春秋時代242 東周敬王(十一) 祁氏と羊舌氏の滅亡 前514年(1)

今回は東周敬王六年です。二回に分けます。
 
敬王六年
514年 丁亥
 
[] 春三月、曹が前年死んだ悼公を埋葬しました。
 
[] 斉景公が魯昭公を軽視したため、昭公は晋に向かい、乾侯(斉と晋の国境。晋の邑)に入りました。
そこで昭公は晋に使者を送ることにしました。晋に入国する際の出迎えを求めるためです。
子家羈が昭公に言いました「人に援けを求めるのに安息の地にいたら(三年も斉の地で平穏に生活していたら)、誰が同情するでしょう。魯と晋の国境に向かうべきです(斉から直接晋に行くべきではありません)。」
しかし昭公は進言を聞かず、晋に使者を送って出迎えを請いました。
 
晋頃公が言いました「天が禍を魯国に降し、その国君は国外に亡命することになったのに、魯君は一人の使者も寡人に送ることなく、甥舅(婚姻関係の者。斉国)の下で平穏に暮らしていた。その魯君のために(斉に)出迎えの使者を出せというのか?」
晋は魯昭公を魯の国境まで退き返らせてから、改めて昭公を出迎える使者を送りました。
昭公は再び乾侯に戻ってそこに住むようになりました。
 
以上は『春秋左氏伝(昭公二十八年)』の記述です。『史記』の『十二諸侯年表』『魯周公世家』も魯昭公二十八年に書いていますが、『晋世家』は晋頃公九年(三年前。本年は頃公十二年)の事としています。
また、『魯周公世家』の記述は『春秋左氏伝』と少し異なります。以下、『魯周公世家』の記述です。
魯昭公二十八年昭公が晋に行き、帰国の協力を求めました。しかし魯の季平子が秘かに晋の六卿と通じており、六卿季氏の賄賂を受け取っていたため、晋を諫めました。晋昭公の帰国に協力せず、乾侯に住ませました
 
[] 晋の祁勝と鄔臧(二人とも祁盈の家臣。祁盈は祁傒の孫で祁午の子)が通室しました。「通室」というのは、妻を換えて姦通すること、または同室で淫行を行うことです。
それを知った祁盈が二人を捕えようとしました。事前に司馬叔游(司馬叔侯の子)に相談します。すると司馬叔游はこう言いました「『鄭書(鄭国の古書)』にこうあります『実直な者を嫉妬して嫌う者は実に多い(悪直醜正,実蕃有徒)。』無道の者が位にいるので、子(あなた)は禍から逃れられないでしょう。『詩(大雅・板)』にもこうあります『民には邪が多い。自分は邪に陥らないようにしよう(邪に関わらないようにしよう。「民之多辟,無自立辟」)。』今は二人を捕えない方がいいでしょう。」
しかし祁盈は「祁氏の家臣を討つのだ。国には関係ない」と言って二人を捕えました。
 
逮捕された祁勝が荀躒に賄賂を贈ったため、荀躒は祁勝を助けるように晋頃公に進言しました。
頃公は祁盈を逮捕します。
それを知って祁盈の臣が言いました「いずれにしても(祁盈は)殺される。それならば我が君(祁盈)に祁勝と鄔臧の死を伝えて喜ばせた方がいい。」
祁勝と鄔臧は祁盈の臣に殺されました。
 
夏六月、晋が祁盈と楊食我を殺しました。楊食我は叔向の子・伯石で、楊は食邑です。羊舌氏なので羊舌食我ともいいます。
楊食我は祁盈と親しくしていたため、祁盈の乱を助けたとみなされました。
こうして祁氏と羊舌氏が滅ぼされました。
二族の邑は県に分けられ、六卿のが各県の大夫に封じられました(後述)晋公室はますます衰弱し、六卿がそれぞれ強大化します
 
かつて叔向は申公・巫臣と夏姫の間にできた娘を娶ろうとしました。しかし叔向の母は自分の親族の娘を娶らせたいと思っていました。楊伯峻の『春秋左伝注』によると、母は「羊舌姫」「叔姫」等とよばれており、姫姓です。叔向もその父も晋の公族出身なので本姓は姫です。叔向の両親は同姓結婚をしていたことになります。当時の礼では同姓は結婚できないはずですが、この頃は禁忌が緩くなっていたのかもしれません。
叔向が母に言いました「私は母が多いのに庶子は多くありません。私は舅氏(母側の親戚)を懲(戒め。教訓。鑑)としたいです(父には妾がたくさんいたのに、子があまりできませんでした。母の一族は子に恵まれない家系のようです。母の親族と結婚する気はありません)。」
母が言いました「子霊(巫臣)の妻(夏姫)は三夫(二人は子蛮と御叔。三人目は恐らく巫臣。巫臣は夏姫より先に死んだのかもしれません)、一君(陳霊公)、一子(夏徴舒)を殺し、一国(陳)を滅ぼし、二卿(公寧と儀行父)を亡命させました。これを懲(戒め)としなくていいのですか?『甚だしい美には甚だしい悪がある(甚美必有甚悪)』といいます。彼女は鄭穆公の少妃・姚子の子で、子貉(鄭霊公)の妹でしたが、子貉は早く死に(公子・帰生に殺されました)、後嗣が途絶えたので、天はその美を彼女に集めました。彼女によって事が敗れるのは当然でしょう。昔、有仍氏が産んだ娘は黰(髪)が黒くて美しく、鑑のように輝いていたので『玄妻(玄は黒の意味です)』とよばれました。後に楽正の后夔が彼女を娶って伯封を産みましたが、伯封は豕心(豚のような心)を持ち、貪婪に限りなく、暴虐に底がなく、『封豕(封は大きいという意味です)』とよばれました。しかし有窮氏の后羿がこれを滅ぼしたため、夔は祭祀が継承されなくなったのです。三代(夏・商・西周の滅亡も共子(晋献公の太子・申生)が廃されたのも、全てこの物(美色)が原因です。汝はそのような者を娶ってどうするのですか。尤物(優れた物。美女)を得たら人は変わるものです。徳と義をもたない者がそれを自分のものにしたら、必ず禍が起きます。」
叔向は恐れてあきらめようとしましたが、晋平公が強制して結婚させました。こうして生まれたのが伯石(楊食我)です。
 
伯石が産まれた時、子容の母(伯華の妻。叔向の嫂)が叔向の母に会いに行ってこう言いました「長叔姒が男児を生みました。」
長叔は一番大きい弟を指します。ここでは伯華の弟・叔向です。兄弟の妻を姒・娣といい、年長者が姒、年少者が娣です。向叔は伯華の弟ですが、妻(夏姫の娘)は伯華の妻より年上だったことが分かります。
叔向の母が見に行って堂まで来た時、赤子の泣き声が聞こえました。母は引き返して言いました「あの声は豺狼の声のようです。狼のような子には狼のような野心があります。羊舌氏の宗族を滅ぼすのは、あの子に違いありません。」
 
[] 夏四月丙戌(十四日)、鄭定公が在位十六年で死に、子の献公・蠆が立ちました。
史記・鄭世家』は定公の在位年数を十三年としていますが誤りです。
 
六月、鄭が定公を埋葬しました。
 
 
 
次回に続きます。