春秋時代249 東周敬王(十八) 魯定公即位 前509年

今回は東周敬王十一年です。
 
敬王十一年
509年 壬申
 
[] 春正月辛巳(初七日)、晋の魏舒が諸侯の大夫を狄泉に集めて成周城増築を始めました。魏舒が指揮をとります。
衛の彪傒が言いました「天子の居城を建てるというのに、位を変えて令を出した(前年、卿でありながら国君の場所に立って諸侯の大夫に命令しました)。これは非義だ。大事を成すのに義を犯したら必ず大咎を受ける。晋が諸侯を失わないとしたら、魏子が禍を受けるだろう。」
 
魏舒は韓不信と周の大夫・原寿過に後を任せると、自分は大陸(地名)に狩りに行き、薮沢の草木を焼きました。草木を焼くのは狩猟のためです。
ところが帰還する途中の甯(地名)で死んでしまいました。
魏舒の代わりに政治を行うことになった士鞅(范献子)は、魏舒の棺から柏椁(柏で作った外棺)を除きました。成周城修築の任務を終える前に狩猟に行った魏舒を懲らしめるためです。
 
史記・魏世家』には、魏舒(献子)の死後、その子・魏侈が継いだと書かれています。魏侈は魏曼多ともいい、魏襄子とよばれます。しかし『世本(秦嘉謨輯補本)』には「献子が簡子・取を生み、取が襄子・多(魏侈)を生んだ」とあります。
魏舒(献子)の後は魏取(簡子)が継ぎ、その後、魏侈(襄子)の代になったようです。あるいは、魏取は家を継ぐ前に早逝したのかもしれません。
 
[] 魯の仲孫何忌(孟懿子)が成周城の増築に参加しました。
庚寅(十六日)、栽(板築。板を組み合わせてその間に土を盛る工程)が始まります。
 
宋の仲幾が晋の命に従わず、こう言いました「滕、薛、(小邾)は我が国の役である。」
三国は代々宋に服してきたため、今回も三国が宋の代わりに労役に従事するという意味です。
これに対して薛の宰が言いました「宋は無道なので、我々小国と周の関係を断たせ、我々を楚に従わせた。だから我々は(晋に従うことができず)常に宋に従ってきたのだ。しかし晋文公は践土の盟でこう言った『我々と同盟する全ての諸侯は旧職を復せ(諸侯は周の天子に仕えよ)。』践土の盟に従うとしても(周王に従うとしても)、宋に従うとしても、我々は晋の命を聞くだけだ。」
仲幾が言いました「践土の盟では元々宋に従うことになっている。」
践土の盟は「旧職を復せ」と命じており、宋はこの「旧職」を宋に従うことだと理解しています。
薛の宰が言いました「薛の皇祖・奚仲は薛に住んで夏王の車正となった。その後、奚仲は邳に遷ったが、仲虺(奚仲の子孫)が薛に戻って湯(商王・成湯)の左相となった。もし旧職に復すのだとしたら、王の官に任命されるべきだ。なぜ諸侯の役に従事しなければならない。」
仲幾が言いました「三代(夏・商・周)はそれぞれ異なる。薛が旧を得ることができるか(周代に夏代や商代の職を得ることができるか)。今は宋の役に従うのが、その職である。」
晋の士彌牟(士伯)が言いました「晋の従政者(執政官・士鞅。または築城の指揮をとる韓不信)はまだ新しい(士鞅は魏舒を継いだばかりです。韓不信は卿になったばかりのようです)。子(汝。仲幾)はとりあえず晋の命を受けて帰れ。私が故府(古い資料が管理された場所)で調べよう。」
仲幾が言いました「子(あなた)が忘れたとしても、山川鬼神が忘れると思いますか?」
怒った士彌牟(士伯)が韓不信に報告しました「薛は人(故事)を使って説明しましたが、宋は鬼神を使いました。宋の罪は大きいです。自分に反論の言葉が無くなると、鬼神を使って我々を圧しようとしました。これは我々に対する誣(欺瞞)です。『寵を与えて侮りを受ける(啓寵納侮)』とはまさにこのことです。仲幾に罰を与えるべきです。」
 
三月、晋が仲幾を捕えて京師に送りました。
 
城は三旬(三十日)で完成し、諸侯の戌兵(守備兵)が帰されました。
 
斉の高張が遅れてきたため、諸侯の労役に参加できませんでした。
晋の女叔寬が言いました「周の萇弘と斉の高張は禍から逃れられない。萇叔は天に背き、高子は人に背いた。天が壊そうとしているものは、誰も支えることができない。大衆が行わなければならないことは、誰も逆らってはならない。」
敬王を成周に遷して周の延命を求めたのは萇弘です。天が周を滅ぼそうとしているのに萇弘が延命を図ったので、天に背いたと見なされました。
高張は諸侯の取り決めに間に合わなかったので、人に背いたことになります。
 
[] 夏、魯の叔孫不敢(叔孫成子。叔孫の子)が昭公の霊柩を迎え入れるため、乾侯に行くことになりました。
季孫意如が叔孫不敢に言いました「子家子(子家羈)はしばしば私と話をしたことがあり、いつも私の志(意思)から外れなかった。私は彼を政治に参与させたいと思う。子は彼を必ず留めよ(逃亡させるな)。彼の命(意見)を聞け。」
しかし子家羈は叔孫不敢に会おうとせず、哭礼の時間をわざとずらしました。古代の葬礼では、朝と夜に中庭の北面で哀哭することになっていましたが、子家羈だけは早く行くか遅く行ったようです。
叔孫不敢が子家羈に面会を求めましたが、子家羈は拒否してこう言いました「羈(私)はあなたに会う機会がないまま(当時、叔孫不敢はまだ卿になっていないため、二人は会う機会がなかったようです)、国君に従って国を出ました。国君は命を残さず薨じたので(叔孫不敢に会うように命じることなく死んだので)、会うことはできません。」
叔孫不敢が使者を送って伝えました「公衍と公為(どちらも昭公の子)が我々群臣を国君に仕えさせなかったのです(公為は季孫氏を排斥しようとしていたので、叔孫不敢の言葉は偽りです。季孫意如が昭公の子を国君に立てたくなかったため、二人に罪を着せました)。もしも公子・宋(昭公の弟)社稷の主となるなら、それは群臣の願いです。国君に従って国を出た者の中で、誰の帰国を許すかは、子(あなた)の意見に従います。子家氏には後代がいないので、季孫は子を政治に参与させたいと思っています。これらは全て季孫の願いであり、不敢(私)を使って伝えさせました。」
子家羈が答えました「国君を立てることに関しては、卿士も大夫も守亀(卜いの亀)もいるので、羈にはわかりません。国君に従った者の中で、表面だけ従って国を出た者は帰国してもかまいません。(季孫氏と)(敵)となって国を出た者は、去ってもかまいません。羈に関しては、国君は私が国を出たことを知っていても、帰るということは知りません。だから去ります。」
 
昭公の喪(霊柩)が懐隤に入ってから、公子・宋が先に帰国しました。
しかし昭公に従っていた者は皆、懐隤から出奔し、一人も魯に帰りませんでした。
 
六月癸亥(二十一日)、昭公の喪が魯都に入りました。
戊辰(二十六日)、昭公の弟・宋が即位しました。これを定公といいます。
 
季孫意如が役夫を闞公氏(魯の公族の墓地)に送り、昭公の墓と他の公族の墓を隔てるために溝を掘らせようとしました。
大夫・栄駕鵝(栄成伯)が言いました「生前には仕えることができず、死んでからも隔離して(自分の悪を)明らかにするのですか。子にはそれができたとしても、後世、必ずそれを恥とする者が出てくるでしょう。」
季孫意如はあきらめました。
 
季孫意如が栄駕鵝に言いました「わしは国君の諡号を定めることで、子孫に知らせたいと思う(悪諡をつけて国君の悪を子孫に伝えたいと思う)。」
栄駕鵝はこう言いました「生前に仕えることができず、死んでからも悪とみなすことで、自分の意志を示したいのですか?その必要がありますか?」
季孫意如はこれもあきらめました。諡号は「昭」とされます。
 
秋七月癸巳(二十二日)、昭公が墓道の南に埋葬されました。他の墓は道の北にあります。溝は掘られませんでしたが、先公の墓と離して埋葬されました。
後に孔子が司寇になった時、昭公の墓と他の公族の墓の周りに大きな溝を作り、昭公の墓も一つの区画に入るようにしました(東周敬王二十年・500年)
 
昭公が国外にいた間、季孫意如が魯の祭祀を行い、煬公を祈祷していました。煬公は西周時代の魯侯です。伯禽の死後、考公が即位し、考公が死んで弟の煬公が即位しました。季孫意如は昭公の弟を国君に立てたいと思っていたため、煬公を祀ったようです。
 
九月、即位した定公が煬公のために煬宮(煬公廟)を建てました。それ以前は煬公個人の廟はなく、宗廟の祧(遠祖の廟)から神主を持ちだして祀っていました。
 
[] 魯が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。
 
[] 冬十月、霜が降って菽(豆苗)が枯れました。豆苗は霜に強いといわれているので、それが枯れるほどだったということは、他の作物にも大きな被害をもたらしたはずです。
周暦の十月は夏暦の八月なのでまだ秋です。霜によって農作物に影響が出るには早すぎるので、異常気象だったといえます。
 
[] 『資治通鑑外紀』によると、この年冬十月、一足の鳥が魯定公の宮庭に集まりました。それを知った孔子が「それは商羊というものです。商羊が現れたら大水(洪水)が起きて長雨が続きます」と言いました。
しかし『孔子家語・辯政』や『説苑・辯物』は斉の出来事としています。
以下、『孔子家語』の内容を紹介します。
斉に一足の鳥が現れて宮殿に集まり、殿前に止まって羽をはばたかせたり跳びはねました。斉景公は不思議に思い、魯に使者を送って孔子に問いました。孔子はこう言いました「その鳥の名は『商羊』といい、水祥です。かつて童児が片足を曲げて両眉を震わせながら、跳びはねてこう歌いました『天がもうじき大雨を降らせる。商羊が鼓舞する(天将大雨,商羊鼓舞)。』今、斉に現れたのは大水の兆しです。」
景公は急いで大水の災害が近いことを民に告げ、堤防や溝渠の修築をさせました。
やがて大霖雨(長雨)が降り続き、水が溢れて諸国を浸しました。多くの民が害されます。しかし斉だけは備えがあったので被害から免れることができました。
景公が言いました「聖人の言とは信用するべきだ。その通りになるものだ。
 
[] この年、蔡昭侯が楚に入朝して拘留されました。東周敬王十三年(前507年)に再述します。
 
 
 
次回に続きます。