春秋時代248 東周敬王(十七) 魯昭公の死 前510年

今回は東周敬王十年です。
 
敬王十年
510年 辛卯
 
[] 春正月、魯昭公は晋の乾侯にいます。
昭公が闞(魯の邑。一説では邾の邑)を取りました。この出来事は、『春秋』経文に「取闞」とだけ書かれており、『春秋左氏伝(昭公三十二年)』には記述がないため、詳細がはっきりしません。
 
[] 夏、呉が越を攻めました。
『春秋左氏伝』によると、呉が始めて越に対して兵を用いたようです。
史記・越王句践世家』には「(越主)允常の時代に呉王・闔廬と戦い、互いに怨んで攻伐するようになった」とあります。恐らくこの時の戦いを指します。
また、『春秋左氏伝』は勝敗に触れていませんが、『史記・呉太伯世家』には「呉が越を破る」とあります。
 
晋の史墨(蔡墨)が言いました「四十年も経たずに越が呉を有すようになるだろう。越が歳木星を得た時に呉が攻撃した。呉が必ず凶を受ける。」
「越が歳を得た(越得歳)」の解釈は複数あり、楊伯峻の『春秋左伝注』に詳しく紹介されていますが、簡単に解説します。当時、歳星木星の軌道は十二分され、それぞれに越、呉等の国が当てられていました。この年、歳星が越の領域に入ったようです。但し、それが具体的にどの位置を指すのかははっきりしません。
古代は国の存亡を予測する時、歳星の運行が三巡を越えないものとされていました。一巡は十二年なので三巡は三十六年になります。史墨は三十六年に近い「不及四十年(四十年未満)」と予言しました。実際に呉が越に滅ぼされるのは三十八年後の事です。
 
[] 周で王子朝の乱が起きてから、その徒党の多くが王城に残っていました。敬王は恐れて成周に遷ります。
 
秋八月、敬王が富辛と石張を晋に派遣し、成周の城を増築するように請いました。
天子(敬王)の言葉が伝えられます「天が周に禍を降し、我が兄弟(王子朝)に乱心を起こさせ、伯父(晋侯)の憂いとしている。余と親しい甥舅(諸侯)も休む暇がなく既に十年が過ぎ、戍(周の守り)に勤めて五年が経つ。余一人(天子の自称)は一日も(諸侯の労を)忘れたことがなく、農夫が豊作を待ち望むように心配し、恐れて時を待っている。伯父がもしも大恵を施し、二文(晋の文侯と文公。文侯は東周平王の遷都を援け、文公は東周襄王を援けて覇者になりました)の業を再建し、周室の憂いを解き、文武西周文王と武王)の福を求めて盟主の地位を固め、令名(美名)を宣揚するのなら、それは余一人の大願である。昔、成王は諸侯を集め、成周に築城して東都とし、文徳を尊崇した(成王は遠方を帰順させるために文徳を修めました)。今、余も成王の福と霊を求めて成周の城を修築し、戍人(諸侯の兵)の勤労を除こうと思う(成周の城が大きくなれば、諸侯の守りが必要なくなります)。諸侯が安寧になり、蝥賊(害賊)を遠くに退けることができたら、それは晋の力(功績)である。伯父にこれを託すので、伯父にはよく考えて欲しい。我一人に百姓の怨みを招かせず、伯父が名誉ある功績を立てることができたら、先王が功を認めるだろう(先王の庇護があるだろう)。」
 
晋の士鞅(范献子)が魏舒(魏献子)に言いました「兵を出して周を守るより、城を修築した方がいいでしょう。天子が既に発言したので(諸侯の守りを除くという発言をしたので)、今後、事が起きても晋は関与しなくてすみます。王命に従って諸侯を休めることができるのなら、晋国にも憂いはありません。成周の増築に務めず、何に務めるというのでしょう。」
魏舒は「その通りだ(善)」と言うと、韓不信(韓簡子。伯音。韓起の孫、韓須の子)を送って敬王に答えました「天子の命に背くことはありません。すぐ諸侯に指示をします。工程の進度や分配は、全て天子の命令に従います。」
 
冬十一月、晋の魏舒と韓不信が京師に入りました。諸侯の大夫(晋の魏舒と韓不信、魯の仲孫何忌、斉の高張、宋の仲幾、衛の世叔申、鄭の国参(子産の子)および曹人、莒人、薛人、杞人、小邾人)が狄泉で会して以前の盟約を確認し、成周城修築の王命を受けます。
魏舒が南面しました。南に向くのは国君の場所です。
それを見て衛の大夫・彪徯が言いました「魏子には必ず大咎が訪れる。位を犯して大事を命じたが、その任ではない(卿の立場でありながら国君の場所に立って諸侯に指示を出したのは越権である)。『詩(大雅・板)』にはこうある『天の怒りに対して恭敬で、怠慢にならない。天の変異に対して恭敬で、放縦にならない(敬天之怒,不敢戯豫。敬天之渝,不敢馳駆)。』(本来このようでなければならないのに)位を犯して大事を成そうというのだから(禍を受けるのは)なおさら当然だろう。」
 
己丑(十四日)、晋の士彌牟が成周増築の計画を立てました。城壁の距離・高低・幅や溝の深さを計測してから、土の使用量を算出し、遠近からの物資の輸送を分担し、工期を決定しました。必要な工人の数や費用・食糧を書き記して諸侯に詳しい指示を出します。工程を振り分けた指示書を帥(諸侯の大夫)に与えてから、全ての内容をまとめて周の劉狄(劉文公。劉子)に提出しました。
韓不信が方案を監督しました。
 
以上、『春秋左氏伝昭公三十二年)』を元にしました。成周築城に関しては『国語・周語下』にも記述があります。また、『史記・封禅書』や『淮南子・汜論訓』には周の萇弘について書かれていますが、別の場所で紹介します。
 
[] 十二月、魯昭公が病に倒れました。
昭公は持っている物を全て自分に従った大夫達に与えようとしましたが、大夫達は受け取ろうとしません。そこで子家羈(子家子)に双琥(一対の玉虎)、一環(玉環ひとつ)、一璧(璧玉一つ)と軽服(生地が細かい服。または常服)を与えました。子家羈が受け取ったので、他の大夫達も下賜された物を受け取ります。
 
己未(十四日)、昭公が乾侯で死にました。東周敬王三年517年)に出奔して以来、結局、魯国に帰ることはできませんでした。
昭公の在位年数は三十二年になります。翌年六月に定公が即位します。
 
子家羈は下賜された物を府人(府庫の管理者)に返して「(私が受け取ったのは)君命に逆らうことができなかったからだ」と言いました。他の大夫も皆、下賜された物を返却しました。
 
晋の趙鞅が史墨(蔡墨)に聞きました「季氏はその君を駆逐したのに、民が服して諸侯も支持している。しかも国君が国外で死んでも、誰も彼の罪を問わないのはなぜだ?」
史墨が言いました「物は両(一対)を生み、三を生み、五を生み、陪貳(補佐)を生みます。だから天には三辰(日・月・星)があり、地には五行があり、身体には左右があり、それぞれ妃耦(配偶者。夫婦)があり、王には公がおり、諸侯には卿がおり、皆、貳(補佐)がいます。天が季氏を生んで魯侯の貮(補佐)としてから、既に久しく経ちます。民が服すのも当然でしょう。魯君は代々安逸に満足し、季氏は代々勤労を修めてきたので、民は国君の存在を忘れています。国君が外で死んでも、誰が哀れむでしょう。社稷は常に一定の人が奉じるのではありません。君臣の位が一定ではないのは古から同じです。だから『詩(小雅・十月之交)』にこうあるのです『高い堤も谷となり、深い谷も丘陵となる(高岸為谷,深谷為陵)。』三后(虞舜・夏王・商王)の姓(子孫)が今は庶人となっていることは、主公もご存知です。『易』の卦では、『雷が乾に乗ること(雷乗乾)』を『大壮』といいます(『雷』は『易』では『震』といいます。『乾』は天子を表し、『震』は諸侯を表します。『震』が『乾』に乗るというのは、君臣の立場が逆転するという意味になります。諸侯の国内においては大臣が強壮=大壮になる状態を指します)。これ(君臣の地位が一定ではないこと)は天の道です。昔、成季友は桓公の季子(末子)で、文姜に愛されていました。文姜が震(妊娠)した時に卜うと、卜人はこう言いました『産まれたら嘉名(美名)が知られるでしょう。その名は友といい、公室を輔佐します。』実際に子が産まれると卜人が言った通りで、掌に『友』という模様があったため、それを名としました。成長してからは魯で大功を立てて費(または「」)の地に封じられ、上卿になりました。その後、文子(季孫行父)、武子(季孫宿)の代まで家業を増し、旧績(古い功績)を廃すことがありませんでした。魯文公が死んだ時、東門遂が適(嫡子)を殺して庶庶子を立てたため、魯君はこれをきっかけに国政を失い、政権は季氏に移ったのです。それから既に四公(文公の後は宣公・成公・襄公・昭公)が即位し、民は国君の存在を忘れてしまいました。どうして国政を得ることができるでしょう。だから国の君となる者は、器(車服。身分の秩序を表します)と名(爵号)に対して慎重であり、それらを人に貸してはならないのです。」
 
[] 『史記・管蔡世家』によると、この年、曹声公(『史記・十二諸侯年表』では「襄公」)が平公の弟・通に殺されました。声公の在位年数は五年です。
通が自立しました。これを公といいます。 
 
曹君は武公の後、子の平公が立ち、平公の後、子の悼公が立ちましたが、東周敬王五年515年)に悼公が宋に捕まって死ぬと、悼公の弟の声公が即位しました。今回、声公を殺した隠公は父(平公)の弟に当たります。
 
 
 
次回に続きます。