春秋時代243 東周敬王(十二) 晋の魏舒 前514年(2)

今回は東周敬王六年の続きです。
 
[] 秋、晋の韓起(韓宣子)が死に、子の韓須(韓貞子、または「平子」)が継ぎました。『史記・韓世家』によると、韓貞子は拠点を平陽に移しました。
韓起が死んだので、晋の政治は魏舒(魏献子)が行うことになりました。『史記・魏世家』には魏献趙簡子趙鞅中行文子荀寅范吉射が並んで晋になったとあります。
 
魏舒は祁氏の田(土地)を七県(鄔・祁・平陵・梗陽・塗水・馬首・盂)に、羊舌氏の田を三県(銅鞮・平陽・楊氏)に分け、司馬彌牟を鄔大夫(大夫は邑長の意味です)に、賈辛を祁大夫に、司馬烏(司馬督)を平陵大夫に、魏戊(魏舒の子)を梗陽大夫に、知徐吾(荀盈の孫、荀躒の子)を塗水大夫に、韓固(韓起の孫)を馬首大夫に、孟丙(または「盂丙」)を盂大夫に、楽霄を銅鞮大夫に、趙朝(趙勝の曾孫)を平陽大夫に、僚安を楊氏大夫に任命しました。
賈辛と司馬烏は王室に対して力を尽くし(東周景王二十五年・前520年、即位したばかりの敬王を助けて兵を指揮しました)知徐吾、趙朝、韓固、魏戊は四卿の餘子(嫡子以外の子。嫡子の弟および庶子でありながら職責を失うことがなく家業を守ったため、それぞれ邑大夫に選ばれました。
司馬彌牟、孟丙、楽霄、僚安は元々邑の政務を行っており、魏舒がその能力を認めたため、邑大夫に任命されました。
 
魏舒が大夫・成鱄に問いました「私は戊(魏戊。魏舒の庶子に県を与えたが、人はそれを私心によるものだと思うだろうか。」
成鱄が言いました「なぜですか。戊の人となりは、遠くは国君を忘れることなく、近くは同僚に強要することなく、利がある場所にいても義を想い、約(困窮)にあっても純を忘れず(苦難に陥っても悪を行わず)、守心(善を守る心)を持ち淫行が無いので、県を与えても問題ありません。昔、武王が商に勝って広く天下を有した時、十五人の兄弟が国を与えられ、四十人の姫姓の者が国を与えられました。全て家族親戚です。人材の抜擢に他の条件はありません。善がある者を選ぶべきであり、親しい者も疎遠な者もその条件は同じです。『詩(大雅・皇矣)』にはこうあります『ただ文王だけは上帝がその心を察する。徳音(名声)が広く伝わり、その徳は物事の是非を判断する。是非を判断して善悪を分けたから、長となり君となる。この大国の王となり、民を帰順させて懐柔する。文王のようになれたら、その徳を後悔することはない。上帝の福を受け、子孫に恩恵が施される(唯此文王,帝度其心。莫其徳音,其徳克明。克明克類,克長克君。王此大国,克順克比。比于文王,其徳靡悔。既受帝祉,施于孫子。』心が義に合うように制御できることを『度』といい、徳が正しくて反応が和していることを『莫(静寂なこと。国に乱が無い状態)』といい、四方を照らすことを『明』といい、施しに勤めて私心がないことを『類(物が偏ることなく、あるべき場所に帰属している状態。善悪・是非・有無の分類がはっきりしている状態)』といい、教誨して倦まないことを『長(教え諭し、訓戒するのは長者の道なので「長」です)』といい、賞慶刑威(賞罰をはっきりさせて威信を示すこと)を『君(刑罰は国君の職なので「君」です)』といい、慈和徧服(慈心と和心によって広く帰服させること)を『順』といい、善を選んで従うことを『比(従う)』といい、経緯天地を『文』といいます。この九徳(度・莫・明・類・長・君・順・比・文)を誤らなければ、事を行って悔いることなく、子子孫孫が天禄(福)を受け継いでそれに頼ることができます。主の人選は文徳(文王の徳)に近づいたので、遠くまで影響を与えることができるでしょう。」
 
賈辛が祁県に出発する時、魏舒に会いに行きました。
魏舒が言いました「かつて叔向が鄭に行った時、容貌が劣る鬷蔑(人名。「鬷明」。または「然明」)が叔向に会いたいと思った。そこで、鬷蔑は器(食器)を片づける者について堂下に行き、立ったまま叔向に一言話した。すると酒を飲もうとしていた叔向はその言葉を気に入り、『鬷明であろう』と言って堂下に行くと、その手を取って堂上に戻り、こう語った『昔、賈大夫は容貌が優れなかったが、美しい妻を娶った。しかし妻は(醜い賈大夫を好きになれなかったため)三年も話さず、笑わなかった。ある日、賈大夫は妻を御して皋沢に狩りに行った。賈大夫は矢を射て雉を仕留めた。それを見た妻が始めて笑顔を見せて話しをした。賈大夫はこう言った「才とは無くてはならないものだ。私に矢を射る才がなかったら、汝が話したり笑ったりすることもなかっただろう。」今、子(あなた。鬷蔑)の容貌は優れているとはいえない。だから何も言わなければ子を失うことになっていただろう。言葉とは発さなければならない。(賈大夫の弓の才能と)同じことだ。』その後、二人は旧友のように親しくなった。私が汝(賈辛)を抜擢したのは、汝が王室に対して力を尽くしたからだ。行きなさい。恭敬でありなさい。汝の功績を損なってはならない(汝も鬷蔑や賈大夫のように能力がある。それを発揮しなければならない)。」

後に仲尼孔子が魏舒の人材抜擢について義(道義)に則っていると評価し、こう言いました「近くは親族を失わず、遠くは賢才を失わない。これは義というべきだ。」
また、賈辛への命(言葉)を聞いて忠であると評価し、こう言いました「『詩(大雅・文王)』にこうある『永く天命に符合できれば、自ら多福を求めることができる(永言配命,自求多福)。』これは忠である。魏子の挙(人材の抜擢)は義であり、命(賈辛への言葉)は忠なので、その後代は晋で長く栄えるだろう。」
 
祁氏と羊舌氏が滅ぼされてその邑が十県に分けられた出来事を『史記・晋世家』はこう書いています。
「晋の宗家である祁傒の孫祁盈)叔向の子楊食我)は共に国君から嫌われていた。六卿は公室の力を弱くするため、法によってその族を滅ぼし、その邑を十県に分け、それぞれの子を大夫に任命した。晋公室はますます弱くなり、六卿が全て大きくなった。」
 
[] 七月癸巳(二十三日)、滕子・寧(悼公)が死に、子の頃公・結が立ちました。
 
冬、滕が悼公を埋葬しました。
 
[] 晋の梗陽の人が訴訟を起こしましたが、魏戊では解決ができなかったため、魏舒に報告しました。
訴訟の一方の当事者である大宗が女楽を賄賂として贈り、魏舒が受け取ろうとしました。
それを知った魏戊が晋の大夫・閻没(または「閻明」)と女寬(または「叔寛」)に言いました「主は賄賂を受けないことで諸侯に名が知られている。もし梗陽の女楽を受け入れたら、これ以上大きな賄賂は無い。吾子(あなた達)に諫めてほしい。」
二人は同意しました。
 
後日、二人は魏氏の屋敷に行き、庭で魏舒の退朝(朝廷から帰ること)を待ちました。魏舒が帰って食事の準備が始まると、二人が魏舒に招かれます。二人は招きに応じましたが、料理が並べられると三回嘆息しました。
食事が終わってから、魏舒は二人を坐らせてこう問いました「諸伯叔(伯父・叔父)からこういう諺を聞いたことがある『食事の時だけは憂いを忘れることができる(唯食忘憂)。』しかし吾子(汝等)は料理が置かれてから三回も嘆息した。それはなぜだ?」
二人が言いました「ある人が我々二人の小人に酒を贈り、昨晩は食事をしていません(酒を贈られたことと食事をしていないことの因果関係がよくわかりません。原文「或賜二小人酒,不夕食」)。とても飢えていたので、食事が始まるまでは足りないことを心配して嘆息しました。しかし途中で『将軍(中軍の師)が誘った食事が足りないはずはない』と思い直し、自分を咎めて再び嘆息しました。料理が全てそろった時、小人の腹を君子(魏舒)の心のように変えて、ちょうど足りればそれで満足できるようになりたいと思い(私たちの腹を君子の心のようにさせたい、貪欲な腹を直したいと思い)三回目の嘆息をしました。」
魏舒は梗陽の賄賂を拒否しました。
 
[] 『資治通鑑外紀』によると、この年、呉王・闔廬が伍子胥を召して行人(外交官)に任命し、共に国事を謀るようになりました。
伍子胥は、呉王・僚の在位中は在野で農耕に従事していましたが、闔廬が即位したため、政治に参加して楚への復讐を実現させるようになります。
 
[] 『資治通鑑外記』はここで呉の要離が王子・慶忌を暗殺する故事を紹介しています。『呂氏春秋・仲冬紀』と『呉越春秋』に詳しく書かれていますが、『春秋左氏伝』によると慶忌は東周元王元年(前475年)に呉王・夫差(闔廬の子)によって殺されるので、要離の故事は史実ではないともいわれています。
呂氏春秋』と『呉越春秋』の要離の故事は別の場所で紹介します。
 

 
次回に続きます。