春秋時代244 東周敬王(十三) 晋の龍 前513年(1)

今回は東周敬王七年です。二回に分けます。
 
敬王七年
513年 戊子
 
[] 春、魯昭公が晋の乾侯から鄆に戻りました。晋頃公に会うことができなかったからです。
斉景公が高張を派遣して昭公を慰問しました。この時、斉は魯昭公を「主君」と称しました。楊伯峻の『春秋左伝注』によると、当時の「主君」は卿大夫の家臣が卿大夫を呼ぶ時の名称なので、魯昭公は斉の卿大夫という扱いになったことを意味します。
 
魯の子家羈(子家懿伯。子家子)が言いました「斉は主公を貶めています。主公は恥を受けるだけです。」
昭公は斉を去って再び乾侯に行きました。
 
[] 三月己卯(十三日)、周の京師で敬王が召伯・盈、尹氏・固および原伯・魯の子を殺しました。全て王子朝の党です。
 
尹氏・固は東周敬王四年(516)に楚に出奔しましたが、すぐ周に引き返しました。その時、周の郊外で一人の婦人に遭いました。婦人は尹氏を譴責して言いました「国にいる時は人に禍を勧め、行動を起こしたら(出奔したら)数日で帰ってきましたが、このような人が三年も活きることができますか。」
ちょうど三年経った今年、誅殺されました。
 
[] 夏四月庚子(初五日)、魯の叔詣(叔倪)が死にました。
 
[] 五月庚寅(二十五日)、周の王子趙車(王子朝の余党)(周の邑)に入って挙兵しました。召伯・盈等が成周で殺されたためです。しかし敬王の大夫・陰不佞が王子趙車を敗りました。
 
[] 秋、龍が晋都・絳の郊外に現れたといいます。
 
晋の魏舒(献子)が大史(太史)・蔡墨(史黯。蔡が姓、墨が名、黯が字)に問いました「蟲の中で龍ほど知(智)があるものはないという(当時は龍や蛇も虫の一種と考えられていました)。龍は捕まえることができないからだ。これは本当だろうか?」
蔡墨が言いました「人に知が無いのであり、龍の知が優れているのではありません。古は龍を飼う者がいました。だから国内に豢龍氏や御龍氏がいたのです(「豢」と「御」は養うという意味です)。」
魏舒が言いました「その二氏は私も聞いたことがあるが、由来を知らない。」
蔡墨が説明しました「昔、飂叔安(飂は国名。叔安は国君の名)の裔子(後裔)に董父という者がおり、龍を愛しました。龍が好む物を知って飲食させたので、多数の龍が董父の周りに集まります。董父はそれらの龍を飼い馴らして帝舜に仕えました。後に帝は董という姓を与え、氏を豢龍とし(豢龍は本来官名です。子孫が官名を氏にしました)、鬷川に封じました。鬷夷氏は彼の後代です。このように、帝舜氏の世には龍が養われ、後世に伝えられました。
夏朝になると、孔甲が帝(上帝)服従したので、帝は乗龍(車を牽く龍)を与えました。河・漢黄河の龍と漢水の龍)各二頭で、それぞれに雌雄がいます(『史記』等では、孔甲は夏王朝を衰退させた王としているので、蔡墨の言と異なります)。しかし孔甲は龍を養うことができず、豢龍氏を探し出すこともできませんでした。当時、陶唐氏(帝堯の子孫)は既に衰退していましたが、その子孫の劉累が豢龍氏に龍の飼い方を学びました。その劉累が孔甲に仕えたので、やっと龍を養うことができました。夏后(夏王)は劉累を嘉して御龍という氏を与え、豕韋祝融の子孫と代わらせました。やがて雌の龍が一頭死にました。劉累は秘かに醢(しおから)を作り、夏后に献上します。夏后はそれを食べてから、(美味だったため)更に多くの醢を求めました(孔甲は死んだ龍の肉だとは知りません)。劉累は恐れて魯県に逃げました(龍の肉を献上できず、また、龍が死んだことが発覚するのを恐れたためです)。范氏は彼の後裔にあたります。」
魏舒が問いました「今、(龍を飼う者が)いないのはなぜだ?」
蔡墨が答えました「物には全て管理する官があり、官員は朝から夜まで方法を考えています。一度職責を失ったら、命に関わります。官を失ったら食(俸禄)もありません。官員が代々自分の業を守れば、物が集まります。もしもそれを棄てたら、物は潜伏し、鬱屈して成長できなくなります。だから五行の官があるのです。これを五官といい、代々氏姓を受け継ぎ、上公に封じられ、(死後は)貴神として祭祀が行われます。社稷(土地神と穀物の神)と五祀(五行の神の祭祀)において、彼等は尊崇される存在になります。木正(木官の長)は句芒といい、火正は祝融といい、金正は蓐收といい、水正は玄冥といい、土正は后土といいます。龍は水の物なので、水官が廃されたら龍も捕まえられなくなります。
周易』にいろいろな言葉が残されています。『乾之姤』には『潜った龍は使えない(潜龍勿用)』とあり、『同人』には『龍を田で見る(見龍在田)』とあり、『大有』には『飛龍が天にいる(飛龍在天)』とあり、『夬』には『直龍が悔いる(亢龍有悔)』とあり、『坤』には『龍の群れを見て首領がいなければ吉(見群龍無首,吉)』とあり、『坤之剝』には『龍が野で戦う(龍戦于野)』とあります。もし朝も夜も龍を見ることができなかったら、どうしてその形を述べることができたのでしょう(龍が存在しなかったら、『易』にこのような記述が残されるはずがありません。水官が廃されて龍を飼えなくなったから、龍が潜むようになったのです)。」
魏舒が問いました「社稷と五祀は何氏(どの帝)の五官だったのだ?」
蔡墨が答えました「少皞氏には四人の叔父がいました。重・該・修・熙といい、金、木と水を管理しました。重が句芒、該が蓐收、修と熙が玄冥で、代々職責を失うことなく、窮桑(少皞の邑)を助けて成功に導きました。これが三祀です。顓頊の子・犂は祝融になり、共工氏の子・句龍は后土になりました。これが二祀です。后土は社(土地神)になりました。稷(五穀の神)は田正(土地の長)です。かつて烈山氏炎帝の子・柱が稷になり、夏代以前は彼を祀っていました。しかし周の棄(弃。周王朝の始祖)も稷になったので、商代以降は棄が祀られるようになりました。」
 
 
 
次回に続きます。