春秋時代250 東周敬王(十九) 邾荘公 前508~507年

今回は東周敬王十二年と十三年です。
 
敬王十二年
508年 癸巳
 
[] 周の卿士・鞏簡公は自分の子弟を信任せず、遠人(異族)を好んで用いました。
夏四月辛酉(二十四日)、鞏氏の子弟達が簡公を殺しました。
 
[] 夏五月壬辰(二十五日)、魯の雉門(公宮南門)と両観(門の両側の望楼)で火災がありました。
 
[] 桐が楚に背きました。桐は代々楚に属してきた小国です。
 
呉王・闔廬が舒鳩氏の人を楚に送って楚軍を誘い出させました。舒鳩は独立した国でしたが、楚に滅ぼされて属国になっていました。しかし呉と楚の間にあるため、どちらとも連絡をとっていたようです。
呉が立てた計画はこうです。まず舒鳩が楚に「師を出して呉に臨ませてください(呉を討伐してください)」と伝えます。楚軍が動いたら、呉は楚を恐れて服従するふりをして桐に兵を向けます。桐は楚を裏切ったばかりなので、楚は呉の桐討伐を喜び、呉に対する警戒を解くはずです。呉はその隙を衝いて楚を攻撃します。
 
秋、舒鳩の進言を聞いて楚の囊瓦が呉を攻撃しました。豫章に駐軍します。
呉軍は豫章で舟を集め、楚のために桐を討伐する姿を見せました。楚は呉を信じて警戒を解きます。その間に、呉は巣に兵を集結しました。
 
冬十月、呉軍が豫章で楚軍を攻撃し、楚軍は敗退しました。
呉軍は巣も包囲して攻略します。楚の公子・繁(巣を守る大夫)が捕えられました。
 
以上は『春秋左氏伝定公二年)』の記述です。『史記』の『呉太伯世家』『楚世家』はこの戦いを前年に書いていますが『呉太伯世家』の注隠)は『史記』の誤りと指摘しています。
 
[] 魯が新たに雉門と両観を建造しました。
 
[] 邾荘公と大夫・夷射姑が酒を飲みました。酒がまわってから、夷射姑が小便のため席を離れます。
その時、閽(門の守衛)が夷射姑に肉を請いました。しかし夷射姑は閽の杖を奪って殴打し、追い返しました。
当時の宴では、賓客が酔ったら脯(干肉)を鐘人に与えることになっていました。これを「陔」といいます。閽は夷射姑が席を離れた時、肉を与えられると思って近づいたようです。しかし夷射姑は小便のために立ったのであり、また、肉は鐘人に与えるものなので、閽を追い返しました。
この一件が翌年の事件を招きます。
 
 
 
翌年は東周敬王十三年です。
 
敬王十三年
507年 甲午
 
[] 春正月、魯定公が晋に向かいましたが、黄河に至って帰りました。
これは『春秋』経文の記述です。『春秋左氏伝』等に記述がないため、詳細は分かりません。
 
[] 二月辛卯(二十九日)、邾荘公が門台(門楼)で朝廷を眺めました。
すると閽(門衛)が缾(瓶)を持って朝廷に水をまきました。
それを見た荘公が怒ったため、閽はこう言いました「夷射姑がここで小便をしたのです(だから水をまきました)。」
夷射姑が宴の途中で小便のために席を立ったのは前年の事です。しかし荘公は極度な清潔好きだったため、怒って夷射姑を逮捕するように命じました。
ところが夷射姑を捕まえることができません。ますます怒った荘公は床から飛び降りたとたん、鑪炭(炉)に転げ落ちて大火傷をおい、それが原因で死んでしまいました。極度な潔癖と性急がもたらした事故でした。
 
荘公の埋葬の前に、五乗の車が埋葬され、五人が殉死を命じられました。潔癖な荘公のために墓陵を掃除して清める意味があったようです。
 
荘公の子・益が即位しました。隠公といいます。
 
秋、邾が荘公を埋葬しました。
 
[] 九月、鮮虞人が平中で晋軍を破りました。自分の勇に頼った晋の観虎が捕えられました。
楊伯峻の『春秋左伝注』によると、顧棟高の『大事表』に「晋が鮮虞を侵して中人に至る」という記述があり、中人は平中の近くにある地名のようです。
 
[] 冬、魯の仲孫何忌と邾子が抜(または「郯」)で会盟しました。魯定公が即位したばかりで、邾でも新君が即位したので、改めて修好したようです。
 
[] 以前(東周敬王十一年・前509年)、蔡昭侯が二つの佩玉と二着の裘(皮衣)をもって楚に入り、一つの佩玉と一着の裘を楚昭王に献上しました。
昭王はそれらを身につけて蔡昭侯を享宴に招き、蔡侯も自分の佩玉と裘を身につけて参加しました。すると楚の令尹・子常が佩玉と裘を要求しました。昭侯が拒否したため、子常は昭侯を三年間、楚に留めました(本年で三年目になります。足掛け三年なので、蔡昭侯の入朝は敬王十一年・前509年です)
 
唐成公が楚に入った時、二頭の粛爽馬(「粛爽」は駿馬の名)を連れていました。
子常は粛爽も要求します。しかし唐成公が拒否したため、成公も三年間、楚に留められました。
 
唐人は国君を救うために相談し、まず成公の従者を帰国させて交代の人員を送ることを楚に求めました。楚は従者の帰国を許可します。唐人は帰国した成公の従者を酒に誘い、酔った隙に駿馬を盗み出し、子常に献上しました。
子常は唐侯を帰国させました。
唐成公が国に戻ると、馬を盗んだ者達が司敗(司寇。法官)に出頭して言いました「国君が馬を惜しんだため、身を隠して(拘留され)国と家を棄てることになりました。(我々群臣は国君を助けるために粛爽を盗みました。)群臣は夫人(馬を養う者)と協力して、以前の馬(粛爽)よりも良い馬を償うつもりです。」
唐成公が言いました「寡人の過ちである。二三子(汝等)が自ら辱めを受けることはない(捕えられることはない)。」
成公は群臣を賞しました。
 
これを聞いた蔡人は蔡昭侯に譲歩するよう強く勧めました。昭侯は佩玉を子常に献上します。
満足した子常は朝廷で蔡侯の徒(従者)に会い、有司(楚の官員)にこう言いました「蔡君が久しく国に留まったのは、官(楚の官員)が餞別の礼物を準備できなかったからである。明日になっても礼物が準備できないようなら、汝等(楚の官員)を死刑に処す。」
 
帰国を許された蔡昭侯は漢水に至ると玉を沈めてこう誓いました「余が再び漢水を南に渡ることがあったら(楚に朝見したら)、大川の咎を受けよう。」
 
蔡昭侯は晋に行き、昭侯の子・元と大夫の子を人質にして楚討伐を請いました。
 
[] 『資治通鑑外紀』に「この年、塵が成周に入り、熊が周に入る(是歳,塵入成周熊入于周)」という記述がありますが、どういう意味か分かりません。
 
[] 『資治通鑑外紀』は『国語』から楚の出来事を紹介していますが、別の場所で書きます。

[] 『資治通鑑前編』によると、この年、衛で卜商が産まれました。後に孔子の弟子になります。
史記・仲尼弟子列伝』に「卜商の字は子夏といい、孔子より四十四歳年下」とあります。
 
 
 
次回に続きます。