春秋時代 孫武

本編で兵法家・孫武が登場しました。
孫武の仕官に関して『呉越春秋』と『史記』に記述がありますが、内容が異なります。
まずは『呉越春秋・闔閭内伝(第四)』から要訳します。
子は呉人で、名を武といいます。兵法に精通していましたが、人の世から離れて隠居していたため、世人はその才能に気がつくことがありませんでした。しかし伍子胥孫武に戦術の能力があると理解していたため、闔閭に推挙しました。
孫武を接見した闔閭は兵法について質問し、その内容を絶賛しました。
 
次は『史記孫子列伝(巻六十五)』からです。
孫子は名を武といい、斉人です。兵法を持って呉王・闔廬に謁見しました。
闔廬が問いました「子(汝)の十三篇孫子の兵法十三篇)を実際に見てみたい。試しに兵を指揮することができるか?」
孫武が答えました「できます。」
闔廬が問いました「婦人で試すことができるか?」
孫武が「できます」と答えたため、闔廬は宮中の美女百八十人を呼び出しました。
孫武は百八十人を二隊に分け、闔廬の寵姫二人をそれぞれの隊長にしました。婦人達は戟を持って並びます。
孫武が言いました「汝等は心(胸)と左右の手および背を知っているか?」
婦人達が答えました「知っています。」
孫武が軍令を出しました「前と命じたら心を見よ。左と命じたら左手を見よ。右と命じたら右手を見よ。後ろと命じたら背を見よ。」
婦人達は「はい(諾)」と答えました。
軍令が決まると、孫武は鈇鉞(刑具)を婦人達の前に置き、再三軍令を繰り返して指示を徹底させました。
その後、孫武が戦鼓を打ち、「右」と命じました。
しかし婦人達は大笑いするだけで命令に従いません。
孫武が言いました「指示が不明確で軍令が徹底できていないのは、将孫武の罪である。」
孫武は改めて軍令を繰り返して伝え、再び戦鼓を叩いて「左」と命じました。ところが婦人達は大笑いするだけで命令に従おうとしません。
孫武が言いました「指示が不明確で軍令が徹底できていないのは、将の罪である。しかし指示が明らかになっても法に従わないのは、吏士(隊長)の罪である。」
孫武は左右の隊長を捕えて処刑しようとしました。
上でその様子を観ていた闔廬は驚いて使者を送り、孫武にこう伝えました「寡人は既に将軍が兵を用いることができると知った。寡人にこの二姫がいなくなったら、食事をしても甘味を覚えることができない。二人を斬らないでほしい。」
しかし孫武はこう答えました「臣は既に命を受けて将になりました。将が軍に居る時は、君命を受けないこともあるものです(将在軍,君命有所不受)。」
孫武は隊長二人を斬って見せしめとし、次に寵愛を受けている者を隊長に任命してから戦鼓を叩きました。婦人達は無言で命令に従います。
暫くして、孫武が使者を送って闔廬に伝えました「兵は既に整いました。王は台から降りて試してください。王が求めれば水火に赴くこともできます。」
闔廬が言いました「将軍は館舍で休め。寡人は下に降りて観ようとは思わない。」
孫武が言いました「王はその言(兵法)を好んでいますが、実を用いることができていません。」
反省した闔廬は孫武の用兵の能力を認め、呉の将にしました。