春秋時代252 東周敬王(二十一) 楚都陥落 前506年(2)
今回は東周敬王十四年の続きです。
[五] 五月、諸侯が皋鼬で盟を結びました。
[六] 会に参加していた杞悼公が在位十二年で死にました。子の隠公・乞が立ちました。
[七] 六月、陳が恵公を埋葬しました。
[八] 許国が容城に遷りました。
[九] 秋七月、魯定公が皋鼬の会から還りました。
[十] 周の劉巻(劉狄。劉蚠。劉文公)が死にました。
[十一] 杞が悼公を埋葬しました。
『春秋左氏伝』にこの事件は書かれていません。
翌年は杞釐公元年になります。
[十三] 秋、沈国が滅ぼされたため、楚が蔡を包囲しました。
これに対して、呉は伍員(伍子胥)を行人(外交官)に任命し、蔡と共同して楚に対抗する方法を謀ります(これは『春秋左氏伝』の記述です。『史記・呉太伯世家』は東周敬王六年・前514年に伍子胥が行人になったとしています)。
楚が郤宛を殺した時(東周敬王五年・前515年)、伯氏の一族が出奔しました。
伯州犁(東周簡王十年・前576年に晋から楚に出奔して太宰になりました)の孫・伯嚭は呉に奔って大宰(太宰)に任命され、楚進攻を建策するようになりました(これも『春秋左氏伝』の記述です。『史記・呉太伯世家』は東周敬王六年・前514年に伯嚭が呉の大夫になったとしています。伍子胥と伯嚭に関しては東周敬王八年・前512年にも述べました)。
楚は昭王が即位してから、連年、呉の攻撃を受けています。
蔡昭侯はこのような状況を知っており、また、晋が楚討伐を拒否したため、子の乾と大夫の子を人質として呉に送り、呉の楚討伐に協力することにしました。
『史記・呉太伯世家』はこの時の呉の様子を書いています。
二人が答えました「楚の将・子常は貪婪で、唐も蔡も楚を怨んでいます。王が討伐するのなら、唐と蔡の協力を得るべきです。」
闔廬はこれに従って兵を起こしました。
[十四] 晋の士鞅と衛の孔圉(または「孔圄」)が鮮虞を討伐しました。前年の報復です。
[十五] 周が劉文公を埋葬しました。
楚の左司馬・戌が令尹・子常(囊瓦)に言いました「子(あなた)は漢水に沿って上下してください(漢水を渡らず、上流と下流の間を行き来して敵を牽制してください)。その間に私が方城外の人を使って敵の舟を破壊し、引き返して大隧、直轅、冥阨(三カ所とも漢水東の険路)を塞ぎます。その後、子が漢水を渡って攻撃を仕掛け、私が後ろから撃てば、大勝は間違いありません。」
子常が同意し、左司馬・戌が出発しました。
ところが武城大夫・黒が子常にこう言いました「呉の兵車は木ですが、我が軍は革を使っています(革製の兵車は強固ですが、雨に濡れると膠が融けて弱くなるという欠点がありました)。長くもちません。速戦するべきです。」
大夫・史皇も子常に言いました「楚人は子(あなた)を嫌っており、司馬(左司馬・戌)を愛しています。もしも司馬が呉の舟を淮水で破壊し、城口(三道)を塞いだら、彼一人で呉を破ったことになります。子は速戦しなければ禍を招くでしょう。」
しかし子常は三戦して勝てないと覚りました。逃走を考えます。
史皇が諫めて言いました「平安な時は事(政事。政権)を求めているのに、難に遭ったら逃げるようでは、どこに行く場所がありますが。子が必死になれば(死に至ったとしても呉に勝てれば)、以前の罪(賄賂を求めて敵の進攻を招いたこと)から逃れることもできるでしょう。」
十一月庚午(十八日)、呉と楚の二師は柏挙(または「柏莒」「伯挙」「伯莒」)に布陣しました。
朝、闔廬の弟・夫槩が闔廬に言いました「楚の瓦(子常の名)は不仁で、その臣には死志がありません。我々が先に攻撃すれば、彼の士卒は必ず逃走します。その後に大師が続けば必ず勝てます。」
闔廬は同意しませんでしたが、夫槩はこう言いました「『臣は義によって行動し、命を待たない(臣義而行,不待命)』という。今日、私が命をかけて戦えば、楚に入ることができるだろう。」
以上は『春秋左氏伝(定公四年)』の記述を元にしました。
『春秋左氏伝』に戻ります。
夫槩は自分に属する兵五千を率いて子常を攻撃しました。子常の士卒が逃走を始め、楚軍は混乱に陥ります。呉軍が大勝して子常は鄭に出奔しました。史皇は乗広(楚王か主帥が乗る車)を率いて戦死しました。
夫槩の戦勝に乗じて闔廬本軍も楚軍を追撃し、清発(川の名)に至りました。更に追撃を続けようとすると夫槩が言いました「困窮した獣でもまだ戦うといいます。相手が人ならなおさらでしょう。もし死から逃れられないと知ったら、敵は命をかけて戦い、必ず我が軍を破ります。わざと先に川を渡った敵を逃がせば、後ろの者はそれを羨み、逃げることだけを考えて戦う意志をなくします。半数が川を渡った時に攻撃するべきです。」
闔廬はこれに従って再び楚軍を破りました。
呉軍の追撃は続きます。
先に逃げた楚軍が食事の準備をしているところに呉軍が現れました。楚軍は慌てて逃走します。呉軍は楚軍の食糧を食べてから追撃を再開し、雍澨(川の名。または清発川の西の地域)で楚軍を破りました。
呉軍は前後五戦して、楚都・郢に至りました。
己卯(二十七日)、楚昭王が妹の季羋畀我(季は兄弟姉妹の序列で末子の意味。羋は楚の姓。畀我が名)を連れて郢から逃走し、睢水を渡りました。
鍼尹(または箴尹)・固が昭王と同じ舟に乗ります。
昭王は象の尾に火をつけ、呉軍に向けて奔走させました。呉軍の追撃が一時止まります。殷商時代には中原にも象がいたといわれており、春秋時代も長江流域に象が生存していたようです。
庚辰(二十八日)、呉軍が郢城に入りました。官爵の尊卑に応じて王宮の部屋が分けられます。子山(闔廬の子)が令尹の宮室に入りましたが、夫槩が攻撃しようとしたため、恐れて去りました。夫槩が令尹の宮室に住みます。
楚の鄖公・鬬辛は、呉軍が宮室を争ったと聞いてこう言いました「『譲らなければ不和となり、不和ならば遠征できない(不讓,則不和。不和,不可以遠征)』という。呉人は楚で争ったので必ず乱が起きる。乱が起きたら必ず帰ることになる。呉が楚を定めることはできない。」
以上は『春秋左氏伝』の記述です。
『春秋穀梁伝(定公四年)』は「国君は国君の寝所に住み、国君の妻を自分の妻とした。大夫は大夫の寝所に住み、大夫の妻を自分の妻とした」と書いています。
『春秋公羊伝(定公四年)』にも「国君は国君の室を舎とし、大夫は大夫の室を舎とした」とあります。
次回に続きます。