春秋時代246 東周敬王(十五) 晋頃公の死 前512年

今回は東周敬王八年です。
 
敬王八年
512年 己丑
 
[] 春正月、魯昭公は晋の乾侯にいます。
 
[] 夏六月庚辰(二十二日)、晋頃公が在位十四年で死にました。子の午が継ぎます。これを定公といいます。
晋の公室はますます弱くなり、六卿范氏、中行氏、智氏、韓氏、魏氏、趙氏)の勢力が拡大しました。
 
秋八月、頃公が埋葬されました。
鄭の游吉が晋を弔問し、送葬に参加します。
すると晋の魏舒(魏献子)が士彌牟(士景伯。士伯)を派遣して游吉を詰問しました「悼公の喪では子西が弔問し、子蟜(子産)が送葬した(魏舒は述べていませんが、平公の喪でも游吉が弔問し、罕虎が葬送しました。晋の国君は悼公、平公、昭公、頃公と継承されています)。今回、吾子(あなた)の他に誰もいないのはなぜだ?」
游吉が答えました「諸侯が晋君に帰順しているのは、晋に礼があるからです。礼というのは、小国は大国に仕え、大国は小国を撫愛するものです。大国に仕える時は、恭しく時命(時に応じた命。弔問・葬送を含みます)に従わなければならず、小国を撫愛する時は、小国に欠けたものを憐れまなければなりません。敝邑は大国の間にありながら、職貢(賦税。貢物)を献上して不虞(不測)の患を防ぐ備えを提供しています。共命(恭しく時命に従うこと)を忘れることがあるでしょうか(晋に貢物を贈り、労役の義務を果たすことも忘れないのに、弔問・葬送を忘れることはありません)。先王の制によると、諸侯の喪は士が弔問して大夫が送葬し、ただ嘉好(朝見)、聘享(聘問)、三軍(戦争)の事だけは卿が参加することになっています。晋の喪事では、敝邑に余裕があれば、先君が紼(霊柩を牽く縄)をとったこともありました(鄭君自ら晋君の葬送に参加したこともありました。いつの事かは分かりません)。しかし余裕がなければ、士や大夫であっても礼を守ることは困難です(派遣することはできません)。大国の恩恵とは、小国が善を加えたら嘉し(大夫や士を越えて国君や卿が弔問・葬送に参加したら称賛し)、その不足(礼が足りないこと)を譴責せず、その情(小国の忠心)を明察し、儀礼が備わるように要求するだけで礼となります。霊王(周)の喪においては、我が先君・簡公が楚にいたため、先大夫・印段が周に行きました。彼は敝邑の少卿に過ぎませんでしたが、王吏(周王室の官員)は譴責しませんでした。これは我々の不足を哀れんだからです。しかし今、大夫はこう言いました『汝はなぜ旧例に従わない。』今までも豊(礼を越えた状況)と省(礼を省いた状況)がありました。今回こう言われましたが、我々は何に従えばいいのか分かりません。豊に従うとしたら、寡君はまだ幼弱なので実行できません。省に従うとしたら、吉が既にここにいます。大夫はよくお考えください。」
晋人は返す言葉がありませんでした。
 
[] 呉王・闔廬(闔閭)が徐人に掩餘を、鍾吾人に燭庸を捕えるように命じました(東周敬王五年・前515年参照)。二公子(掩餘と燭庸)は楚に奔ります(『史記・楚世家』は「三公子」と書いていますが誤りです)
 
楚昭王は二人に広い土地を与え、その徒衆を定住させることにしました。監馬尹・大心を派遣して二公子を迎え入れ、養(邑名)に住ませます。
また、莠尹・然と左司馬の沈尹・戌に命じて養に城を築かせ、城父(養東北)と胡田(養東南)の地を割いて与えました。二公子は呉にとって脅威になりました。
 
子西(昭王の庶長兄)が昭王を諫めて言いました「呉光(呉王・光。闔廬)は新たに国を得たばかりですが、民と親しみ、民を我が子のようにみなして辛苦を共にしています。これは民を使おうと思っているからです。呉の辺境と関係を改善して柔服させたとしても、呉師が攻めて来る恐れがあるというのに、わざわざ呉の讎(二公子)を強大にして怒りを重ねさせるのは相応しくありません。呉は周の冑裔(後裔)ですが、海浜に棄てられたため、姫姓(中原の姫姓の国)とは通じていません。それでも最近になって強大化し、諸華(中原諸国)にも匹敵するようになっています。また、呉光は文(知識。見識)があり、先王(周の祖。古公亶父や王季。西戎に属していた周を中原に匹敵する国にしました)と等しくなろうとしています。天が呉光を暴虐な国君とし、呉国を滅亡させて異姓の国を大きくするつもりなのか、最後まで呉の祚(福)を守るつもりなのかは分かりませんが、もうすぐ結果が出るはずです(呉が衰弱するか更に大きくなるか、もうすぐわかるはずです)。我々はとりあえず我々の鬼神を安んじ、我が族姓(国民)を安定させ、呉の動向を見守るべきです。自ら苦労を招く必要はありません。」
昭王は諫言を聞き入れませんでした。
楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この時、昭王はまだ十一歳前後です。
 
以上は『春秋左氏伝』の記述です。『史記・呉太伯世家』は少し異なります。以下、『史記』を元に書きます。
公子・光(闔廬)が王僚を殺して即位した時(東周敬王五年・前515年)、蓋餘(掩餘)と燭庸が楚に出奔しました。楚は二人を舒に封じました。
王闔廬元年(敬王六年・前514年)、闔廬が伍子胥行人に抜擢して共に国事を図るようになりました。また、伯州犂を誅殺してからその伯嚭が呉に逃亡したため。呉は伯嚭を大夫にしました(これに関しては東周敬王十四年 前506年に再述します)
闔廬三年(敬王八年・前512年。本年)、闔廬と伍子胥、伯嚭を攻撃し、を攻略して呉から亡命した二公子を殺しました。
 
[] 楚の動きを知った呉王・闔廬は憤激しました。
冬十二月、闔廬はまず鍾吾子(または「鐘呉子」。鐘吾の主)を捕えました。
その後、徐国を攻撃します。山上の水を溜めて徐国に流しました。
己卯(二十三日)、徐が滅びました。
徐子・章羽(または「章禹」)は髮を切り、夫人と共に闔廬を迎え入れます。髪を切ったのは呉の風俗に倣ったからです。
闔廬は徐子を慰労してから送り返し、その邇臣(近臣)も徐子に従うことを許しました。徐子一行は楚に奔ります。
楚の沈尹・戌が徐救援に向かっていましたが、間に合わなかったため、夷(城父)に城を築いて徐子を住ませることにしました。
 
[] 呉王・闔廬が伍員伍子胥に聞きました「以前、汝が楚討伐を語った時(東周景王二十三年・前522年)、余は成功すると知っていたが、余は自分が出征を命じられることを心配し(当時は呉王・僚の時代です)、また、人(呉王・僚)が余の功績を奪うことを嫌った(だから反対した)。しかし今、(王・僚がいなくなり、自分が即位したから)余が自分の功績にできるようになった。楚を討とうと思うがどうだろう?」
伍員が答えました「楚は執政(政治を行う者)が多いものの互いに和さず、責任を負おうという者もいません。三師を組織して肄しましょう(急襲と退却を繰り返しましょう)。呉の一師が楚に至ったら彼等は全軍を出陣させます。彼等が出てきたら我々は還り、彼等が還ったらまた撃って出れば、楚は道上を奔走することになり、疲弊していきます。肄によって疲弊させ、あらゆる方法で彼等の失策を誘い、彼等が衰弱してから三軍を用いて総攻撃をかければ、必ず大勝できます。」
闔廬はこの意見に従いました。
この後、楚は呉の攻撃に悩まされ、衰弱していきます。
 
以上は『春秋左氏伝(昭公三十年)』の記述です。
史記・呉太伯世家』を見ると、呉王・闔廬が楚都・郢を攻撃しようとしましたが、将軍・孫武が「民が疲弊しているので、今は待つべきです」と言って反対したと書かれています。
資治通鑑外紀』は『史記』の記述を元にしており、呉王・闔廬が伍子胥、伯嚭と楚討伐を謀ったところ、孫武が時期尚早として反対したと書いています。
 
孫武に関しては『呉越春秋』と『史記』に記述があります。別の場所で紹介します。

[] 『資治通鑑外紀』はここで『説苑・権謀』から斉景公と呉の関係を述べた故事を紹介しています。
斉景公は自分の娘を呉王・闔廬に嫁がせることにして、郊外まで送りました。景公が泣いて言いました「余は死ぬまで娘に会えなくなる。」
高夢子(恐らく「高昭子」。高張)が言いました「斉は海を背にし、山に囲まれています。天下を治めることができないとしても、誰が我が君を侵そうとするでしょうか。別れたくないのなら行かせるべきではありません。」
景公が言いました「余には堅固な斉国があるが、諸侯に号令することができず、また諸侯の命を聞くこともできない。これは乱の元になるだろう。人に命じることができないのなら、人に従った方が良いという。そもそも、呉という国は蜂蠆(蜂やさそりのように毒をもつ虫)と同じだ。蜂蠆は人に毒を吐かなければ静かにならない。余はその毒が我が国に及ぶことを恐れるのだ。」
景公は娘を呉に送りました。
 
 
 
次回に続きます。