春秋時代253 東周敬王(二十二) 楚昭王の逃走 前506年(3)
今回で東周敬王十四年が終わります。十一月の続きからです。
[十六(続き)] 楚の左司馬・戌が息から戻って雍澨で呉軍を破りましたが、負傷しました。
以前、左司馬・戌は呉に居り、闔廬に仕えていましたが、後に闔廬から離れて楚に仕えたため、捕虜になることを恥と思い、最期まで戦って死ぬ決意をしました。そこで臣下にこう問いました「わしの首を呉から逃れさせることができる者はいないか(戦死してからわしの首を守る者はいないか)?」
呉句卑が言いました「臣は卑賎ですが、宜しいですか?」
戌が言いました「わしは子(汝)の才を今まで知らなかった。問題ない。」
この後、戌は三回戦って三回とも怪我を負い、「わしはもうだめだ」と言いました。呉句卑は戌の死を見届けると、その首を切って自分の裳(服の下半身部分)で包み、戌の体を隠してから首を守って逃走しました。
楚昭王が雎水を渡り、長江を越えて雲中に入りました。
昭王が寝ている間に盗賊が襲い、賊の一人が戈で昭王を撃とうとしました。それを見た王孫由于が背を戈に向けて昭王を守り、肩を負傷しました。
昭王は鄖(楚邑)に奔り、鍾建が季羋畀我を背負って後に続きました。負傷して倒れた王孫由于も暫くして目を覚まし、昭王の後を追いました。
鄖公・鬬辛の弟・鬬懐が昭王を殺そうとしてこう言いました「かつて平王は我が父(蔓成然。令尹・子文の後代)を殺しました(東周景王十七年・前528年)。我々がその子を殺して、何がいけないのですか。」
鬬辛が言いました「国君が臣下を討ったのだ。誰がそれを讎とできるのだ。君命は天命と同じだ。天命によって死んだのに、誰を讎とするのだ。『詩(大雅・烝民)』にはこうある『柔らかくても呑み込まず、硬くても吐き出さない。弱者を虐げず、強者を畏れない(柔亦不茹,剛亦不吐。不侮矜寡,不畏彊禦)。』これは仁者にできることだ。強者(父を殺した時の平王)を避けて弱者(敗戦した昭王)を凌辱するのは非勇だ。人の約(苦境)につけ入るのは非仁だ。宗を滅ぼし祀を廃す(国君弑殺の罪は宗族皆殺しに当たります)のは非孝だ。行動に令名(美名。大義名分)が無ければ非知(明智ではないこと)だ。汝がそうするというのなら、余は汝を殺さなければならない。」
鬬辛と別の弟・鬬巣は鬬懐の凶行を警戒して、昭王と共に隨に奔りました。
以上は『春秋左氏伝』の記述です。『国語・楚語下』にもこの時の事が書かれています。
呉軍が楚に入った時、楚昭王は鄖に奔りました。鄖公の弟・懐が昭王を殺そうとしたため、鄖公・辛がそれを諫めました。すると懐が言いました「平王は我が父を殺しました。王が国に居れば我が君ですが、国の外に出たら讎です。讎に遭いながら殺さないようでは、人ではありません。」
鄖公が言いました「国君に仕える者は王が国内に居ても国外に居ても態度を変えてはならず、王の豊約(盛衰)によって態度を変えてもならない。国君に対しての尊卑は一定したものである。そもそも、自分と身分が対等かそれ以下の者なら讎とみなすことができるが、そうでなければ讎ではない。下が上を虐げる(殺す)ことを弑といい、上が下を虐げることを討という。彼は我々の国君ではないか。国君が臣下を討って、何を讎とするのだ。もしも皆が国君を讎としたら、上下の秩序がなくなってしまうだろう。我々の先人は国君に善く仕え、諸侯に名が聞こえ、鬬伯比(令尹・子文の父)以来、名声を失うことがなかった。今、汝のためにそれを失うようなことになってはならない。」
しかし懐はこう言いました「私は父を想うだけです。それらの事に顧みることはできません。」
鄖公は昭王を守って隨に奔りました。
『春秋左氏伝』に戻ります。
呉軍が楚昭王を追撃して隨人に言いました「周の子孫で漢川(漢水)一帯にいた者は、全て楚に滅ぼされた(呉も随も周と同じ姫姓です)。しかし天が意思を示し、楚に罰を降した。それなのに貴君は仇を匿っている。周室に何の罪があるというのだ。貴君がもしも周室の恩に報い、それを寡人に及ぼし、天の意志を成そうというのなら、それは貴君の恩恵である。漢陽の田(漢水北の地)は、貴君が擁すことになるだろう。」
楚昭王は随の公宮の北に住み、呉軍は南に駐軍しました
楚昭王に似ている子期(または「子綦」。公子・結。昭王の兄)が追手から逃れて昭王に合流しました。子期が王の服を着て言いました「私に任せてください。(私が身代わりになれば)王は禍から逃れられます。」
しかし隨人が子期を呉軍に渡すべきか卜うと、「不吉」と出ました。
そこで随人は呉軍にこう回答しました「隨は辟小(辺境の小国)で、楚に近接しているので、楚によって存続を守られており、代々盟誓を立てて今まで改めませんでした。難に遭ったからといってそれを棄てたら、どうして貴君に仕えることができるでしょう。執事(呉の執政官)の患いは一人(昭王)だけではありません(呉は楚人全てを服従させる必要があります)。もし楚の境内を安定させることができるのなら、その命に従います。」
呉軍は引き上げました。
『史記・楚世家』はこの時の事をこう書いています。
昭王の従臣・子綦が王を安全な場所に隠し、自ら王の姿をして隨人に言いました「私を呉人に与えてください。」
隨人がそれを卜うと、「不吉」と出ます。
呉軍は随国に入って捜索しようとしましたが、隨国が同意しなかったため、兵を返しました。
『春秋左氏伝』に戻ります。
鑢金はかつて子期の家に仕えていたため、隨人との間で「楚王を呉に渡さない」という約束をしました。楚王を渡さないというのは、子期を渡さないということになります。
それを知って喜んだ昭王は鑢金を接見し、王を代表する臣として随人と盟を結ばせようとしました。しかし鑢金は辞退してこう言いました「(王の)困窮を利用して自分の利益(会盟の主に抜擢されること)とするつもりはありません。」
昭王は子期の胸を切って血を取り、自ら隨人と盟を結んで協力を誓いました。
伍員は楚にいた頃、大夫・申包胥(『秦本紀・正義』によると、包胥の姓は公孫です。申に封じられたため申包胥といいます)と友になりました。楚から亡命することになった時、伍員が申包胥にこう言いました「私は必ず楚国を復(覆。転覆。滅亡。または報復)させる。」
申包胥が言いました「勉めなさい。子(あなた)に復させることができるのなら、私には興すことができる。」
昭王が隨に逃走した時、申包胥が秦に行って援軍を請いました。申包胥が秦哀公に言いました「呉は封豕(大豚)・長蛇で上国(中原諸国)をしばしば侵食しており、その虐(害)は楚から始まりました。今、寡君は社稷の守りを失い、遠く草莽(草叢)の中に住むことになったため、下臣(私)を送って急を告げさせました。以下、寡君の言葉です『夷の徳(本性)は無厭(限りなく貪婪)なので、もし(呉が楚を占領して)貴君の隣国となったら、貴君の疆場(国境)の患いになります。しかし呉国が安定する前に動けば、貴君はその地を分割できます。楚がこうして亡ぶというのなら、楚は貴君の領土となることを願います。もし貴君の威霊によって楚国を按撫できるのなら、楚は代々貴君に仕えましょう。』」
秦哀公は出兵を躊躇してこう言いました「寡人は命(楚王の言)を聞いた。子は暫く館に行って休め。方針を図って連絡する。」
申包胥が言いました「寡君は草莽の中に居り、落ち着く場所を見つけていません。なぜ下臣が休めるでしょう。」
この時から申包胥は庭の壁に寄りかかって立ったまま哀哭し、昼も夜も哭声を途絶えさせることなく、七日間何も口にせずに哭し続けたといいます。
秦哀公は心を動かされて『無衣』を賦しました。『詩経・秦風』に収録されている詩で、共通する敵を倒すために出兵するという内容です。
申包胥は九回頓首してからやっと坐りました。
こうして秦の兵車五百乗が楚に向かいました。
楚も生き残った兵を集結して呉との戦いに備えます。
露が自立しました。これを靖公といいます。
次回に続きます。