春秋時代255 東周敬王(二十四) 楚昭王の帰還 前505年(2)

今回は東周敬王十五年の続きです。
 
[] 楚昭王が郢に還りました。
史記・楚世家』は九月としていますが、『春秋左氏伝(定公五年)』は十月に書いています。
楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この時、昭王は十五歳にもなっていません。
 
昭王が隨に奔った時、成臼(臼水。臼成河)を渡ろうとしましたが、藍尹・亹(楚の大夫)が妻子を舟に乗せて先に川を渡り、昭王に舟を譲りませんでした。
楚が安定してから昭王は亹を殺そうとしました。しかし子西が諫めていいました「子常は旧怨を忘れることができなかったから敗れたのです。君王はなぜそれに倣うのですか。」
昭王が言いました「その通りだ(善)。彼を元の官に戻し、前悪(以前の過失。子常の失政で滅亡の危機に瀕したこと)の志(記録。戒め)としよう。」
 
以上は『春秋左氏伝(定公五年)』を元にしました。この出来事は『国語・楚語下』にもあります。
呉軍が楚に進攻したため、楚昭王は出奔して成臼を渡ろうとしました。昭王は藍尹・亹が妻子を舟に乗せているのを見て、「わしも乗せてくれ」と言いました。
しかし藍尹・亹はこう言いました「先王以来、一人も国を失った者はいません。国君になりながら亡命することになったのは、国君の過ちです。」
藍尹・亹は昭王をおいて去りました。
昭王が楚都に帰ってから、藍尹・亹が謁見に来ました。昭王は藍尹・亹を捕えようとしましたが、子西が言いました「まずは彼の話を聞きましょう。彼が来たのには理由があるはずです。」
昭王が人を送って藍尹・亹に問いました「成臼の役では不穀(国君の自称)を棄てたのに、また会いに来たのはなぜだ?」
藍尹・亹が使者に言いました「かつて瓦囊瓦。子常の名)は長く旧怨を想ったため、柏挙で敗れて国君に禍をもたらしました。王がそれに倣うのは相応しくありません。臣が成臼で王を避けたのは、王を戒めるためです。悔い改めることができたのではありませんか。今、こうして会いに来たのは、国君の徳を観るためです。王は敗戦の恐怖を知り、以前の過失を教訓にするべきでしょう。もし以前の過失を改めず、逆に増長するようなら、国君は国を有しながら国を愛さないのと同じです。臣は死んでも惜しくありません(そのような国君の下に居るようなら死んだ方がましです)。自ら司敗(楚の司寇。法官)に行って死ぬだけです。国君はよく考えるべきです。」
子西が言いました「彼の官位を元に戻し、かつての失敗の教訓とするべきです。」
昭王は藍尹・亹を接見しました
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
昭王は辛、王孫由于、王孫圉、鍾建、、申包胥、王孫賈、宋木、懐を賞しました
子西が言いました「懐をはずすべきです。」
懐は昭王を殺そうとしたからです。
しかし昭王はこう言いました「大徳によって小怨を滅ぼすのが道である。」
 
これは『国語・楚語下』にも記述があります。
楚都に帰った昭王が鄖公・辛辛)と弟の懐懐)賞賜を与えようとしました。しかし子西が諫めていいました「国君には二臣がいますが、一人(辛)は賞するべきであり、一人(懐)は戮する(処刑する)べきです。君王が共に賞賜を与えたら(賞罰が公平ではなくなるので)群臣が危惧します。」
昭王が言いました「子期(蔓成然の字。鄖公の父)二子のことを言っているのか。わしは彼等を理解している。彼等の一人は国君に対して礼があり、一人は父に対して礼があった。共に賞しても問題ないではないか。」
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
褒賞された申包胥が言いました「私は国君のために働いたのであり、自分の身のためではありません。既に国君を安定させることができたのです。これ以上、望むことはありません。そもそも、私も子旗(蔓成然。欲に限度がなかったため平王に殺されました。東周景王十七年・前528年参照)を憎んでいます。それを真似るつもりはありません。」
申包胥は褒賞から逃げました。
 
申包胥に関しては『新序・節士(第七)』にも書かれています。
昭王が国に帰ってから、申包胥に賞賜を与えようとしました。しかし申包胥はこう言いました「国君を補佐して国を安定させるのは、自分の身のためではありません。危急を救って害を除くのは、自分の名声のためではありません。功が成って賞を受けたら、勇を売ったことになります。国君が既に安定したのに、それ以上求めることはありません。」
申包胥は褒賞から逃げて姿を隠しました。
君子(知識人)は申包胥をこう評価しました「申子は命を受けなくても秦に赴いた。これは忠である。七日七夜声を絶つことなく泣き続けた。これは(忠厚。誠実)である。そして賞を受けなかった。これは不伐(功績を誇示しないこと)である。しかし賞とは善を奨励するためにある。賞を辞退したのは、常法(固定の制度。慣例。正しい態度)とはいえない。」
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
昭王が妹の季羋畀我を嫁がせることにしました。結婚相手が決められます。この年、昭王が十五歳未満だとしたら、妹は更に幼少なので、後年の事かもしれません。
昭王の話を聞いた季羋畀我は王が決めた相手を拒否してこう言いました「女子というのは丈夫(男)を遠ざけるものです。しかし鍾建が私を背負いました(呉に攻められて逃走した時の事です)。」
昭王は季羋畀我を鍾建に嫁がせ、鐘建は楽尹になりました。
 
昭王が隨にいた時、子西が王の輿服(車と服)を使って潰散した楚人を集め、脾洩(楚の邑)に臨時の国都を建てて人心を安定させました。
後に昭王が随にいると知って昭王に合流しました。
昭王は帰国してから王孫由于を派遣して麇に築城させました(下の会話を見ると、実際には子西が王孫由于に築城を命じたようです)
暫くして王孫由于が復命すると、子西が城壁の高さや厚みを問いました。しかし王孫理于は答えられません。
子西が言いました「能力がないのなら辞退するべきだ。城の高さも厚みも知らず、どうして大小を知ることができるか(何を知ることができるのだ)。」
王孫由于が答えました「私は能力がないので固辞しましたが、子(あなた)が私を派遣したのです。人にはそれぞれできることとできないことがあります。王が雲中で盗賊に遭った時、私は戈を受けました。その時の傷はまだ残っています。」
王孫理于は服を脱いで背を見せると「これ(体を張って王を守ること)は私ができることです。脾洩の事(国を立て直すために政治を行うこと)は、私にはできないことです」と言いました。
 
[十一] 冬、晋の士鞅が鮮虞を包囲しました。観虎の役(二年前)の報復です。
 
[十二] この年、燕平公が在位十九年で死に、簡公が立ちました。『資治通鑑外紀』によると、簡公は恵公と書かれることもあります。
 
[十三] 『資治通鑑外紀』に「日が地に落ちた(日隕于地)」「塵が豊(地名)に入った(有塵入豊)」という記述がありますが、出典を探しきれなかったので、具体的に何が起きたのかは分かりません。
 
[十四] 『資治通鑑前編』によると、この年、魯で曾参が産まれました。孔子の弟子です。
以下、『史記・仲尼弟子列伝』からです。
曾参は南武城(魯に属します)の人で、字を子輿といいます。孔子より四十六歳年下でした。
孔子は曾参が孝道に通じることができると考え、学業を授けました。
後に曾参は『孝経』を著します。
 
[十五] 『史記・陳杞世家』によると、この年、楚を破った呉が陳侯(懐公)を招きましたが、懐公は病と称して辞退しました。東周敬王十八年(前502年)に再述します。
 
 
 
次回に続きます。