春秋時代251 東周敬王(二十) 召陵の会 前506年(1)

今回は東周敬王十四年です。三回に分けます。
 
敬王十四年
506年 乙未
 
[] 春二月癸巳(『春秋』経文の記述です。恐らく「正月癸巳」の誤りです。初六日になります)、陳恵公が在位二十四年(『史記・陳杞世家』では恵公元年を陳が一度滅んだ年の翌年としているため、在位年数が二十八年になります。年表参照)で死にました。子の柳が即位しました。懐公といいます。
 
[] 三月、周の劉狄(文公)と晋侯(定公)、魯公(定公)、宋公(景公)、蔡侯(昭公)、衛侯(霊公)、陳子(懐公)、鄭伯(献公)、許男、曹伯(隠公)、莒子、邾子、頓子、胡子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子および斉の国夏が召陵で会しました。楚討伐を謀るためです。周が参加しているのは楚が王子朝を援けたからです。
 
晋の荀寅が蔡昭公に賄賂を求めましたが、拒否されたため、士鞅(范献子)にこう言いました「国家が危機に臨んでいるのに諸侯が二心を抱いています。このような状態で敵を襲っても困難でしょう。今は水潦(大雨)が降ったばかりで疾瘧(疫病。伝染病)が発生し、中山(鮮虞)も服していません。更に(楚との)盟を棄てて怨みを取ったら、楚に損害を与えることはなく、逆に我々が中山を失うことになります。蔡侯の辞(楚討伐の願い。前年参照)は辞退するべきです。我が国は方城の役(東周霊王十五年・前557年)以来、楚で志を得たことがありません。ただ勤(労)を招くだけです。」
蔡は既に人質まで送って楚討伐を請いましたが、結局、晋に拒否されました。
 
晋人が鄭に羽旄(旗の装飾)を貸すように要求し、鄭人は同意しました。
翌日、晋がその羽旄をつけた旆(旗)をもって会に参加しました。
晋は諸侯の信頼を失いました。
 
会が始まる前に衛の大夫・子行敬子が霊公に言いました「会はまとまらず、論争も収まらないはずです。祝佗(大祝・子魚。史鰌弁論に長けていたようです)を従わせるべきです。」
霊公は同意し、子魚に会の参加を命じました。
しかし子魚は辞退してこう言いました「臣は四体(四肢)を展じて(職責を果たすために尽力するという意味です)旧職(先祖代々の職)を守っていますが、それでも任務を果たすことができずに刑書を煩わせる(罪を得る)ことを恐れています。もし二職に従事することになったら大罪を招くでしょう。祝とは社稷の常隸社稷の神に仕える賎臣)なので、社稷が動かなければ祝も国境を出ないのが職官の制度です。国君が軍を率いて遠征する時は、社を祀って釁鼓(犠牲の血で鼓を塗ること)してから、祝も社主を奉じて軍に従い、国境を出ることができます。しかし嘉好の事(朝会)に国君が参加する時は師(兵二千五百人)が国君に従い、卿が参加する時は旅(兵五百人)が卿に従うものであって、臣が参与することではありません。」
霊公は子魚の意見を聞かず、会への参加を強制しました。
 
皋鼬で盟を結ぶ時、周と晋は蔡を衛の前に置いて歃血(犠牲の血をすするか口の横に塗る儀式)させることにしました。
それを知った衛霊公は子魚を派遣して個人的に周の萇弘に問わせました「道中で聞いたことですが、蔡を衛の前にするというのは本当ですか?」
萇弘が言いました「本当です。蔡叔(蔡の祖)は康叔(衛の祖)の兄だからです。蔡を衛の前に置いて問題がありますか?」
楊伯峻の『春秋左伝注』によるとこれは口実で、実際は楚に従っていた蔡が晋に帰順したため、蔡を厚遇する必要がありました。また、蔡による楚討伐の請願を拒否したため、蔡の不満を抑える目的もあったようです。
子魚が言いました「先王の前例によると、先王が尊んだのは(年齢の序列ではなく)徳の有無です。昔、武王が商に勝ち、成王が天下を安定させてから、明徳を選んで分封し、周の藩屏としました。だから周公(旦。魯の祖)が王室を補佐して天下を治め、(諸侯を)周と和睦させることができたのです。そこで魯公(伯禽。周公・旦の子)に大路(金路。馬車)と大旂(大路に立てる龍旗)、夏后氏の璜夏王朝の玉器)、封父の繁弱(封父は夏代に存在した国の名。繁弱は良弓の名)および殷民六族である條氏・徐氏・䔥氏・索氏・長勺氏・尾勺氏を下賜し、彼等に宗氏(大宗。本家)を率いさせ、分族(小宗。分家)をまとめさせ、類醜(六族の奴隷)を統率して周公の法に服従させました。こうして(魯は)周の命に従い、彼等が魯国で職務を行うことで、周公の明徳が明らかにされました。また、魯に土田倍敦(附庸の小国)と祝(太祝)、宗(宗人)、卜(太卜)、史(太史)および備物(衣服器物)、典策(典籍簡冊)、官司(百官)、彝器(宗廟の祭器)を与えました。商奄(商代の国の名。西周初期に反旗を翻しました)の民を慰撫してからは、『伯禽(書名)』によってその民を訓戒し、少皞の虚(少皞の古城。魯都・曲阜)に封じました。
康叔(封。衛の祖)には大路、少帛(帛布)、綪茷、旃旌(綪茷と旃旌は旗)、大呂(鐘の名)と殷民七族である陶氏、施氏、繁氏、錡氏、樊氏、饑氏、終葵氏を下賜しました。衛の封畛土略(国土。国境)は武父以南から圃田の北境におよび、有閻の土地を得て王の職を勤め、相土商王朝の先祖)の東都(商丘)を得て王の東蒐(東方の狩猟。巡視)を補佐しました。聃季(周公の末弟。冉季戴。司空)には土地を授け、陶叔(曹叔振鐸。司徒)には民を授けて『康誥尚書の一篇)』で訓戒し、殷虚(商殷の古城)に封じました。皆(康叔・聃季・陶叔)商の故地において、商の風俗に則って政治を行い、周の制度に従って領土を定めました。
唐叔(虞。晋の祖)には大路と密須(国名)の鼓、闕鞏(国名。ここでは闕鞏の甲冑)、沽洗(鐘の名)と懐姓九宗(旧唐国の遺民。一説では狄に属する隗姓の一支)、職官五正(五官の長)を与え、『唐誥(書名)』によって訓戒し、夏虚(夏代の古城)に封じました。夏の故地において夏の風俗に則って政治を行い、戎の制度(遊牧生活)に従って領土を定めました。
この三者は全て叔(弟。周公・康叔・唐叔とも武王か成王の弟)ですが、令徳(美徳)があったおかげでこれらの物を与えられてその徳が明らかにされました。文王・武王・成王・康王の伯(周公・康叔・唐叔より歳上の兄弟)はたくさんいましたが、彼等に下賜されなかったのは、年齢を貴んだのではないからです。管叔と蔡叔は商人を誘って王室を犯そうとしました。だから王は管叔を殺し、蔡叔に車七乗と徒(奴隷)七十人を与えて放逐したのです。その子・蔡仲は行いを改めて徳を守ったので、周公が抜擢して自分の卿士に任命し、王に謁見させました。その結果、天子が蔡侯に封じました。その命書にはこう書かれました『胡(蔡仲の名)よ、汝の父のように王命に違えるようなことをしてはならない。』
このような前例があるのに、なぜ蔡が衛の前なのですか。武王の同母弟は八人おり、周公が大宰に、康叔が司寇に、聃季が司空になりましたが、他の五叔(五人兄弟)は官がありませんでした。これは年長者を貴んだからでしょうか。曹は文王の昭(文王の子)であり、晋は武王の穆(武王の子)です。しかし曹は伯甸(甸服の伯爵)なので、年長者を尊んではいません(後輩の晋は侯甸です。侯爵なので伯爵の曹より上になります)。もしも今になって年長者を尊んだら、先王に背くことになります。晋文公が践土で盟した時、衛成公は不在でしたが、同母弟の夷叔が蔡の前にいました。その載書にはこうあります『王が宣言した。晋重(重耳。文公)、魯申(釐公)、衛武(叔武)、蔡甲午(荘侯)、鄭捷(文公)、斉潘(昭公)、宋王臣(成公)、莒期(茲丕公)(参加者の序列を述べるだけで、盟約の内容は省略しています)。』これは周府に保管されているので調べることができます。吾子(あなた)は文王・武王の略(道。法度)を回復しようとしているのに、その徳を正そうとせず、どうするつもりですか。」
萇弘は諫言に納得し、劉狄に報告してから士鞅と相談しました。会盟では衛侯が優先されることになりました。
 
[] 召陵から帰る途中で、鄭の子大叔(太叔)が死にました。
晋の趙鞅(趙簡子)が弔問し、哀哭して言いました「黄父の会(東周敬王三年・前517年)で夫子(彼)は私に九言を贈った。『乱を起こすな。富にたよるな。寵にたよるな。共通の願いに背くな。礼がある人に対して傲慢になるな。自分の能力を誇るな。一つの事に対して何回も怒るな。非徳な事を図るな。非義なことを犯すな(無始乱,無怙富,無恃寵,無違同,無敖礼,無驕能,無復怒,無謀非徳,無犯非義)。』」
この言葉は子太叔の徳を表しています。
 
[] 沈人が召陵の会に参加しなかったため、晋が蔡に討伐を命じました。
夏四月庚辰(二十四日)、蔡の公孫姓(姓が名。または「公孫帰姓」)が軍を率いて沈を滅ぼし、沈子・嘉を捕えて帰りました。沈子・嘉は殺されました。
 
 
 
次回に続きます。