはこういう言葉がある『取りに行かなければ得ることはできない(不索,何獲)。』私は王嗣(王の後継者)なので王位を求めるつもりだ。成功すれば季子(季札)が帰国しても私を廃すことはない。」
鱄設諸が言いました「王を殺すことができます。しかし母は年老いており、子も幼弱なので、どうすればいいでしょう(原文「王可殺也,母老子弱,是無若我何。」公子・光に後を託す言葉です)。」
公子・光が言いました「私の身体は汝の身体と同じだ(原文「我,爾身也。」あなたの母や子の面倒は私が自分の家族のように面倒を看るという意味です)。」
 
以上は『春秋左氏伝(昭公二十七年)』の記述です。『史記・刺客列伝』にもこの時の事が書かれています。
公子・光が専諸に言いました「この時を失ってはならない。求めることが無ければ得ることもできない。そもそも、光(私)こそが真の王嗣なのだから、即位して当然だ。季子が帰ったとしても、わしを廃すことはできない。」
この後、専諸が言った言葉が『史記』と『春秋左氏伝』では異なります。『春秋左氏伝』は鱄設諸の母が年老いて子も幼いため、「老子弱,是無若我何」と言って公子・光に後を託しました。しかし『史記』は「王僚の母が老いており、その子はまだ幼い」と解釈して、こう書いています「王僚は殺すことができます。その母は年老いており、子も幼く、二人の弟も兵を率いて楚を攻めましたが、楚に退路を絶たれました。今の呉は、外は楚のために困窮し、内には骨鯁(実直。直言)の臣がいないので、我々をどうすることもできません王僚可殺也。老子弱,而両弟将兵伐楚,楚絶其後。方今呉外困於楚,而内空無骨鯁之臣,是無如我何)
公子・光が頓首して言いました「光の身は子(あなた)の身と同じだ(光之身,子之身也)
史記』の解釈では、専諸が王僚を殺すことができると言った後に、公子・光が専諸の死後の面倒を見る約束をしています。前後の会話が噛み合っていないようなので、『春秋左氏伝』の解釈が正しいと思われます。
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
夏四月、公子・光が甲兵を堀室(地下室)に隠して呉王・僚を宴に招きました。
呉王は王宮から公子・光の家の門に至るまで、道の両側に甲士を坐らせて警護を強化し、公子・光の家の門も階段も戸も座席も全て王の親兵で埋めさせました。王の両側は鈹(短剣)も持った兵が警護します。
羞者(料理を運ぶ者。「羞」は料理を進めるという意味)は門の外で裸になってから服を換え、膝で歩いて王の前まで進みます。鈹を持った兵が左右から羞者に鈹を向けており、刃先が身体に刺さりそうなほどでした。羞者が王の前まで来たら、王の左右の者が料理を受け取ります。
公子・光は途中で足の疾(不調。怪我)を偽って堀室に入りました。
暫くして、鱄設諸が炙魚をもって王に近づきました。魚の中に匕首短剣)を隠しています。二人の兵に鈹を向けられる中、鱄設諸は王の前まで進むと、突然、魚の中から匕首を抜き出して王を刺しました。それと同時に左右の兵が鈹を鱄設諸の胸に刺します。
呉王・僚も鱄設諸もその場で死にました。呉王・僚の在位年数は十二年になります。
 
こうして公子・光が即位しました。闔廬(闔閭)といいます。
闔廬は鱄設諸との約束を守り、その子を卿(『春秋左氏伝』では「卿」。『史記・刺客列伝』では「上卿」。『資治通鑑外紀』では「客卿」)にしました。
 
季札が帰国して言いました「先君の祭祀を廃さず、民人(国民。百姓)がその主を廃さず、社稷を奉じて国も家も傾くことが無いのなら、それは我が君である。私が誰かを怨むことはない。死者(呉王・僚)を哀れみ生者(闔廬)に仕え、天命を待とう。私が乱を起こしたのではない。即位した者に従うのが先人の道だ。」
季札は呉王・僚の墓で哀哭してから朝廷に帰り、元の官職のまま闔廬の命を受けました。
 
楚に出兵した呉の公子・掩餘は徐に、公子・燭庸は鍾吾に奔りました。
楚は呉の乱を聞いて脅威が去ったと判断し、兵を退きました。
 
[] 楚の大夫・郤宛は実直かつ温和だったため、国人に愛されていました。
しかし右領(官名)・鄢将師が費無極と結んで郤宛と対立します。
 
令尹・子常は賄賂を貪り讒言を容易に信じたため、費無極が子常に言いました「子悪(郤宛)が子(あなた)を酒宴に誘おうとしています。」
一方の郤宛にはこう言いました「令尹が子(あなた)の家で酒を飲みたいようです。」
郤宛が信じて言いました「私は賤人(身分が低いこと)なので、令尹に足を運ばせることはできません。もし令尹が本当に来るというのなら、それは大きな恩恵です。しかし私には酬(報献。礼品)とする物がありません。どうすればいいでしょう?」
費無極が言いました「令尹は甲兵(甲冑・武器)が好きです。子(あなた)が準備できるようなら、私が代わりに選びましょう。」
郤宛は甲冑と武器を準備し、五つの甲冑と五つの武器が選ばれました。
費無極が郤宛に言いました「これを門に置いておけば、令尹があなたの家を訪問した時、必ず目に止まります。その機会を使って献上すればいいでしょう。」
 
饗宴の日になりました。郤宛は門の近くの帷に甲冑と武器を置いて子常を待ちます。
ところが費無極が子常にこう言いました「私は子(あなた)を害してしまうところでした。子悪は子の不利(暗殺)を企んでおり、甲(甲冑)が門に置かれています。子は行ってはなりません。前回の役(潜の役)において、本来、楚は呉に対して志を得ることができました(本来は呉を破ることができました)。しかし子悪は呉から賄賂を受け取ったので、兵を引き返して他の将帥も誤らせました。こうして楚師が退くことになったのです。彼は『乱に乗じるのは不祥だ』と言いましたが、呉が先に我々の喪に乗じて兵を出したのです。我々が呉の乱に乗じて何が悪いのでしょう。」
子常が人を送って郤氏の家を確認させると、武器が置いてありました。
子常は費無極の讒言を信じ、鄢将師を召して状況を話します。子常の話を聞いた鄢将師はすぐに郤氏討伐を組織し、人を送って郤氏の家に放火するように命じました。
それを知った郤宛は自殺しました。
 
郤氏の家に集まった人々は、なかなか火をつけようとしません。そこで鄢将師が言いました「郤氏の家に火をつけない者は、郤氏と同罪とみなす。」
しかし人々は火をつけるために用意された菅(白華。植物の名)(稲草)を運び去って棄ててしまいました。
鄢将師は民衆を使うのをあきらめ、里尹に命じて火を放たせました。郤氏の族党が全滅します。
 
陽令終(陽の子)とその弟・陽完、陽佗、および大夫・晋陳とその子弟も殺されました。全て郤宛と親しかったからです。
晋陳の家族が国都で叫んで言いました「鄢氏と費氏は王のようにふるまっており(当時、昭王は八歳前後だったため、近臣が専横していました)、専権して楚国に禍乱をもたらした。彼等は王室を衰退させ、王と令尹を欺いて自分の利を求めている。しかも令尹は彼等を全て信じている。国はどうなってしまうのだろう。」
子常は国人の離心を知って不安になりました。
 
 
 
次回に続きます。