春秋時代247 東周敬王(十六) 魯昭公と季孫氏 前511年

今回は東周敬王九年です。

敬王九年
511年 庚寅
 
[] 春正月、魯昭公は晋の乾侯にいます。
 
晋定公が兵を使って魯昭公を国に入れようとしました。しかし士鞅(范献子)がこう言いました「もし季孫を晋に招いても来なかったら、彼は確かに臣としての道をはずしています。それを確かめてから討伐しましょう。」
晋は魯に使者を送って季孫意如(平子)を招きました。同時に士鞅も個人的に使者を送って季孫意如にこう伝えました「子(あなた)は必ず来るべきです。私が咎が無いようにしましょう。」
 
季孫意如は晋に向かい、晋の荀躒(または「荀櫟」。知伯)と適歴(晋地)で会しました。
荀躒が言いました「寡君(晋頃公)は躒(私)を派遣して吾子(あなた)にこう問わせた『なぜ国君を追放したのだ。国君がいながらそれに仕えなかったら、周には常刑がある。子はよく考えるべきだ。』」
季孫意如は練冠(喪中にかぶる冠の一種)・麻衣(模様の無い麻の服)・跣行(裸足)という姿で深い悲しみを表し、伏して言いました「国君に仕えることは、臣も強く望むところです。刑命から逃げるつもりはありません。もし国君(魯昭公)が臣に罪があると判断するのなら、臣を費邑(季孫氏の采邑)に幽閉し、国君の査問を待たせてください。国君の命に従います。もし先臣の縁故によって季氏を途絶えさせることなく、死を賜るのなら、(『春秋左氏伝(昭公三十一年)』はここで文が途切れています。楊伯峻『春秋左伝注』によると、木簡の位置がずれて文脈が通じなくなっているようです)。もしも殺さず、亡命もさせないとしたら、それは国君の恩恵であり、死んでも(恩恵が)朽ちません(あるいはこの「死んでも朽ちません(死且不朽)」という部分が、上述の「季氏を途絶えさせず、死を賜るなら(不絶季氏,而賜之死)」の後に続き、「季氏を途絶えさせないのなら、死を賜っても、死んで名を不朽のものにすることができます(不絶季氏,而賜之死,死且不朽)」という文が本来の内容だったという説もあります)。もし国君に従って帰国できるのなら、それは元から臣の願いなので、異心をもつことはありません。」
 
[] 夏四月丁巳(初三日)、薛伯・穀(献公)が死に、子の襄公・定が立ちました。薛は魯の同盟国です。
 
資治通鑑外紀』はここで薛国の紹介をしています。
薛は任姓の国です。黄帝の子孫に当たる奚仲が夏王朝の車正になり、邳陽に移りました。商王朝初代王・成湯の時代、奚仲の子孫の仲虺が相を勤めました。仲虺の代から薛に住むようになります。
西周武王はその苗裔(子孫)を薛侯に封じましたが、斉桓公が侯から伯に降格させたようです。
 
[] 魯の季孫意如が晋の荀躒に従って乾侯に入りました。魯昭公に会うためです。
子家羈(子家子)が昭公に言いました「主公が彼と一緒に帰ったとして、主公は一慙(一時の恥)も忍ぶことができなかったのに、終身の慙(恥)を忍ぶことができるのですか?」
昭公は「その通りだ(諾)」と答え、昭公に従っている者達も「主公の一言にかかっています。彼を駆逐するべきです」と勧めました。側近は昭公の言葉で晋を動かして季孫氏を倒せると信じていたようです。
荀躒が晋頃公の名義で昭公を慰労し、こう言いました「寡君は躒(私)を派遣し、国君の命によって意如を譴責させました。その結果、意如は死から逃げようとしませんでした(忠心を表しました)。貴君は国に帰るべきです。」
昭公が言いました「晋君は先君との誼を顧みて恩恵を亡人(亡命者。昭公)にも及ぼしています。そのため今回、亡人を国に還らせて、宗祧(宗廟)を糞除(掃除)し、貴君に仕えさせようとしていますが(晋君の命に従わせようとしていますが)、夫人(彼。季孫意如)に会うことはできません。私が夫人に会うとしたら、河黄河。河神)に誓いましょう(もし季孫意如に会うようなら、禍が起きることを黄河に誓いましょう)。」
荀躒は耳を塞いで走り出て、「寡君は既にその罪(魯昭公を亡命したままにしていること)を恐れています。その上、どうして魯国の難(昭公が咎を受けるという誓い)を聞くことができるでしょう。臣は帰って寡君に復命します(昭公に難をもたらしたくないので、帰国を強制しません)。」
荀躒は退席して季孫意如に言いました「魯君の怒りはまだおさまっていない。子はとりあえず帰って祭祀を行え。」
 
結局、昭公は帰れなくなってしまったため、子家羈が昭公に言いました「主公が一乗の車に乗って魯師に入れば(昭公の帰国に反対する周りの者から逃れて、魯軍の庇護を受ければ)、季孫は必ず主公を奉じて帰国するでしょう。」
昭公はこれに従おうとしましたが、季孫氏と対立している衆人が昭公を帰らせませんでした。
 
以上は『春秋左氏伝(昭公三十一年)』の記述です。『史記・魯周公世家』は少し異なります。
この年、晋が魯昭公を帰国させようとして季平子を招きました平子布衣跣行(庶民の服を来て裸足で歩くこと)して、晋の六卿を通して謝罪しました
六卿が晋君に晋は昭(昭公は諡号なので生前に昭公とよぶことはありませんが、原文のまま書きます)を帰国させようとしていますが、(魯公の)人が同意していませんと言ったため、晋君はあきらめました
 
[] 秋、薛が献公を埋葬しました。
 
[] 呉が伍子胥の計謀(昨年参照)を実行しました。
楚を侵して夷(徐子が住んでいます)、潜、六を攻めます。
楚の沈尹・戌が兵を率いて潜を援けると、呉軍は引き返しました。
楚軍は潜の人々を南岡に遷して還りました。
すると呉軍が弦を包囲しました。楚の左司馬・戌と右司馬・稽が弦を援けて豫章に至ります。
呉軍はまた引き返しました。
 
以上は『春秋左氏伝』の記述です。『史記』の『呉太伯世家』『楚世家』は呉がを攻めて(潜)を取ったとしています。
 
[] 冬、邾の大夫・黒肱が濫の地を挙げて魯に投降しました。
 
[] 十二月辛亥朔、日食がありました。
その夜、晋の趙鞅(趙簡子)が夢を見ました。童子が裸で節をつけながら歌っています。
翌朝、趙鞅は占いをして史墨(蔡墨)に問いました「わしが見た夢と、今回の日食はどういう意味があるのだろう。」

史墨が答えました「六年後(「辛亥」の「亥」は五行の「水」に属します。五行には数があり、「水」は六とされているので、六年後です。木は八、火は七、金は九、水は六、土は五です)のこの月に呉が郢(楚都)に入るでしょう。しかし最後は勝つことができません。郢に入るのは庚辰の日です。日月が辰尾(星の名。東方蒼龍七宿の尾)にいるからです(今回の日食は、太陽と月が辰尾にあったようです。「辰尾」から「庚辰」の「辰」が導き出されます。「庚」がどこから来たのかはわかりません)。庚午の日(日食があった辛亥の四十一日前)、日(太陽)の謫(災)が始まりました(日食以外の天災が庚午の日にあったようです。六年後の楚の禍も庚午の日に始まります。上述の「庚辰」の「庚」も、「庚午」からきたのかもしれません。「午」は南方を指すので、天譴を受けるのは楚です。楚と敵対しているのは呉なので、呉が楚に進攻します)。しかし火は金に勝つので五行思想で火徳は金徳に勝つとされました。「庚午」の庚は金、午は火を表します。金と火では火が勝ちます。午は南方の楚なので、最後は楚が勝ちます)、結局、呉は勝てません。」
実際には五年後の十一月に呉が楚を攻撃して郢を占領します。楚が柏挙で敗れるのが庚午、呉が郢に入城するのが庚辰です。

 
 
 
次回に続きます。